第2次南北ブームの成果〜「盟三五大切」 復活上演
昭和51年8月国立小劇場:「盟三五大切」
初代尾上辰之助(三代目尾上松緑)(薩摩源五兵衛実は不破数右衛門、家主弥助二役)、片岡孝夫(十五代目片岡仁左衛門)(笹野屋三五郎実は千太郎)、五代目坂東玉三郎(芸者妲己の小万実はお六)
郡司正勝演出
1)第2次南北ブームの成果
1970年代は第2次鶴屋南北ブームと云われた時代で、新劇やアングラ芝居などで南北がよく取り上げられたものでした。(ちなみに第1次南北ブームとは、大正から昭和初めのこと。)新劇が南北に目を付けたのは、ひとつには黙阿弥だと独特の様式感覚があって新劇役者の台詞術では歌舞伎にとても対抗できないが、南北の生世話ならば何とかなりそうだという目算があってのことです。また当時は安保闘争や学生運動の熱気がまだ冷めやらぬ時期でしたから、社会の底辺の人々が蠢く南北物は、社会革命思想の観点からも興味深いということもあったと思います。
一方、歌舞伎では江戸時代から切れ目なく上演がされて来た南北物というのは、「四谷怪談」或いは「馬盥の光秀」くらいのものでした。その他の南北物はあまり上演されて来なかったのです。「四谷怪談」は人気狂言ですが、繰り返し演じられるなかでいつしか黙阿弥のテクニックで処理されるようになって、本来の南北物の感触とはちょっと異なるものになってしまいました。歌舞伎での南北物の伝統というのは、芸の引き出しとしては途切れていて、ほとんどないに等しかったのです。復活上演するとなると新作同然、ほぼゼロから芝居を作り上げる感じになります。そんなわけで歌舞伎の方は、ホントは本家だから積極的に掘り起しをすれば良いのに、どちらかと云えば、新劇など外部での南北再評価の動きにほだされて、これを後追いして来た印象です。
70年代の歌舞伎での南北復活上演としては、昭和50年(1975)9月国立劇場での六代目歌右衛門による「阿国御前化粧鏡」、同じく6月新橋演舞場での玉三郎らによる「桜姫東文章」、昭和51年(1976)5月歌舞伎座での武智鉄二演出・六代目歌右衛門による「金幣猿島都」などが挙げられます。本稿で取り上げる昭和51年8月国立小劇場での「盟三五大切」の復活上演も、この時期の南北ブームの成果として特記されるべきものです。しかし、平成の現在を見ると、この時期に復活上演されてレパートリーに定着したと云える南北はあまりなかったようで、ブームが一過性で終わってしまったのは残念なことです。このなかでは「盟三五大切」はまずまず上演されて来た方ですかねえ。いつも上演している演目をいつも通りにやっている方が楽には違いありませんが、まあこれは役者のせいばかりではありません。
「盟三五大切」は文政8年(1825)9月中村座での初演。この時の配役は五代目幸四郎の源五兵衛、六代目半四郎(当時は粂三郎)の小万、七代目団十郎の三五郎でした。本作の上演は、その後しばらく絶えて、大正15年(1926)に新国劇が沢田正二郎の源五兵衛で上演したのと、昭和44年(1969)6月に劇団青年座が石沢秀二演出で上演したのが、目立ちます。ですから本家歌舞伎での昭和51年8月国立小劇場・「盟三五大切」復活上演も、やはり新劇の後追いということです。
昭和44年の青年座での石沢秀二演出による初演は、南北のテキストを現代的視点から徹底的に読み直したもので、幕切れでは討ち入りに赴く塩治浪士が居並ぶなか、小万の首を抱えた源五兵衛(生井健夫)が毅然と立つ姿に「海行かば」の曲が流れるという具合であったそうです。強引な解釈に思われるかも知れませんが、69年当時の世相を考えれば、これは納得できます。昭和54年(1979)青年座・石沢演出による再演 (吉之助にとってこれが「盟三五大切」の初見になりますが、初演の時とメンバーが異なっています)の幕切れでは「海行かば」のシーンはなくて、もう少しオーソドックスな幕切れに仕立て直されていましたけれど、それでも若き日の吉之助には十分刺激的なものでした。新劇でこうならば、本家の歌舞伎ならどんな舞台になるだろうと思ったものでした。この青年座再演の舞台については、別稿「人格の不連続性」で取り上げました。これは吉之助の南北への関心を引き出してくれた舞台として、忘れられない舞台のひとつです。
