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近松のリアリズムについて〜山の手事情社の「女殺油地獄」

平成27年11月・吉祥寺シアター:「女殺油地獄」

山本芳郎(河内屋与兵衛)、山口笑美(豊島屋お吉)

構成・演出:安田雅弘

山の手事情社のサイトはこちら。


1)近松のリアリズムとは

近松門左衛門の「女殺油地獄」は享保6年7月15日・大坂竹本座での初演。下の巻・北の新地の場での後家お亀の噂話として

「油屋の女房殺し、酒屋に仕替えて幸左衛門がするげな。殺し手が文蔵、憎いげな。与兵衛様まだ見ぬか」

とあります。これは本作初演より少し前・7月7日から始まった大坂竹島座での「契情八棟造(けいせいやつむねづくり)」という芝居(つまり歌舞伎のこと)を当て込んだのです。このことから油屋の女房殺しは恐らく実際に起こった事件から題材を取ったものだろうとされています。ただし実説はまったく伝わっていないようです。ところで本作は江戸時代には再演がなく、明治になってから俄かに脚光を浴びた作品です。再演されなかった理由ですが、初演が不評だったということはなく、宝暦9年出版の「竹本不断桜」には「女殺し油地獄 きくとそのまましくんだ思ひつき毎日の大煎海鼠(いりこ)」とあるので、観客の入りは良かったに違いありません。際物(三面記事的な事件を即席で劇化する)なので時が過ぎて話題性がなくなると上演価値がもはやないという興行的判断がなされたようです。もうひとつは、冷静になってドラマを見直すと殺しの凄惨さと救いようの無さに思いが至るということかと思います。

江戸期にいったん廃絶した感がある「女殺油地獄」が、明治になってから脚光を浴びたということは前に書きました。この時によく云われることは、家庭教育の欠陥によって与兵衛という強盗殺人犯が生み出された・その刹那的行動が現代青年にどこか通じる現代人的性格を持っているということです。云われることは確かによく分かります。歌舞伎でも文楽でも、現在の舞台で見る油屋でのお吉殺害の場面はその冷徹なリアリズムにぞっとします。同時に「殺しの美学」と云われるような・どこかエロティックで艶めかしいものを感じます。これには現代の舞台照明(電気照明)の効果が一役買っていることは間違いありません。享保6年初演時にどうだったかはこれは想像してみるしかないですが、まったく同じ感触であったということはなかったでしょう。リアリズムがもっと剥き出しで出ていたかも知れません。逆に言えば現行の歌舞伎の舞台は何かを覆い隠しちゃっているのかも知れません。イヤ人気役者が演じる与兵衛が気が悪い役になっちゃあ困りますからね。何たって殺しの美学ですから。殺しの美学って何だろね。

それにしても巷間よく云われるところの、与兵衛の「現代人的性格」というのは、どういうことでしょうかね。享保6年・1721年・つまり約300年前の昔には珍しかった・時代を先取りした人間像、そこに近松の新しさがあるということでしょうかね。多分そんなことはないでしょう。そういう人間を文芸作品・芝居があまり取り上げて来なかっただけのことです。それを云うならば、享保6年の昔から現代まで 300年の間に人間のやっていることはちっとも進歩・発展して来たわけじゃない、享保6年にも平成の現代にも同じような愚かしい人間が生きていて、同じような救いようのない事件が絶えず起きて来たということなのではないでしょうか。

「そういう人間を文芸作品・芝居であまり取り上げて来なかっただけのこと」と書きましたが、当時の芝居ではそのような悪人を因果律のような形式に当てはめて描いたもので した。つまり悪人が悪事を働くことのドラマ的な必然を事前に設定した上でその行為を描くのです。悪い奴なら初めから悪が彼の本性であるかのように描く。与兵衛のような市井の平凡な男が悪事を働くならば、そこに悪事に彼を追い込む状況と彼がそこに至る葛藤を描いて見せねばなりません。「増補近松序説」のなかで廣末保先生は次のように書いています。

『「曽根崎心中」にしても「心中天網島」にしても、近松は上之巻で最初の基本的な矛盾関係を設定していた。そして、その矛盾が中の巻で激化し、決定的な段階に達してゆくように構成されていた。だが「女殺油地獄」の上の巻では、そのような状況設定をみることができない。そこで作られた事件は、テーマの本質に結びつき発展してゆくようなものではない。(中略)行為による葛藤の必然的な展開を追求しえず、任意の断面を心理的な方法でつないでゆくという方法は、悲劇の方法ではない。この作品には悲劇的な感動はないのである。』(廣末保:「増補近松序説」)

