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五代目玉三郎初役の淀君

平成29年10月歌舞伎座:「沓手鳥孤城落月」

五代目坂東玉三郎(淀の方)、二代目中村七之助(豊臣秀頼)他


1)逍遥の本読み

坪内逍遥の「沓手鳥孤城落月」が雑誌「新小説」に発表されたのは明治30年(1897)9月のことですが、初演されたのはもう少し遅くて、明治38年(1905)5月大阪角座のことでした。この時は淀君と片桐勝元の二役を十一代目仁左衛門が演じてかなりの好評を得たようですが、糧庫の場で竹本を使うなどの改変があったそうです。作者の意図に近い上演は、その翌年の明治39年3月東京座での上演で、この時の配役は五代目歌右衛門の淀君、勝元の十一代目仁左衛門で、以降、五代目歌右衛門は淀君を最高の当たり役としたことは周知のとおりです。ちなみに明治37年〜39年というのは歌舞伎史的に重要な時期で、同じく逍遥の「桐一葉」初演が明治37年3月東京座、「牧の方」初演が明治38年5月東京座です。つまり新歌舞伎という新しいジャンルの誕生を告げるものでした。

「桐一葉」が初演された(執筆はそのずっと前で明治27年)のが、これが歌舞伎が座付き狂言作者ではない外部作家の作品を上演した最初のことでした。顔合わせの時に役者たちは「どこの誰だか知らぬ外部の作家に歌舞伎が分かるのか」という雰囲気であったそうです。ところが並み居る役者たちが逍遥の本読みを聞いて吃驚してしまったのです。なにしろ逍遥は九代目団十郎の大ファンで、団十郎に片桐勝元を演じてもらいたくて、この芝居を書いたのです。しかし、団十郎は明治36年に亡くなりましたから、その夢は叶いませんでしたが、逍遥は団十郎の息で本読みをしたからです。役者たちは「芝居をよく知っている偉い先生だなあ」と感心して、神妙に役を勤める気になったそうです。もし逍遥の本読みが下手だったならば、その後の新歌舞伎の道程は10年かそこら遅れたかも知れません。

逍遥の本読みの録音は、結構残っています。早稲田の演劇博物館に行けば「沓手鳥孤城落月」の音源(昭和6年10月ポリドール録音)など聴くことができます。間合いを取らずにサッサと読んでいるので芝居っ気というものをあまり感じ ませんが、勘所でのリズムの力強さ・抑揚の巧さは、逍遥の本読みの確かさを示すものです。一方、五代目歌右衛門(淀君)・十五代目羽左衛門(秀頼)・七代目中車(氏家内膳)の豪華顔合わせの「沓手鳥孤城落月」の音源(昭和6年ポリドール録音)も残っています。しかし、これを聴くと歌右衛門の台詞はさすがに当たり役だけになかなかのものですが、羽左衛門も中車も様式を理解せず自分勝手にしゃべっていてひどい出来です。特に中車はこれでいいのかと思うような、旧態依然のだるい七五の台詞回しなのでがっかりします。この録音については逍遥が日記(昭和6年6月21日の項)に「試聴してその拙きとイキの合わぬに呆れる」と書いているので 、笑えます。

逍遥は新しい史劇の確立を目指し、シェークスピアの作劇術と歌舞伎の演出技法を合体させたような感じでこれらの作品を書いたのですが、その逍遥が「九代目団十郎の息で本読みをした」ことは、とても大事なことです。肚芸と得意とした団十郎は「余韻を重んじ・言葉が少ない」のを良しとしました。逍遥は明治45年(1912)に次のように書いています。

『初期の明治は、截然(せつぜん)たる移り変り時であって、すべて物事が判然している。勝つも敗るるも、空竹を割ったように始末がついていた。このきびきびした時代精神を表すには、団十郎の芸風が最もふさわしいものであった。しかし今はもうそういう時勢ではない。移り変り時代たるの機運はなお続いているが、いかにも曖昧で、無解決で、あやふやで、成敗去就ともにほとんど誰にも解りかねて、 昨日の楽観者が悲観者になるまいものとも知れず、大抵の人の心が、ともすれば不安の状態にある。ひと言を以って言えば、無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代である。それゆえ同じく煩悶を表すにしても、今日の人物を表そうとするには団十郎のそれとは全く様式を別にしなければならぬ。深刻な、もっと細緻な、もっと痛切な、一家、一城、一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が、作者にもあれば見物人の心にもある。時代精神が変わったと共に、作意も作風も変わりまた変わりしつつあるのである。したがって芸風も根底から一新されねばならぬのである。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

『ひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというような』という逍遥の文章に、滅びゆく豊臣家の運命に翻弄される淀君という一個人を重ねて読んで良いと考えますが、このことは後で述べることにします。逍遥が「余韻を重んじ・言葉が少ない」を良しとした団十郎の簡潔で力強い芸風を理想としつつ、これを新たな二十世紀、無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代にどのような形で変えて行こうとしたか、ここが大事だと思うのです。結論を先に言えば、逍遥はこのようなアジタートな(気ぜわしい・急きたてられた)気分を、タンタンタン・・・・という速い畳み掛ける基本リズムに託したのです。これが逍遥のシェークスピア研究の成果でもあったことは、別稿「アジタートなリズム・新歌舞伎のリズム」のなかで触れました。(この稿つづく)

(H29・10・19)


2)軽やかな淀君

玉三郎の淀君は初役ですが、本人に拠れば「以前から手掛けてみたいと思っていた役」であったそうです。淀君は五代目・六代目歌右衛門という歴代俳優協会会長の当たり役で、何となく功成り名遂げた立女形の行き着くところという感じです。芸の格ということだけでなく、いわゆる世俗的な権威の重さにおいてもです。そのせいか吉之助は根拠もなく玉三郎は淀君に興味ないのだろうと思っていたので、玉三郎が淀君を演じると聞いてちょっと驚いたのですが、やっぱり淀君という役が背負う大きさ・重さと云うものは、それだけで役者の意欲を掻き立てるものなのでしょうねえ。しかし、玉三郎の透明な芸風は、吉之助の記憶のなかに今も強烈に残る六代目歌右衛門の濃厚な芸風とはまた異なるものであるので、ちょっと淡い淀君になるかなという気もしました。

今回(平成29年10月歌舞伎座)の玉三郎の淀君を見て、実は吉之助は玉三郎がその昔に演じたマクベス夫人を思い出したのです。それは今から約40年前の、昭和51年(1976)2月、日生劇場での「マクベス」でのマクベス夫人(共演のマクベスは平幹二朗)のことです。吉之助の「女形の美学」にも書いたことですが、これは吉之助にとって玉三郎発見の舞台であり、それ以後の吉之助が歌舞伎にのめり込むきっかけにもなったものでした。吉之助を魅了したものは、玉三郎のマクベス夫人の「軽やかさ」でした。様式的なものは確かにしっかりあるのだけれど、アクの強さ・重ったるさ、伝統的な女形芸につきまとうエグい要素から解放された軽やかさなのです。吉之助のなかで、40年前のマクベス夫人の記憶と平成の現在の淀君に繋がるものを見出して、「なるほどこれなら確かに玉三郎の淀君だなあ」と思いました。

「沓手鳥」執筆に当たり逍遥が淀君にマクベス夫人をイメージして書いたというのはあり得る話ですし、多分、そうで す。ここで前章で引用した逍遥の『ひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというような ・・』という文章に注目してもらいたいのです。淀君は稀代の悪女みたいな言われ方がよくされます。しかし、逍遥が描きたかったのはそのような淀君ではなく、淀君もひとりのか弱い女性・か弱い母親でしかないということなのです。権謀術数の駆け引きに疎い女が、政治の表舞台に否応なく引きずり出されて、ただ豊臣家大事・秀頼可愛いやで取り乱しているだけのことです。そういう女の愚かしい振る舞いが豊臣家を滅亡に導いていくことになる。それはひとつの輝かしい時代の終わりを告げるものですが、淀君の悩乱のなかに滅びゆく時代の嘆きの声が重なって聞こえて来るような気がします。ですから実はこれは逍遥なりの「神々の黄昏」(ワーグナーの楽劇のこと)であって、この戯曲が書かれた明治30年(1897)という世紀末の雰囲気を濃厚に引きずるものです。上掲の逍遥の文章をそのように読むべきなのです。

多分、歌舞伎の淀君は、「ヤイこの日本四百余州は、みづからが化粧箱も同然じゃぞ」というような台詞を重く読み過ぎているのです。江戸時代には淀君は豊臣家を滅ぼした悪女とされていたわけで、まあこうなるのも歌舞伎の自然の流れではあります。これは歌舞伎での平清盛の描かれ方を見ても分かります。淀君を当たり役にした五代目歌右衛門が、「日招きの清盛」も得意の演し物にしたことは、とても興味深い符号です。しかし、逍遥は新しい時代の歌舞伎、新しい史劇を書くことを意図したはずです。逍遥意図したことは、生身の一個人としての淀君の心情を描き出し、淀君の悩乱が人間全体、世界全体の様相と象徴的に重なって来るように仕掛けることでした。