原作では主筋である数右衛門の討ち入り資金調達のために、三五郎は女房と一緒に源五兵衛から百両を騙り取りました。ところが実は源五兵衛とは数右衛門の 潜伏のための変名であったのです。このことを三五郎が知った時には、時既に遅く 女房も子供も源五兵衛に殺された後でした。悔いた三五郎はすべてを源五兵衛に告白し、腹に出刃包丁を突き立てます。これを見た源五兵衛が三五郎に対し「こりやかうのうては叶うまい」と言うのです。
石沢秀二の主張は、この「こりやかうのうては叶うまい」という台詞をカットしてしまったことによく表れています。石沢は「盟三五大切」のドラマを武士の忠義の論理に振り回された人間の愚かしい姿を描いたものだと読 みました。だから源五兵衛の台詞は、封建思想べったりの、非人間的、無反省な台詞だとして、断固否定せねばならなかったのです。歌舞伎の前時代性はこういう台詞に極まると感じたのかも知れませんねえ。
吉之助は石沢の解釈が間違っていると言うのではありません。新劇のスタンスならば、こうなるのは当然のことです。しかし、吉之助は、御本家である歌舞伎ならば、源五兵衛の「こりやかうのうては叶うまい」という台詞を毅然として言えなければならぬ、それでこの世の非情・この世の不条理を観客に訴えることが出来ると考えています。なぜならばそれが鶴屋南北の本意であり、「何のダレガシ実は何のソレガシ」というのは歌舞伎が生み出した手法であるからです。現代では歌舞伎は封建忠孝思想に染まり切った芝居のように思われているかも知れませんが、本来、歌舞伎というのはかぶき者の芸能に発し、ラジカルな思想を孕んだ芸能であったはずです。したがって昭和51年8月国立小劇場での「盟三五大切」復活上演においては、新劇が先に提示した封建批判・忠義批判を十分踏まえたうえで、本家本元である歌舞伎からの主張がどれだけ成されているかということが大事になるでしょう。当事者がどこまでそのことを意識しているかということが、問題なんですがねえ。(この稿つづく)
(H30・1・7)
歌舞伎には南北物の伝統が無いに等しいということを書きましたが、それでは南北を再発見した新劇やアングラ芝居が、どんな形で南北物を上演したのでしょうか。南北の台詞は七五に調子を合わようとすると、字余り字足らず。だから歌舞伎役者も南北の台詞を上手くしゃべれ ませんでした。新劇やアングラ芝居の役者は黙阿弥物だと七五調の様式感覚に阻まれて手が出せないけれど、南北物に限るならば俺たちは歌舞伎とイーブンだと考えたかも知れません。そこで彼らが編み出したのが、南北の台詞を棒にしゃべるやり方です。基本リズムとしては二拍子を基調にして畳み掛けるように言葉を連ねて行くしゃべり方です。
このことは大正から昭和初期にかけての第1次南北ブームと関連付けて考えなければなりません。春陽堂の「大南北全集」の刊行も同じ時期になります。この時期に歌舞伎では二代目左団次が、彼のブレーンである「古劇研究会」の学者たちの協力を得て、南北の復活上演に積極的に取り組みました。現在の南北劇のイメージが、良かれ悪しかれ、この時代から発していることは疑いありません。とりあえず本稿では台詞のリズムに限定して話を進めます。
二代目左団次の新歌舞伎の基本リズムが畳み掛ける二拍子のリズムであることは、別稿「左団次劇の様式」で触れました。左団次劇のリズムは、当時の新劇の台詞のリズムにも強い影響を与えました。なぜならば左団次が新劇のルーツと関連するからです。左団次が自由劇場を興して、明治42年11月有楽座でイプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」の上演を行ったのが、新劇の始まりです。根を同じくしているわけですから、当然、新劇も左団次の新歌舞伎の基本リズムに似ることになります。詳細は別稿「左団次劇の様式」をご覧いただきたいですが、畳み掛ける二拍子のリズム(2で割って行けば四拍子・八拍子・・・となりますが、根本は同じです)は、当時の世界的な芸術思潮の流れにあるものです。