廣末先生の立場に触れておくと、廣末先生は「心中天網島」を近松世話物悲劇の到達点であると考え、行為と葛藤の展開が最終的に心中に至る・序破急のプロセスが悲劇の形式であると信じているから、そのプロセスを正しく踏まずに唐突に破綻(油屋のお吉殺し)に至る「女殺油地獄」を悲劇として評価できないという立場になるわけです。それは分からないことはないけれども、しかし、無理に「女殺油地獄」に悲劇的な感動を期待しなくても良いのではないですかねえ。過度に期待するから幻滅しちゃうのです。リアリズムというのは突き詰めれば我々が正対している世界(日常生活)とは結局この程度のものだということです。日々の出来事がその度ワーッと涙と感動で包まれるわけではないのです。そこまで行き着かねばならなかった近松は凄い作家だなあと吉之助は思いますけどねえ。(この稿つづく)

(H27・12・14)


2)不条理な悲劇

別稿「近松世話物論」で触れましたが、ギリシア悲劇以来、悲劇的な題材というものは、首尾一貫した筋の展開により因果関係を踏まえて一定の形式的な手続きを経なければならぬものとされて いて、だから悲劇はつねに多幕物とするのがお約束でした。悲劇は神話や歴史上の人物が背負うものとされていました。庶民は悲劇の主人公に似合わないとされていたのです。これは日本においても同様で、時代物浄瑠璃は五段形式が基本でした。ですから近松が庶民を悲劇の主人公にしようとした時、五段目形式は壊されねばならなかったのです。

近松の最初の世話浄瑠璃「曽根崎心中」(元禄16年)は上・中・下の巻で構成される三部形式で した。もちろんこれは序・破・急の骨格をもっていますが、明らかに一幕三場です。近松の世話浄瑠璃が一幕ものであるということはどういう意味があるのでしょうか。それは時代物が持つ因果関係を持つ悲劇の論理展開を取らないということです。つまり時代物の悲劇の手続きを否定することで、本来悲劇にふさわしくないとされていた庶民のために新しい悲劇の形式を創ろうとしたということです。「曽根崎心中」序幕生玉神社の場を見れば、徳兵衛はすでににっちもさっちも行かない状況に追い込まれており、その説明は徳兵衛とお初の会話のなかで済まされています。そのような論理手続きがそもそも時代浄瑠璃にない手法です。悲劇のためのプロットが十分描かれていないように見えます。このことを「曽根崎心中」のドラマの欠陥の如く仰る方がいらっしゃいますが、 それは違います。近松は意図的にそれを行っているのです。庶民のための新しいドラマを作り出す為に在来の悲劇形式を破壊したのです。そもそも時代物浄瑠璃の形式を完成したのが近松であることをお忘れなく。その近松が今度は五段目形式を破壊したのです。

廣末先生は「心中天網島」(享保5年)を世話物浄瑠璃の完成形とみなしています。 確かに「心中天網島」は因果関係を踏まえ序破急の比率のなかに美しいバランスを見出したかのようです。だから廣末先生のお考えはよく分かりますが、多分その美しさは一時(いっとき)のものに過ぎ ないのです。近松にとってそのバランスは再び破壊されねばならなかったのです。「女殺油地獄」(享保6年)では上の巻が中の巻への説明となり、中の巻の状況が下の巻において高まって与兵衛の破滅を準備するという形になっていません。廣末先生が指摘するように「そこで作られた事件がテーマの本質に結びつき発展してゆくようなものではない」。序破急のバランスが取れていない。だとすれば「女殺油地獄」は世話物悲劇ではないということになるのでしょうか。

吉之助の考えを申し上げれば、冷徹なリアリストである近松は庶民の実相を描き尽そうとするなかで、ここまで徹底した実験をしてみなければならなかったのです。主人公与兵衛は同情できる人間ではありません。与兵衛が破滅しても観客の誰も涙することはありません。そういうものが悲劇であるというのなら、確かにこれは悲劇ではないのでしょう。しかし、ちょっと間違えば誰でも与兵衛みたいなことになるかも知れない・ 殺しにまで至らなくても似たような連中はそこらにいくらでもいる、芝居を見てそんな気分にされてしまいます。しかも与兵衛を犯行に追い込む プロットがこれまた凄い。「手形の表は上銀一貫目。借つた銀は二百目。明日になれば手形のとほり、一貫目で返す約束」とは一体どういうことか。当時の大坂の観客(商人)には通じたかも知れませんが、当時の日本にこれが悲劇のプロットとして通用すると認めた観客がどれだけいたでしょうか。敢えてそれをやってしまうところが近松の凄いところです。これはむしろ不条理な悲劇と呼ぶべきかも知れません。とすれば近松の実験はベケットやピンターに先駆けること二百数十年ということになるかも知れません。(この稿つづく)