だとすれば「ヤイこの日本四百余州は、みづからが化粧箱も同然じゃぞ」という台詞も、豊臣家を滅亡に導いた大悪女の傲慢極まりない台詞として重く読むのではなく、ひとりの女の取り乱した哀れな有り様として軽く虚ろに、或る意味で滑稽に読むこともできるはずです。このことは逍遥が影響を受けた19世紀末の世界的な芸術思潮から来ます。玉三郎の淀君の軽やかな台詞廻しは、吉之助にそのようなことを考えさせるものです。(この稿つづく)

(H29・10・24)


3)言葉のどうしようもないほどの軽さ

逍遥は、19世紀末と云う時代の、無解決で、不安な、煩悶の、神気疲労の気分をアジタートな(気ぜわしい・急きたてられた)タンタンタン・・・・という畳み掛ける基本リズムに託しました。心持ち早めの二拍子が、逍遥の戯曲のリズムです。玉三郎の淀君の台詞は軽やかですが、早めの二拍子を押さえた台詞廻しで、確かにそこに様式感覚が感じられます。リズムの刻みをあまり前面に出さず、前に押す感覚が少ないので、もしかしたら様式的なものを感じ取りにくくて、玉三郎が淡々としゃべっているように思う方がいるかも知れません。これは淀君が女形の役であり、虚ろな気分の役であるからそうなるのです。(一方、立役の場合は、リズムの刻みを前面に出して、押す感じに台詞をしゃべらないと逍遥の様式になりません。)

例えば序幕・大阪城内奥殿での常盤木に対する淀君の台詞、「・・あはよくば永利を図る下心の、こちゃとうに見抜いてある、アア読めた、その手筈が狂うたゆえ、わざと油断し隙を見せ・・・」、或は饗庭局に対する台詞、「黙れ、大それら不埒浮かくを、まず詫びようとも致さいで・・・仔細らしい諫言ごかし・・・ああ聞こえた、こりゃ何じゃな、そちゃ子車と同腹じゃな・・」での、「アア読めた」、「ああ聞こえた」という箇所で、淀君の考えがコロッと変化します。普通に「歌舞伎らしく」台詞をしゃべるならば、フッと新たな考えが湧く間を取る感じで一呼吸置いて「アア読めた」と云う、 さらに「歌舞伎らしく」するならば、ちょっと声のトーンを低くテンポを落として「アア読めた」と云うやり方も考えられます。こうすることで淀君の考えが変化する局面、前と後ろの差が印象付けられます。これで 「歌舞伎らしい」台詞廻しになるでしょう。

しかし、玉三郎はそういうことをしないのですねえ。早めの二拍子を守ったまま、サラサラと台詞を続けます。そうなると、淀君の考えが変化する前と後の違いが際立ちません。つまり、淀君の考えが ここでコロッと変化したようだけれども、実はそのようなきっかけは大したことではない、淀君の云うことは虚ろであり重みがない、何にも意味がないということを、玉三郎は台詞のテンポを変えないことで表現して見せるのです。この台詞廻しが、吉之助の記憶のなかに残っている、40年ほど前の玉三郎の狂乱の場でのマクベス夫人の台詞廻しとまったく同じ軽やかさなのです。

ここで表現されるものは、言葉のどうしようもないほどの軽さ、想念のどうしようもないほどの軽さです。淀君が泣こうが喚こうが、彼女を取り囲む状況は、彼女と敵対したまま、頑として変わることがなく、ただ冷淡に彼女を見詰め返すだけです。本来ならば、想念が変われば台詞の色が変わりテンポが変化するのが、自然でしょう。そうならないのは(淀君がそうできないのは)、淀君を取り巻く状況がそれほどまでに強固で動かし難いということです。淀君の台詞が変化しないのは、状況に対して彼女の言葉がまったく無力だということを示しています。逍遥が『ひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというような ・・』と云うのが、それです。淀君を取り巻く状況が、そのまま豊臣家の運命、滅びゆく偉大なる時代に重なっていきます。(この稿つづく)

(H29・10・28)


