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十一代目団十郎の弁慶

昭和40年3月歌舞伎座:「勧進帳」

十一代目市川団十郎(弁慶)、二代目尾上松緑(富樫)、三代目実川延若(義経)、三代目市川左団次(口上)

(七代目幸四郎十七回忌追善興行)


1)「勧進帳」の式典化

本稿で取り上げるのは、昭和40年(1965)3月歌舞伎座での、「勧進帳」の舞台映像です。同月は七代目幸四郎十七回忌追善興行と云うことで、当時八代目幸四郎は東宝と専属契約でしたが・特別出演で、高麗屋三兄弟が久しぶりに歌舞伎座に勢揃いしました。また「勧進帳」の配役は団十郎・幸四郎・松緑が弁慶と富樫を、延若・雀右衛門・福助(後の七代目芝翫)が1日替わりで演じると云うのも大きな話題になりました。本稿での映像は、団十郎・松緑・延若の組み合わせです。注目は、何と云っても十一代目団十郎が演じる弁慶です。記録を見ると団十郎が弁慶を演じたのは、十一代目団十郎襲名興行(昭和37年・1962・4月と5月歌舞伎座)での「勧進帳」が最初のことでした。それ以前の団十郎(つまり海老蔵時代)は、戦前の十五代目羽左衛門を跡を継ぐ・戦後昭和の富樫役者として鳴らしていたのですが、襲名以後はもっぱら弁慶を勤めました。団十郎は昭和40年(1965)11月十日に亡くなりました。襲名時の弁慶は映像が収録されなかったようなので、これが団十郎の唯一の弁慶の舞台映像になります。

この「勧進帳」(昭和40年3月歌舞伎座)には、珍しいことに冒頭に三代目左団次による上演口上が付いています。実は十一代目団十郎襲名興行の「勧進帳」でも口上内容は若干異なりますが、左団次による上演口上が付いていました。(名古屋・京都・大阪での襲名興行の「勧進帳」では口上が付かなかったようです。)どちらの口上でも「弁慶は二代目団十郎が初めて演じ・これを七代目が能仕立てとして・九代目が練り上げた」という来歴を長々と語ります。このような上演口上は、もちろん襲名とか追善という特別な事情だから付いたものに違いないですが、十一代目団十郎の「勧進帳」への格別な思い入れを示してもいるでしょう。上演に先立ち「勧進帳」が如何に歌舞伎にとって特別なものであるかを長々と述べる。これはつまり勿体(もったい)を付けて、歌舞伎十八番の式典化・延いては梨園のなかでの市川宗家の権威の復興を意図したものでしょう。つまりこれは「勧進帳」を市川家の手に取り戻すための儀式なのです。

団十郎は、若い時にはとても無口な人で、「お辞儀の金ちゃん」と云われたほど腰が低かったそうです。ところが襲名してからの団十郎は、約4年くらいの短い団十郎でしたけれども、態度が一変して、肩肘張った発言が多くなり、周囲に物議を醸すことがとても多くなりました。数え上げればきりがないですが、松竹に昼夜二部制の改革を進言し受け入れなければ自分は芝居に出ないと云ってみたり、大佛次郎の新作顔寄せの時に「この役は納得できない」として突然降板したり、三代目猿之助襲名に際し宗家への相談がなかったことを理由に結局襲名興行に同座しなかったり、武智鉄二演出・五代目富十郎の観世流のかんとん縞の水衣の弁慶に戻した「勧進帳」に文句を付けたり、団十郎はいろいろ騒ぎを引き起こしました。どうやらこれらすべて梨園のなかで空白になっていた市川宗家の権威の復興を目指し、自らそれに相応しい梨園のリーダーたらんとする団十郎の気負いから出ていたようです。