(H27・12・29)


3)滑り続ける与兵衛

お芝居の悲劇というと人生の重さ・生きることの辛さがひしひしと滲みて思わず泣けてくるというようなものを考えると思いますが、現実の場面においては本人はそれこそ世界の終りみたいに思い詰めていても・傍の人は「こいつ何暗い顔してんの?」くらいにしか感じていない状況がしばしばです。「女殺油地獄」では与兵衛はその身勝手な犯行に同情の余地がまったくありません。与兵衛というキャラクターが好きだと言うのは、ちょっと勇気が要りそうです。そういう者に同情も涙も必要ないと近松は冷たく突き放しているようです。しかし、与兵衛の人生にはどこかにポッと一人で放り出されて誰も助けてくれないみたいな絶対の孤独があって、これが不毛な状況を醸し出しているということはあると思います。そこが不条理な悲劇の主人公としての与兵衛を考える取っ掛かりになるかも知れません。そこが近松のリアリズムなのです。

そのような不毛な状況が近松の生きた享保の時代のなかにあったのかということを考えなければなりません。そのひとつがお金の問題です。例えば「手形の表は上銀一貫目。借つた銀は二百目。明日になれば手形のとほり、一貫目で返す約束」ということです。本日中に銀二百目を返さなければ大変なことになる ・俺は大坂に居られなくなるというのが、与兵衛が置かれた切迫した状況です。しかし、その切迫さを与兵衛以外の人間は感じ取ることができません。実際に借りたのは銀二百目のはず。それがどうして日付けが変われば一貫目になるのかということが、理屈では分かっても感覚では素直に受け入れられないことになります。そこに裂け目があるのです。このことについては別稿「金がなければコレなんのいの〜歌舞伎におけるお金の役割を考える」で触れましたからご覧ください。享保6年とは八代将軍吉宗による享保の改革の真っ最中であったことをお忘れなく。当時は経済が停滞して民衆の気分が落ち込んでいた時期でした。人生が貨幣に振り回される時代が始まったのです。状況はさらに複合化して現代に至っています。

そこで山の手事情社の「女殺油地獄」のことですが、当日プログラムに拠れば、演出の安田雅弘は、近松が油屋にこだわったのは酒や呉服や紙や野菜では「滑れない」からだと云うのです。「油地獄」とは与兵衛が油まみれになりながらお吉を殺す場面だけのことを指すのではなく、与兵衛の人生とは滑りっぱなしの人生である、だから油屋なのだと云うのです。これはとても興味深い視点ですね。山の手事情社の舞台では与兵衛はいろんな場面で「滑ります」。与兵衛 がヘナヘナとその場で滑った動作を見せるのです。惚れた遊女小菊にふられて「滑る」。喧嘩になって侍に泥をかけてしまって手討ちになりそうになってまた「滑る」。与兵衛はワルなのではなくて、ダメ人間なのです。何をやってもうまく行かなくて、その度に「滑る」。そうやって何度も滑っているうちに、与兵衛はお金が作り出す裂け目のなかにストンと滑って落ちてしまうのです。

お金の裂け目はあらかじめ用意されているわけではありません。お金が作り出す状況が高まって、どうしようもなくなって、耐えきれずに遂に惨劇が起こるというような論理的な手続き(悲劇のプロセス)を経ることがありません。お金のプロットは突然ぬっと顔を出して、あっと言う間に与兵衛を裂け目に突き落としてしまいます。与兵衛にとってはこの世が終わるほどの切迫した事態ですが、事が起こってしまった後 で見ると観客が「二百目くらいのことで・どうしてこんな大変なことを仕出かすんだ」と嘆息する結末にしかなりません。お金のプロットは余韻を残しません。お吉が殺されなければならない理由が見当たらない。悲劇の感動を与えることができないと云う点において、与兵衛はここでもまた「滑っている」のです。山の手事情社の「女殺油地獄」の舞台は、「滑る」というユニークな視点で近松のリアリズムを考える機会を与えてくれました。

(H28・1・2)


 

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