畳み掛けるリズムがこれを聴く者にどのような感情を読み起こすかは、ストラヴィンスキーの「春の祭典」とか、同時代の音楽を聴けば実感として分かります。例えばプロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番(戦争ソナタ)の第3楽章を聴いてみてください。(Youtubeの音源をお聴きください。ホロヴィッツの1953年ライヴ。)お分かりの通り、タタタタ・・と畳み掛けるリズムは、機械的な・非人間的なリズムです。それは或る種押しつけがましさと強迫観念を持ち、自分が内に持つ憤懣いらだちを吐き出そうと必死にもがくリズムなのです。もちろん新歌舞伎のリズムはここまで早くはありませんが、似た感情が新歌舞伎のなかに緩慢な形で内包されているのです。このことは新歌舞伎の主人公たちの心情を分析すれば明らかです。これこそ新歌舞伎が大正期の歌舞伎であることの所以です。
まったく同じことが同時代の新劇にも云えます。吉之助が見た新劇・アングラ芝居の南北物の舞台なんて数が知れてますが、大体、歌舞伎役者が南北をしゃべる倍くらいの速度で、機関銃の如く台詞を棒にまくし立てるやり方がほとんどでした。ただし台詞の意味も何も考えず早口でしゃべればそれで良いみたいな感じがありましたねえ。限られた主役級を除いては、「意味を分かってしゃべっているのではなく、暗記した文章をただ連ねているだけ」みたいな役者が多かったです。しかし、実際のところ、歌舞伎役者がやった南北物は、どこかいつもの黙阿弥の七五調の感覚が残って旧態依然したところがあって、台詞の末尾が間延びしてかったるい。むしろ棒にまくし立てる新劇やアングラ芝居での南北物の方が、テンポが良くて、カラッと乾いた感覚が心地良く、新鮮さを感じさせて、こちらの方がいくらか南北本来の感触に近いかなと云う感じがしたものでした。(実はこれも試案のひとつに過ぎず、まだ正解とは言えないのですが、これについては先をお読みください。)新劇役者が南北物の台詞を二拍子で棒にしゃべる場合、これは或る種様式的な疑似感覚を生むでしょう。伝統を持たない、それゆえ歌舞伎に対して捻じれたコンプレックスを持っている新劇にとって、歌舞伎が解けなかった難解な方程式を解いてみせたみたいで、多少の優越感もあったかなと思いますねえ。
歌舞伎は新劇など外部での南北再評価の動きを後追いして来たと書きました。1970年代の第2次南北ブームと云われた時期でも、歌舞伎での南北復活上演は新作同然で、ほとんどゼロに近いところから芝居を作り上げるようなものでした。例えば本稿で取り上げる昭和51年(1976)8月国立小劇場での「盟三五大切」の復活上演もそうでした。この上演は、当時の期待の若手と云うべき辰之助(29歳)の源五兵衛、孝夫(32歳、現・仁左衛門)の三五郎、玉三郎(26歳)の小万という豪華配役です。まだまだ既存歌舞伎の様式感覚に染まり切っていない、それゆえ七五調の呪縛が少ない若い世代に、歌舞伎の新たな南北物の創造を期待しようと云うわけです。(この以後、特に玉三郎による「桜姫東文章」・「お染の七役」など、彼らが歌舞伎の歴史に南北ブームと特記される一時期を作ることになるのは、御承知の通りです。)
この映像を見ると確認できることですが、この時の上演は大筋において新劇やアングラ芝居での棒にしゃべるやり方を踏襲しています。台詞の速度としては、既存歌舞伎の感覚からすると速めであるけれども、新劇よりは遅い印象です。吉之助は残念ながらこの上演を生では見ておらず、この同じ三人の配役による9年後の上演、昭和60年(1985)2月新橋演舞場での「盟三五大切」上演を見ました。この時のことを思い出すに、いくらか南北本来の感触に近くなった気がして、当時はこれでも十分新鮮に感じられたと思います。しかし、今映像を見直してみると「物足りないなあ、もう少し工夫が必要だなあ」と感じるところもたくさんあります。(この稿つづく)
(H30・1・17)