明治36年(1903)に九代目団十郎が亡くなってから、昭和37年(1962)新たな団十郎が誕生するまでの約60年間、梨園に「団十郎」はいなかったのです。一方、その間に九代目は「劇聖」と呼ばれて、「団十郎」の神格化が進みました。「団十郎」は歌舞伎の象徴となり、これを持ち上げることが世間に対し歌舞伎全体の価値を高めるための重要なツールとなっていたのです。梨園に「団十郎」がいなかったからこそ気楽に「団十郎」の神格化が出来たのです。ところが昭和37年に新しい団十郎が誕生して「お待たせしました、私が梨園の新しいリーダーです」と言い始めると、周囲は「イヤちょっと待ってくれよ、そんなつもりで団十郎を持ち上げていたわけじゃないんだよ」という戸惑いが出て来るわけです。みんなそれぞれ一癖も二癖もあるプライドある役者たちです。それでいろいろ物議を醸すことになりました。そんなギクシャクした雰囲気を察したところで団十郎は名実ともに真の宗家たらんと孤軍奮闘していたのです。現在「勧進帳」では、たとえ市川家の弁慶であろうが上演口上が付きませんが、考えてみれば九代目団十郎の時代にそんなものがあったはずもなく、上演口上が付くことは随分仰々しいことではあるのです。現在の「助六由縁江戸桜」に口上が登場して本作の故事来歴を述べて「河東節十寸見会御連中様どうぞお始めくださりましょう」とやるのも我々は当たり前の儀式のように思って見ますけれども、よくよく考えてみれば、これもつい最近・昭和37年の団十郎襲名からのことなのです。(この稿つづく)

(R2・9・13)


2)市川宗家の「勧進帳」

明治36年(1903)九代目団十郎が亡くなって昭和37年(1962)新たな団十郎が誕生するまで、「勧進帳」の弁慶は九代目の高弟たちによって演じられて来ました。とりわけ演劇史的に重要なのが、七代目幸四郎の弁慶であることは言うまでもありません。七代目幸四郎が弁慶を演じたのは、1,700回を超える(一説には1,800回とも)と言われています。七代目幸四郎が亡くなったのは昭和24年(1949)のことですが、昭和30年代に在っても世間的には「勧進帳」といえば高麗屋のイメージでした。しかし、それは繰り返し演じられていくなかで元の九代目団十郎の弁慶とは若干違った感触のものになっていったかも知れません。(それが悪いと言っているのではありません。違った感触となったという事実のみです。)例えば九代目団十郎の舞台を生(なま)で見た遠藤為春はこんな証言をしています。

(渋)(十五代目羽左衛門の)助六なんかはどうですか。
(遠)これは昔は団十郎以外はやらなかったから。
(渋)ダメですか。
(遠)だれも足元に及びませんよ。
(渋)写真で見ると団十郎って人はそう大きい人じゃないでしょう。だから(十五代目)羽左衛門の方が見栄えがあるというような気がするんだけれど。
(遠)しませんね。それはもう大変な違いです。
(渋)例えば弁慶なんかなら、先代(七代目)幸四郎の方が立派に見えるように思いますけど。
(遠)だけどもダメですね。
(渋)動かなくても出てきただけでもダメですか。
(遠)ダメですね。

(対談「歌舞伎よもやま話」・渋沢秀雄・遠藤為春・季刊雑誌「歌舞伎」第6号・昭和44年)

『あの人(市川新蔵)がいたならば、団十郎の家のものはもっとちゃんとしたものが残りましたよ。「助六」でも「勧進帳」でも、おそらく団十郎のしたものは全部。「五郎」にしても「清正」にしても「熊谷」にしても「河内山」にしても、今のようなでたらめなものではありませんよ。(中略)本当の団十郎の性根をつかんでいるのは新蔵と六代目(菊五郎)だけですね、私の見た役者では。ですから不幸にして菊五郎が五代目菊五郎の子であって、「魚屋宗五郎」や何かがはまって「熊谷」なんかができないで、これは不幸なんだが、もし菊五郎が「熊谷」や何かのできる人だったら団十郎になりますね。新蔵も性根をつかんでいる。本当の団十郎の系統を継げたのは菊五郎と新蔵しかいない。強いて言えば死んだ(五代目)歌右衛門でしょうね。あとはみんな団十郎の魂がちっとも入っておりませんね、そう思いますがね。』(遠藤為春聞書:「私の見た名優」:昭和32年「演劇界」連載)

