五代目菊之助による源九郎狐〜「義経千本桜」
令和2年3月国立小劇場:通し上演「義経千本桜」〜Cプロ 「道行初音旅・川連法眼館」
五代目尾上菊之助(佐藤忠信実は源九郎狐)、五代目中村時蔵(初代中村萬寿)(静御前・道行)、四代目中村梅枝(六代目中村時蔵)(静御前・川連館)、四代目中村鴈治郎(源義経)
(新型コロナ防止対策による無観客上演映像)
1)道行の源九郎狐
本稿で取り上げるのは、令和2年(2020)3月国立小劇場での、菊之助の狐忠信による「義経千本桜」・Cプロの無観客上演映像です。なお菊之助の「吉野山道行」の忠信は、平成12年(2000)4月金丸座で初役で勤めて以来、3度目になります。また「川連館」の忠信は平成24年(2012)7月の公文協巡業が初役で、昨年(令和元年・2019)9月にNHKホールで1日だけ演じた・文楽共演の「川連館」を入れれば、今回が3度目と云うことになります。
「道行・川連館」通して全体としてかつきりした印象で、菊之助の真面目な性格がよく出て手堅い出来だと思いますが、まだ莟の花で・もう少し芸に余裕が出てくれば、ふっくらした味わいになってくるでしょう。芸はまず出発点をしっかり押さえていかねば、その後の順調な発展は期待出来ません。菊之助はその道程はしっかり取れていると思います。そのことを認めたうえで申し上げれば、もう少し浮き立つところが欲しい。もうちょっと遊び心が欲しいとでも言っておきましょうか。
例えば「道行」は男女ふたりの道行、実は女主人とその家来・さらに家来は実は狐が化けていると云うのだから洒落たものですが、だから夫婦事めいた艶やかさがもう少し欲しいところです。静御前は「この人、私に気があるのかしら」と思い(実は狐忠信は静が持っている鼓が気になっているだけのことです)、静も女心にそう思われるのが満更でもないらしいという奇妙なすれ違いと云うところが面白いのでしょう。ところが菊之助の忠信はそこにきっちり一線を引いているような律義さです。それと意外なことでしたが、今回は時蔵の静御前が何だか暗めで気乗りしない印象であったのは困ったことですねえ。静が良くないと「道行」は浮き立って行かないと思います。
気になることは、菊之助は八島合戦の軍語りの箇所を「道行」のクライマックスと考えているように見えることです。錣引き・継信戦死の件を菊之助はホント気を入れて踊っています。もっともこれは菊之助に限ったことではありません。ここを真剣な表情でしゃかりきにやる役者は少なくありません。これは良いことのように思うでしょうが、ホントはあまり本気でやらずに・軽いタッチで済ませる場面だろうと思います。七代目三津五郎が「舞踊芸話」のなかで次のように語っています。
『継信の討死の件りで、まるでほんとうの忠信になったつもりで、愁嘆を利かせて真剣にやったりするのは間違いで、この忠信は親狐の鼓の皮に惹かされた子狐が化けて出ているのですから、そんなにムキになっては理屈に合いません。』(七代目三津五郎:「舞踊芸話」)
このことは構成面からも裏付けられることで、現行の「道行」の八島語りは、元来丸本になかった悪七兵衛景清の錣引の場面を挿入して膨らませたものだからです。ここは恐らく八島語りは勝ち修羅だ・目出度いと云うことで膨らませたものでしょう。そもそも継信戦死を語るのに関係のない景清の錣引が突然出てくるのも面妖な話ですが、この不自然さを考え合わせれば、軍語りの件は軽めに済ませた方が良いことは理解できると思います。(別稿「八島語り考」を参照ください。)だから今回のように清元・竹本掛け合いにして、軍語りになると竹本が登場して「サアここからは本格に行きますよ」と云うやり方は、地方の立場からはもちろんそれで結構ですが、本来的な意味からすれば軍語りのバランスがあまり重くなり過ぎては困ると云うことなのです。そうでないと景事になりません。長い芝居のなかの息抜きの場面にならぬと云うことです。
それにしても今回の「千本桜」三役を通じて云えることですが、菊之助は時代物としての「千本桜」の重さを強く意識し過ぎのように思われますねえ。「道行」幕切れの・幕外の引っ込みも、重ったるい。ドロドロで狐手になって一瞬でサッと戻る、その変わり目が実に重ったるい。まるで怨霊が出て来たみたいです。ここは軽く、もっと軽く明るく。まあ最初の段階ではこれで良いです(いい加減に崩れているよりずっとマシです)が、いずれは親父さん(菊五郎)のような軽みを身に付けていただきたいですね。(この稿つづく)
(R2・4・20)
2)川連館の源九郎狐
今回(令和2年3月国立小劇場)の菊之助の川連館の狐忠信は、確かに昨年9月NHKホールで文楽の咲太夫と共演した成果を踏まえたものになっているとはっきり見て分かるものでした。身のこなしが丁寧で、角々の形がしっかり取れています。それは所作が台詞の息をよく理解したところで行なわれているからです。ここで咲太夫との共演の経験が活きています。ですから今回の狐忠信は、折り目正しく・かつきりして古典的な趣に仕上がりました。悪くない狐忠信だと思います。