歌舞伎の台詞は或る種の様式感覚を持っているというのは、これはその通りだと思います。ただしそれは一様なかぶき様式というものがあるのではなく、荒事の様式、和事の様式、義太夫狂言の様式、南北物の様式、黙阿弥物の様式・・など、実際はいろいろあるのです。新劇役者が南北物の台詞を二拍子で棒にしゃべる場合、機関銃のように早口で言葉をまくし立てる、それが様式的な疑似感覚を帯びて来るでしょう。これが「いくらか南北本来の感触に近いかなあ」と云う感じに吉之助に思えたのは、ひとつには二拍子で棒にしゃべるのが「急き立てる(アジタートな)感覚を呼び起こすこと、もうひとつは台詞の末尾を詠嘆調に引き伸ばしたり転がしたりしないことです。
台詞の末尾を伸ばしたり転がしたりするのは、黙阿弥など幕末歌舞伎のテクニックです。言い換えると、現在の感覚で誰もが「かぶきらしい」と感じる言い回しです。だから台詞を棒にしゃべることは、或る意味において、そのようなかぶき臭さを否定する言い回しということになります。新劇がちょっと優越感を感じるかもと云うのは、そう云う意味です。
しかし、歌舞伎の本で見ると、南北の芝居は生世話或いは空っ世話と云われるものであるはずです。最近は空っ世話なんて言葉を滅多に使いませんが、要するに写実の台詞、実生活の会話に近い台詞と云うことです。とするならば、疑似様式感覚だけで満足されたのでは困るのです。棒にしゃべるのは結構ですが、そのなかに如何にして写実の感覚を挿入するかということこそ本当は大事なのです。「この役者は意味を分かってしゃべっているのではなく、暗記した文章をただ連ねているだけだなあ」と感じてしまうのは、全然、生世話になっておらぬということです。だから台詞を棒に言うだけでは駄目で、そこに何か工夫を入れねばなりません。
今回(昭和51年8月国立小劇場)の「盟三五大切」の舞台での、辰之助の源五兵衛を例に挙げて考えてみます。三五郎夫婦は、主筋である数右衛門の討ち入り資金調達のために、小万に入れあげている源五兵衛から百両を騙り取ることを計画します。源五兵衛が身請けの百両を出して小万を連れ帰ろうとするところで三五郎は「モシ旦那、お待ちなされませ、この子にやア亭主がござります」と言って、その亭主が自分だと名乗り出ます。この序幕・二軒茶屋の場で源五兵衛が
「そんなら夫婦なれ合いにて、この源五兵衛を、深いところにはめおったな」
と言います。この台詞が大事であるのは、次の場で五人斬りを犯し、さらに執念深く三五郎夫婦を付け狙うほど源五兵衛の怒りは、ドス暗く深いものであるからです。それがこの一言に表れなければならない。ところが辰之助の源五兵衛はこの台詞を、前後の台詞のまったく同じ速さの二拍子で棒にしゃべっており、驚きも怒りも、何の感情の変化も表れていません。あまりの事態にあっけにとられて、鳶に油揚げさらわれて意気消沈してシラーッとしているように見えます。これは、
「ソン/ナラ/フウフ/ナレ/アイ/ニテ/コノ/ゲン/ゴベ/エヲ/フカイ/トコ/ロへ/ハメ/オッタ/ナ●」
みたいな感じで、速めの二拍子で淡々と台詞を連ねるだけだから、そこに感情の起伏が聞こえてこないのです。ここは工夫の仕方は人それぞれですが、例えば吉之助がやるならば、後半の「フ/カ/イ/ト/コ/ロ/へ/ハ/メ/オッ/タ/ナ」と、二拍子のテンポを倍に落として、声色を低く落としてみたいと思いますねえ。これならば基調のリズムは変わらないことになります。台詞の末尾を伸ばさなくても、世話の台詞が一転して時代の暗さを帯びることになるでしょう。
「ソン/ナラ/フウフ/ナレ/アイ/ニテ/コノ/ゲン/ゴベ/エヲ/フ/カ/イ/ト/コ/ロ/へ/ハ/メ/オッ/タ/ナ」
大筋としてはこんな感じで一拍目にアクセントを付けて(頭打ち気味に)二拍子の基調を維持しながら、細部ではテンポをもっと柔軟にとって良いのです。人間の台詞なのだから、自動音声みたいになってはいけません。二拍子とは、言葉を前に押すリズムです。台詞によっては息継ぎ、休止にも工夫を入れることが出来ます。やり方はいろいろ考えられます。ただし末尾は引き伸ばしてはいけません。末尾をグッと押すのが、南北の台詞の基本です。