遠藤為春は、七代目幸四郎の弁慶は「駄目だ、全然違う」と繰り返すばかりで、具体的にどこがどう違うと云うことを言いません。しかし、古老の証言はこれで十分役目を果たしているのです。九代目団十郎の弁慶は、映画に遺っている七代目幸四郎の弁慶とは、どうやら違うらしいということさえ分かれば十分です。どこがどう違うかを想像するのは、我々の仕事です。十一代目は七代目幸四郎の長男であるわけですが、昭和14年(1939)30歳の時に市川宗家に養子に入りました。団十郎の養母・二代目翠扇(九代目の長女実子)は、七代目幸四郎の弁慶を見る度に「いやだ、いやだ・・」とブツブツ言っていたそうです。九代目の弁慶について、養父母からいろいろ不満を聞かされたに違いない。養子に入った時から団十郎は、高麗屋のものでない市川宗家のものとしての(つまり実父・七代目幸四郎のものとは違う)「勧進帳」を創り上げねばならぬ使命を負ったと云えるでしょう。市川宗家にとって「助六」と「勧進帳」は、かほどに特別な演目なのです。

そこで昭和40年(1965)3月歌舞伎座での「勧進帳」の映像を見ると、団十郎は押し出しもあって・立派な弁慶ですが、仁(ニン)からすると、確かに団十郎は富樫の方に向きの人で、弁慶向きではないのだろうなあと云う気がします。(団十郎の富樫については昭和36年2月歌舞伎座の映像を参照のこと。)富樫の方が声が良く伸びますし、自由に演じている感じがします。弁慶では内に籠った力感を出そうとして・声を低めに太く出そうとしており、無理があると云うほどではないが、全体に芝居っ気を抑え気味に、きっちり演じようとする感じが強いようです。これは前章で「勧進帳」の式典化と云うことを書きましたが、なるほどこれに沿った印象です。つまり団十郎の弁慶は、父・七代目幸四郎によって実録風(芝居)の方へ動いてきた「勧進帳」をいくらか能掛かり(様式化・荘重化)の方向へ引き戻そうとしているように感じるのです。これが市川宗家の「勧進帳」と云うことでしょうか。(この稿つづく)

(R2・9・16)


3)団十郎の弁慶・松緑の富樫

芝居の感触は配役によって大きく変わるものですが、数十年のスパンで以て同じ作品を眺めてみると、時代の変遷に沿った作品の感触の変化が朧げに浮かび上がってきます。そこから作品の本質を論じることが可能です。「勧進帳」の場合であると、二つの相反した表現ベクトルが見て取れます。ひとつは「勧進帳」の高尚志向で能的な表現に近づいていこうとするものであり、もうひとつは元禄歌舞伎(歌舞伎十八番)の系譜になる歌舞伎の心を大事にしようとするもので、このふたつの表現ベクトルが押し合い・引き合いしながら、「勧進帳」の様相が次第に変容していきます。(別稿「勧進帳のふたつの意識」を参照ください。)