ところで歌舞伎の「千本桜」通し上演では、鳥居前の荒事の忠信、道行の舞踊の忠信、川連館のケレンの忠信と、忠信の三つの要素を描かねばならなくなります。ひとつ役と云うわけに行かないのです。今回の菊之助だと、鳥居前が一番良い出来で、川連館がそれに次ぎ、道行が重ったるくていまひとつという感じですかねえ。だが全般的に時代の感触の方に寄り気味だということは云えそうです。こういうことは個々にバラバラに演ずる分には別に気にする必要もないことですが、通し上演の場合であると、忠信の性根の一貫性をどこに持たせるかは、じっくり考えるべきことです。そこで、これを菊之助に今後の課題として、狐忠信に時代物としての「千本桜」の重さを過度に負わせないようにして欲しいと思うのです。これはむしろ逆でありたい。吉之助は狐忠信に「千本桜」のなかで一服の風のような軽さを与えたいと思います。そう云えば郡司正勝先生がこんなことを語っています。
『「(千本桜)四段目」で親子の情だの何だのと言うのは、私は違うと思うんだ。化かされのああいうものが面白いんだから、どこまでもケレン芝居で、もう眠くなる時刻なんだから、あそこまでくれば浮かせて見せないと。狐がいくら人間の情を見せたって、人間はそんな同情するわけにはいかないんだよ。(狐が擬人化されていると言うが)それは見ている方がそういう風に理屈をつけているわけなんでしょうけど、そうでもして見なきゃ見られないということになっちゃうから、一応、人間の情を写して見せるんだけど、それには限度というものがあるから、あんまりリアルにその情を見せると興醒めしてしまう。程度の問題ですけどね。』(郡司正勝:合評「三大名作歌舞伎」・歌舞伎・研究と批評・第16号)
菊之助の狐忠信は、親子の情だの何だのと云うところを重く見ているようです。もちろんそれは性根として間違いではありませんが、「千本桜・川連館」を時代物として重く見て、主題を狐忠信が背負うと考えると、どうしても役の感触が重くなってしまうようです。現代人の劇感覚からするとそうなるのはやむにやまれぬところがあるのだけれど、むしろ吉之助は「千本桜」の重さのなかに軽さで切り込んで物語をバロック的に解体するのが狐忠信の役目だと考えたいのです。そうすると狐忠信の感触が軽やかなものになっていくだろうと思うのです。
初音の鼓は、「この鼓の裏皮は義経、表皮は頼朝、鼓を打てとは頼朝を討てとの院宣」として義経に与えられたものでした。義経はこの院宣を拒否できませんでした。やむを得ず「拝領申しても打ちさえせねば義経が身のあやまりにならぬ鼓」として受け取ってしまうのですが、この優柔不断が義経に様々な災いを引き起こします。まず都落ちがそのひとつ。次に知盛に襲われて、義経は九州に落ちることが出来ずに吉野に逃れます。これらすべては初音の鼓が引き起こした不運なのです。その初音の鼓を義経が狐忠信に与えたと云うことは、初音の鼓が本来在るべき狐の世界へ戻したと云うことです。これは義経が醜い人間界の権力闘争から解き放たれたことを意味します。同時に歴史の「もし」の、すべては元に戻ってしまいました。すべて「平家物語」・「義経記」の世界へ収斂(しゅうれん)されてしまいます。結局、大序の仙洞御所から始まった「千本桜」の長い物語は、「あれは一体何だったの?」と云うことになってしまうのです。しかし、これらの事情は、狐のまったくあずかり知らぬことです。狐はただ親を慕って現れただけなのですから。これが「千本桜」全体から見た場合の「川連館」の位置付けと云うことになるでしょう。(別稿「義経と初音の鼓」を参照ください。ちなみに吉之助は、これをワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」でラインの黄金がラインの乙女から奪われて様々な人物の手に渡っていくなかで、最終的に元のラインの乙女の手に戻されるのと同様の円環のイメージで考えています。)
ですから今回の菊之助の川連館の狐忠信は、川連館だけで見るならばこれで十分納得できるものですが、吉之助としてはもう少し軽さを以て狐忠信を見たいと思うのです。しかし、芸には長い道程があります。狐忠信は、音羽屋のなかでも特に大事な役のひとつです。菊之助がこれから狐忠信を繰り返し演じて行くなかで、これをものにすればよろしいことです。この「千本桜」三役通し上演の経験を無駄にしないために、「千本桜」での狐忠信の役割をきっちり読み込んで欲しいと思います。そうすると狐忠信にとって大事なものは軽やかな感覚だと云うことが分かって来ると思います。菊之助の再演を楽しみに待ちたいと思います。
(R2・4・26)
*令和2年3月国立劇場・「義経千本桜」Aプロ・Bプロもご覧ください。