大詰・愛染院前における源五兵衛の台詞「こりやかうのうては叶うまい」が重要であることは先に述べた通りですが、辰之助の源五兵衛はこの台詞でも淡々として、この芝居の大事な意味が観客に突き刺さって来ません。形通りに台詞を流しているだけに聞こえます。辰之助の源五兵衛はこの台詞は「盟三五大切」という芝居が「五大力」の世界から「忠臣蔵」の世界へ転換する重要なきっかけで、ここで役の性根が世話の源五兵衛が時代の数右衛門へガラリと変わるのです。だからここで源五兵衛は顔色変わり居ずまいを正し、身体を正面切って、この台詞を言わねばなりません。台詞の色がガラッと変化しなければなりません。工夫の仕方は人それぞれですが、例えば、後半「カ/ノ/ウ/マ/イ」でテンポを落とし 、
「コリャ/コウ/ノウ/テワ/カ/ノ/ウ/マ/イ」
と言うのでも良いし、時代の色合いを多少濃くして、
「コリャ/コ/ウ/ノ/ウ/テ/ワ/カ/ノ/ウ/マ/イ」
でも良いと思いますが、とにかくこの台詞の前後で、源五兵衛は人格が変わったことを明確に見せねばなりません。しかし、辰之助の源五兵衛は人格が変わりません。源五兵衛と数右衛門 との間に連続した人格を見ているのです。恐らく辰之助は、女子供を殺すことに容赦ない変質狂の連続殺人鬼の源五兵衛という役に、全然共感が持てないのだと思います。これは常識人ならばそう思うのは当然ですが、盗人にも三分の理ありと云う通り、どんな役であっても、役のなかにある行動のロジックをそれなりに構築することは、大事なことなのです。別稿「霊験亀山鉾」の観劇随想で「五代目幸四郎が初演した南北の悪人はどこかマンガチック」と書きましたが、同じく五代目幸四郎の初演になる源五兵衛でもこの認識が必要です。
ところで初代辰之助(三代目松緑追贈)は若くして病で亡くなりましたが、野球の投手でいうと剛速球真っ向勝負の、男性的な太い芸風で将来を期待された役者でした。辰之助が今も存命ならば歌舞伎の様相は違っていたと言う方もいらっしゃるくらいです。辰之助は坂崎出羽守とか暗闇の丑松とか、陰のあるニヒルな男を演らせると、とても印象的な役者でした。だから吉之助は辰之助のニンに源五兵衛という役は似合うと思う(五人斬りや小万殺しの場面などはなかなか迫力がありました)のですが、源五兵衛のような役はなまじっか人物の深みを追おうとせず、むしろパターン思考でデジタル処理した方が上手く行くのじゃないでしょうか。(この稿つづく)
(H30・1・20)
歌舞伎の縁切り物には或るパターンがあることを、別稿「縁切り物のドラマツルギー」で考察しました。縁切り場のパターンとは、縁切り場の男と女は相思相愛であり、女は或る事情によって男に愛想尽かしせざるを得ない状況に置かれているということです。大抵の場合、それは愛する男が必死で捜しているものを女が手に入れるためです。縁切りする女は、愛する男の為に偽りの縁切りをするのですが、男は女の真実を知らないのです。男がその真実を知るのは、愛する女を殺してしまった後のことです。
南北の「盟三五大切」は、世界のひとつを並木五瓶の「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ」(寛政7年(1795)1月江戸・都座初演)から取っています。この「五大力」初演には南北もスタッフの一人として参加していました。芸者小万は源五兵衛と割りない仲でしたが、或る理由から偽りの愛想づかしをしてしまいます。実はこれは小万が源五兵衛と別れないと、源五兵衛は科人となって国元へ引き渡されるという、恋敵三五兵衛の策略に小万が乗せられてしまったためでした。しかし、源五兵衛は小万の縁切りをまことの心変わりだと早合点して、小万を含めて五人の人間を次々と斬ってしまいます。これが「五大力」の縁切りです。
ところが南北の「盟三五大切」では、縁切り物の構造が捻じれてしまっています。三五郎と小万の夫婦は協力して源五兵衛を陥れ百両を騙り取ります。小万の縁切りは本気のことで、偽りの縁切りではありません。ここでは三五郎夫婦は完全に加害者、源五兵衛は被害者です。だから縁切り物としてはドラマが壊れてしまって、そこに救いが全然見えません。だから源五兵衛の殺しにも救いがありません。「盟三五大切」を見て観客がやりきれない気分にさせられるのは、そのせいです。しかし、後で考えてみると、三五郎夫婦が百両を工面しようとしたのは主筋の数右衛門の為で、数右衛門は源五兵衛の変名(同一人物)ですから、巡り巡って三五郎夫婦は源五兵衛の為に百両を騙り取り縁切りをしたということになるのです。そこに三五郎夫婦の真実があったということです。