明治前半の急進的な雰囲気を考えても、九代目団十郎の弁慶は、恐らく荒事の要素を持ちつつも能掛かり的な雰囲気を強く意識したものであったと想像が出来ます。つまり高尚化とは能の雰囲気に近づくことを意味しました。この師・九代目団十郎の弁慶を高弟たちが引き継いで、その後も「勧進帳」は変化して行くわけですが、「勧進帳」の高尚化は史劇化・実録化という方向で進んだようです。安宅の関の出来事がまるで史実のような、生きた弁慶がそこにいる感覚になって行くのです。延年の舞も、富樫の面前で酒に酔って舞うと云うリアルさが前面に出ます。その分、能掛かり的な雰囲気がいくらか弱まることになります。このことは七代目幸四郎(弁慶)・十五代目羽左衛門(富樫)による・歴史的な「勧進帳」映像(昭和16年・1941)を見れば確認出来ます。この映像を見れば、ああ昔の「勧進帳」は芝居っぽかったんだなあと思います。また同じことを昭和36年2月歌舞伎座での八代目幸四郎の弁慶においても感じます。八代目幸四郎が先代からの流れをよく引き継いでいるからですが、このことは昭和30年代の雰囲気を考えても納得が行くと思います。

一方、今日歌舞伎座でみられる「勧進帳」は、様式っぽい能掛かりの印象が強いと感じます。舞踊劇っぽいという印象もありますねえ。つまりあまり芝居っぽくないと云うことです。(ご注意いただきたいが、それが悪いと云っているのではありません。「様式っぽい」という事実のみです。)いつ頃からそうなって来たのかは明確に云えませんが、大体、それは昭和の終わり頃から平成初め頃からそうなってきたと思います。(つまり吉之助がリアルタイムで歌舞伎を見始めた時代です。)この流れの発端のところに十一代目団十郎の「勧進帳」を置いてみることが出来そうです。

しかし、十一代目団十郎の弁慶は、今日歌舞伎座で見るほど能掛かりの印象が強いわけではありません。ただし芝居っ気を抑え気味に・きっちり演じようとする感じが強いようで、そこに様式への意識を感じます。やたら目を剥くことはせず、表情の変化は極力抑えられています。勧進帳読み上げも、富樫(二代目松緑)との山伏問答も、ドラマチックに大きくアッチェレランドの変化を付けるのではなく、むしろ台詞のリズムの刻みを大事にして淡々としています。もちろんご主人大事という性根はしっかり腹に納めています。したがって十一代目団十郎の弁慶では、端正な印象が強くなります。ここで団十郎の立派な柄が生きてきます。ここに吉之助は新たな団十郎の「勧進帳」の様式化・荘重化の表現ベクトル、市川宗家の権威復興への意志を感じるのです。

もうひとつ触れておきたいのは、今回(昭和40年3月歌舞伎座)「勧進帳」での弁慶と富樫の声質バランスの件です。一般に「勧進帳」は、戦前の十五代目羽左衛門・戦後昭和の十一代目団十郎・平成の十五代目仁左衛門と、富樫を高調子のイメージで捉られています。これは安宅の関で義経一行の通過を認める富樫の爽やかさなイメージにつながるので・それはそれで良いものですが、本来の弁慶と富樫の声質バランスは、九代目団十郎の弁慶(高調子)・五代目菊五郎の富樫(低調子)なのです。(ちなみに「鞘当」(浮世塚比翼稲妻)の不破伴左衛門と名古屋山三郎も同じ音楽的配置がされています。もちろん不破が高調子で、名古屋が低調子です。)今回の弁慶(団十郎・高調子)と富樫(松緑・低調子)の声質バランスは、この理想形に沿うものとなっています。

失礼ながら松緑は体格がズングリで・爽やかさな風姿とは云えないし、この低調子の富樫はどうかなと不安に思う方は少なくないと思います。しかし、声を強く張り上げたりしないのに、松緑の富樫はホントに感嘆するほど堅実で良いものです。台詞のリズムは淡々と感じられると思いますが、おかげで弁慶との対照が際立ち来ます。団十郎の弁慶の端正な印象を引き立てているのは、半分くらい松緑の富樫の功績と云っても良いほどです。この山伏問答を見れば、「富樫は低調子なのがバランス的に本来のものだ」ということは、一見して理解されると思います。

(R2・9・17)


 
 

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