4)正気と狂気に境目はない

ところで糒蔵での淀君が狂乱状態であることは明らかですが、前場である大阪城内奥殿での淀君は正気でしょうか、それとも狂気でしょうか。この場の淀君は猜疑心に苛まれ、周囲の誰も信じることが出来ません。だから奥殿での淀君は半ば狂気だとして良いと吉之助は思います。玉三郎の淀君を見ていると、奥殿と糒蔵の二場での淀君に連続したものが感じられます。糒蔵での淀君の方が、狂気の色合いがもっと濃いという程度の違いです。

狂気とは何でしょうか。正気と狂気との間に境目などあるのでしょうか。淀君の立場からだと「この世の中みんな狂っている」と思えてくるわけで、ましてや大坂夏の陣のような状況ならば事実みんな狂っているのです。こういう状況下で人が正気を保つことは難しいものです。淀君を取り巻く世界が狂っているから、その状態が淀君のなかに反射していると考えた方が良いのです。周囲の者が淀君の態を見て「淀君が狂ってしまった」と判断してそのことを嘆くのではなく、淀君を見て自らも同じ心理状態に陥ってしまいそうな予感に震え慄てしまうという方がふさわしいと思います。淀君の態を見て泣く秀頼の台詞を見てみます。

『ヤイ内膳、ゆるしてくれよ。女々しと思へどとどまらぬ、涙は同じ涙なれど、最前落せし熱湯は、父太閤の偉業をば、此身ゆえに滅ぼすかと、不肖を悔む慚愧の涙。今ふりしぼる此涙は、恥も憤怒も悔恨も、人の心にありとある、百八煩悩一つとなって、五臓六腑を骨もろともにしめぎにかけ、しぼりいだす血の涙ぢや。ゆるせ、泣かずにはをられぬわい。』

この秀頼の台詞は、何だか歌舞伎役者は七五に割って朗々と歌いたくなるみたいですねえ。普段は「台詞は余韻を重んじ、言葉少ないのが良い」と言いながら、こんなところに逍遥の芝居好きが出ちゃっている気がします。しかし、この台詞を七五で歌っては駄目なのです。この秀頼の台詞は、母親の狂乱の態を見た息子が自らの感情に浸って七五で朗々と歌う台詞でしょうか。秀頼は自らに迫った滅びの時を覚悟したに違いありません。この状況に耐えられないから、秀頼は泣くのです。こういう台詞は、畳み掛ける二拍子を基本リズムにするのが、逍遥劇の様式です。

百八煩悩一つとなって、五臓六腑を骨もろともにしめぎにかけ、しぼりいだす血の涙ぢや。ゆるせ、泣かずにはをられぬわい。

ヒャク/ハチ/ボン/ノウ/ヒト/ツト/ナッ/テ●/ゴゾウ/ロップヲ/ホネ/モロ/トモニ/シメギニ/カケ/シボリ/イダス/チノ/ナミダ/ジャ●/ユルセ/ナカズ/ニハ/オラ/レヌ/ワイ

これまで「沓手鳥」の舞台では、個々の役者が台詞を好き勝手なリズムでしゃべって、様式感覚が取れていないことが多かったと思います。しかし、今回(平成29年10月歌舞伎座)の舞台を見ると、大方の役者が台詞のリズムを玉三郎のリズムに合せているようです。これは恐らく玉三郎の指導が入ったのだと思います。お陰で全体的にはだいぶ舞台が引き締まった感がします。(ただしところどころでリズムを厳格に守り過ぎて、舞台の緊張が削がれている場面がありますが、そういう時はリズムを破綻させることを恐れては駄目です。)

ところが、そのなかでどういうわけだか七之助の秀頼だけ台詞を七五で割ってしゃべって、一人浮いた感じに 聞こえます。秀頼は傍観者ではありません。この後、秀頼は母親と一緒に死なねばならぬ運命なのですから、その台詞は淀君のリズムと同期(シンクロ)せねばなりません。淀君の滅びの予感は、そのまま秀頼のものになります。また秀頼は立役ですから、ここはもっと二拍子の刻みを強く出して前に押すべきです。ところがその秀頼を見て淀君が笑います。

『ハハ・・・。お泣きゃる、お泣きゃる。男じゃに、此の人たちは。・・・オオおかし。・・・オオおかし。ハハ・・・。』

淀君・秀頼親子の悲劇的状況はここに極まれるということになるのです。逍遥は見事な史劇を書いたと思いますね。ですから逍遥が『ひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというような ・・』と書いたことはとても大事なことであって、恐らく逍遥は、淀君・秀頼親子の悲劇に対して傍観者たることを、観客にも許していないのだろうと云う気がします。
 

(H29・10・30)




  
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