こじつけに見えるかも知れませんが、この三五郎夫婦の真実(彼らがしたことはすべてご主人の為であったと云うこと)を取れば、まさにこの一点によってのみ、かろうじて「盟三五大切」を縁切り物であると読むことが可能になります。夫婦の真実の重みを受け止めることができる者は、主筋である数右衛門(つまり源五兵衛のこと)のみです。「こりやかうのうては叶うまい」という台詞で源五兵衛が三五郎夫婦の真実を認めることで、縁切り物として成立しないと思えたドラマが、最後の最後で縁切り物のパターンに乗って来るのです。そのロジックの転換は鮮やかなもので(別の見方をすればかなり強引で)、観客は見事にしてやられたことになります。
三五郎と小万は役としては単純で、基調を世話に置けばそれで良いので、源五兵衛と違って演りやすいと思います。孝夫も玉三郎も、新劇のやり方に倣って、ここでは台詞を早めに淡々と棒に連ねるしゃべり方になっています。いわゆる黙阿弥調の「かぶき臭い」言い回しから離れて、感触がサラりと芝居っ気が少ないところが何となく写実っぽく感じさせる徳があるわけです。こういうことが可能であったのは、彼らが既存歌舞伎の様式感覚に染まり切っていない、それゆえ七五調の呪縛が少ない若い世代であったからです。しかし、生世話、或いは空っ世話ということを考えると、まだまだ工夫の余地がありそうです。何となく描写の底が浅くて、三五郎夫婦の真実が頭では理解できるけれども実感として響いて来ないのは、多分、そのせいです。騙りという行為に対する夫婦の慄きが見えてこないのです。それが見えないと、源五兵衛の怒りにも陰影が付かないことになります。ここは前項の源五兵衛の台詞の分析で触れたような、二拍子の基調を維持しつつ細部では台詞のテンポを柔軟にとる工夫が必要になるでしょう。しかし、小万が赤子と共に源五兵衛に殺される場面の、玉三郎の哀切さの表出はよく出来ました。
これは余談ですが、この時(昭和51年)から約40年後になる現在、例えば平成24年4月国立劇場での「絵本合法衢」或いは平成16年7月歌舞伎座での「桜姫東文章」などで確認できますが、孝夫(現・仁左衛門)も玉三郎も、台詞に二拍子の感覚が失われ、台詞が間伸びして末尾を引き延ばす感じに少しづつ変わって来て、かつてのような感じでは南北の台詞をしゃべらなくなっています。これは別の意味において彼らが歌舞伎役者として錬れて来た、上達したということに他なりません。しかし、せっかく掴みかけた南北の様式のヒントを確固たるものにして欲しかったなあと、これはとても残念な気がしますねえ。(この稿つづく)
(H30・1・25)
前述の通り、歌舞伎の南北物の伝統はほとんどないに等しく、復活上演をするとなると新作同然、ほぼゼロから芝居を作り上げるしかなかったのです。雑誌「演劇界」昭和51年9月号に、土岐迪子氏による、当時の舞台稽古レポート「「盟三五大切」の出来るまで」という興味深い記事が載っています。空っ世話だと下座音楽が入らないものですが、それだと歌舞伎役者はきっかけがつかめないで演技が出来なくなってしまいます。「素でやるの?何か(適当な曲)ないんですか?」という話になって稽古が中断、「段取りが悪いなあ、ここどうしましょうか?」で相談し合ってまた稽古が中断、縁切り場で三五郎が「(小万の亭主は)わしでござんす」と見顕わす場面では全員が顔を見合わせて大笑いして稽古がまた中断で、なかなか稽古は進まず、てんやわんやの有様がレポートされています。芝居を作り上げるということは、まったく大変なことだと思います。なまじっか歌舞伎に「こういう時はこうするもの」という方法論があるせいで、南北の復活上演の場合はそれが邪魔をしてしまうのです。
歌舞伎らしい南北にしたいと考えるのが、一番いけません。例えば大詰の愛染院庵室の場において源五兵衛が殺した小万の生首を持ち帰って、これを前に食事する場面がそうです。原作には源五兵衛が癇癪を起こして小万の生首に茶をぶっかける凄惨な場面があります。今回(昭和51年8月)の復活では、これを改変して、小万役者が机の穴首を出す仕掛けとしました。源五兵衛がご飯を箸で小万の首の口元へ持っていくと生首が口をアングリ開けて見せます。びっくりした客席は沸きますが、これはもう噴飯物で何の意味もありません。「南北物はお化け物だ」という先入観から来る、下らない座興的演出です。これは何と監修の郡司正勝のアイデアだったそうです。ご本人の言によれば「小劇場での効果を狙ったもので、江戸の伝統を生かした南北の手をひとつ復活したつもり」だそうです(前出「演劇界」の記事)が、小劇場ってのは小芝居のことを云いたいのでしょうかね。郡司先生の歌舞伎研究の成果は尊敬してますが、わざわざ原作を改変してのこのアイデアは、先生のご見識を疑わせるに余りあります。しかも、その後の歌舞伎の「盟」上演では、この演出がずっと引き継がれているのだから情けないことです。
作品というものは、それが成立した時代の空気の何某かを必ず引きずっています。近松ならば元禄期の、黙阿弥ならば幕末期の空気の何某かを引きずっています。それが作品解釈の手掛かりです。南北ならば化政期のそれと云うことになりますが、歌舞伎の南北の伝統は途切れており、実際のところ、当時の南北物がどのように上演されてきたかというところが分かりません。どうやっても、それは試案に過ぎないということになります。大正期の第1次南北ブーム以降、歌舞伎は新劇など外部での再評価の動きを後追いに終わり、歌舞伎は「黙りおろう、これが本家本元の南北物の舞台であるぞ」という絶対的なものを提示できないまま来てしまいました。
70年代の第2次南北ブーム以降、吉之助は歌舞伎での南北上演の有り様を眺めて来ましたが、平成までのこの40年超、歌舞伎は自らの「こういう時はこうするもの」という方法論で処理するならば、それで自然と「歌舞伎の南北」が出来るだろうと云う、甘い考えであったみたいに思います。平成26年歌舞伎座での若手役者による「心謎解色糸」の舞台などは、その典型的な例です。年を経るにつれ、歌舞伎の南北物は、何となく黙阿弥テイストに近づいています。
南北に関する限り、 歌舞伎も現代演劇も、伝統がない点では立場は同じようなものです。と云うよりも、後追いなのですから、歌舞伎の方がむしろ立場が弱いのです。もちろん現代演劇の南北の二拍子の棒読み台詞だって、南北様式のひとつの試案に過ぎません。しかし現代演劇は、現代と云う時代にスタンスを置いているから、裏打ちになるものを明確に持っている分だけ強いのです。たとえ試案に過ぎないとしても、歌舞伎はこれを取っ掛かりにするしかないのです。歌舞伎が現代に南北様式を蘇らせようと本気で考えるならば、結局、歌舞伎も、現代演劇の南北上演の成果を十分に踏まえたうえで、そこから作品を再構築して、「本家本元の歌舞伎が南北を処理するならば、こうなる」という舞台を提示するのでなければ意味はないのです。そうでないと現代演劇の南北に、歌舞伎は対抗できないことになります。
こうなると座頭主体で芝居をまとめ上げていく従来の歌舞伎のやり方では、到底太刀打ちができません。吉之助が「盟」を初めて見たのは歌舞伎ではなく、昭和54年(1979)10月・国立小劇場での青年座(石沢秀二演出)の舞台で、この時の印象は鮮烈なものでした。吉之助は「新劇でこれだけ面白い、それならばオリジナルの歌舞伎ならさぞかし面白かろう」と思ったものでした。それで吉之助は歌舞伎での上演を心待ちにしていましたが、その後吉之助が 出会ったいくつかの歌舞伎の「盟」の舞台で、青年座の舞台を乗り越えたものは、残念ながらありませんでした。だから座頭主体で芝居をまとめ上げていくことは変えられないとしても、正しい歴史感覚と作品分析が出来る良き助言者(ブレーン)を持たないとこれからの歌舞伎は駄目だなあと思うのです。(古劇研究会の助言をよく受け留めた二代目左団次のやり方を学んで欲しいものです。)平成の今になってみると、一過性で終わってしまった・あの70年代の歌舞伎の第2次南北ブームは何だったのかなあということを考えてしまいますねえ。
(H30・1・26)