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申し訳なさそうな顔をしている「時代」

平成27年8月歌舞伎座:「ひらかな盛衰記・逆櫓」

三代目中村橋之助(八代目中村芝翫)(船頭松右衛門実は樋口次郎兼光)
三代目中村扇雀(お筆)、坂東弥十郎(漁師権四郎)ほか


1)申し訳なさそうな顔をしている「時代」

今月(8月)歌舞伎座・納涼歌舞伎の第2部・「ひらかな盛衰記・逆櫓」を見てきました。主な配役は橋之助の松右衛門実は樋口・扇雀のお筆・弥十郎の権四郎で、三人とも多分初役だろうと思いますが、この顔ぶれならばこの位は出来て当然と思える出来であったのでまずは安心しました。しかし、芸にはまだまだ上の段階があります。いずれそう遠くない時期に彼らが歌舞伎を牽引せねばなりません。ですからまあ悪くない出来であることは認めたうえで、いく つか気になったところを今後の改善点として記しておきたいと思います。

それにしても「逆櫓」は同じ時代物であっても他の作品とはちょっと違う趣がしますね。普通の時代物であると「時代」と云う政治的で奇怪な要素が名もなき庶民を翻弄して、最後に誰かを犠牲として連れ去ってしまうという筋が多い。大抵は時代が「ごっつぁんでぇす」という顔をして庶民の犠牲を受け取って芝居が終わります。観客の胸には「然り・・しかし、それで良いのか」という苦い味が残る。これが普通の時代物の感触というものです。たとえば「 鮓屋」がそのような感触です。

しかし、「逆櫓」で出てくる「時代」(それは樋口やお筆が体現する要素です)は随分と申し訳なさそうな顔をして出て来るのですね。惨劇は既に前場(大津宿・笹引)で終わってしまっており、騒動の取り違えで槌松は殺されてしまったが・それは自分たち(時代)の本意ではなかった、取り返しのつかないことをしてしまった・申し訳ないことをしてしまったという気持ちが時代の側に濃厚にあるのです。「
いかほど歎きたとて槌松の帰るといふではなし。さっぱりと思召し諦めて、若君をお戻し下され・・・」というお筆の台詞にチラと時代の身勝手な論理が顔を出してしまいますが、全体としては時代に謝罪の気分が強い。だから「逆櫓」には嫌な奴が出て来ません。最後に派手な立廻りが付くので忘れられそうですが、「松右衛門内」には死んだ槌松への哀悼の気分が漂っています。この点が「逆櫓」を好ましい芝居にしていると思います。

まず橋之助の樋口ですが、時代物のスケールの大きい樋口を意識していると思います。それは決して間違いではありません。樋口は確かに橋之助の仁に合う役です。しかし、歌舞伎らしいスケールの大きさを意識し過ぎるあまり、全体として台詞がねっとり重く一本調子になっています。そのせいで松右衛門(世話)と樋口(時代)の切り替えが巧くありません。スケールの大きさは大事なことに違いありませんが、もっと大事なことが他にあるのです。たとえば家に帰った松右衛門が梶原に対面した情景を仕方噺で語る場面を見てみます。ここは世話と時代が交錯するところが聴きどころです。しかし、世話と時代の対照が際立たないので、梶原との会話の情景が眼前にありありと浮かんで来ません。これは橋之助が時代の台詞を重くたっぷりと言おうとして全体のリズム感が出ないせいです。だから世話と時代の切り替えの間(ま)がうまく取れません。このような時代の台詞は噛み砕いて言うのが正しいのです。このことは文楽(義太夫)を聴けばよく分かります。台詞を噛み砕けば台詞に自然とリズムが出て来ます。声色ではなく・口調において世話と時代を仕分ければ良いのです。ですから台詞をねっとり重く転がせばスケールが大きく歌舞伎らしくできるという、「いわゆる歌舞伎らしさ」の思い込みをやめることです。

後半の樋口の見顕わしにおいても課題があります。まず樋口が松右衛門に身をやつしているのは、逆櫓の技術を生かして義経の水軍に船頭として加わり・主人義仲の仇を討つという大望があるわけです。たとえ相手が家族(権四郎やおよし)であっても、樋口はここで正体を明かすわけに行きません。樋口はこれまで権四郎一家と・死んだ槌松とも一緒に暮らしていたわけで、槌松を殺された家族の気持ちを松右衛門(一家の主人)として人一倍理解しています。時代を体現する者として樋口は言うべきことを言わねばなりませんが、それを言うことがどれほど理不尽な非人情なことであるか本人が一番よく分かっています。だから樋口は正体を明かすことをとても躊躇しています。それでも権四郎が納得しないから、やむを得ず正体を明かすのです。ですから樋口が覚悟を決めて「権四郎、頭が高い・・」と言い出すまでの樋口の台詞は、強い時代の調子で張って言ってはならないのです。口調を抑えて低調子で行かねばなりません。樋口(時代)と松右衛門(世話)が交錯しますが、ここでの台詞も前述通り噛み砕いて言うことが肝要です。時代と世話の間でゆっくりと振れながら、最後に「権四郎、頭が高い・・」に至る、ここで時代の方に波が大きく振れます。(ここのところは別稿「吉右衛門の樋口」でも触れました。)

そこへ至るまでのプロセスの構築が、橋之助の樋口はまだまだです。と言うよりも 橋之助だけでなく大抵の歌舞伎の樋口役者がそこが十分ではないのですがね。樋口が武士の権威で権四郎を押さえ付けに掛かるのが歌舞伎の見顕わしのカッコ良い場面だと思っているでしょう。樋口は木曽義仲の四天王だからスケールが大きく重く演ずべしと考えるから、間違えてしまいます。最初から時代で重く行けば良い「渡海屋」の知盛の見顕わしとは、そこが違 います。樋口は情も涙もある男です。本当は悲しみを共有したいけれども、理由あってそれが許されない男です。樋口は縁あって息子となった槌松が自分の替わりに忠義をしてくれた、これは何という奇縁か、何と有難いことかという意味のことを権四郎に言います。樋口は最後まで理のなかに情を忘れていません。こういう男であるからこそ、権四郎を心底納得させることが出来ます。権四郎が「侍を子に持てばおれも侍」と言うのは、樋口に圧倒されたからではありません。樋口の情が権四郎にそう言わせるのです。少々スケールが小さくなったとしても、樋口の情を描くことが肝要です。ですから「逆櫓」の場合は、申し訳なさそうな顔をしている「時代」ということが大事なポイントとなります。

(H27・8・22)


2)弥十郎の権四郎

前場(大津宿・笹引)がないので「逆櫓」でのお筆の仕どころは少ないですが、扇雀のお筆は一応の出来です。しかし、権四郎が怒る台詞を聞く場面などでもっと平伏して「身の置きどころがない」という風情が欲しい。もっとお筆が情の厚い女性に見えて欲しいと思います。

弥十郎の権四郎は体格が立派なので哀れが利かないのは仕方ないところです。しかし、よく考えてみれば権四郎は樋口が見込んで入り婿するほどの名立たる船乗りだったわけですから身体は 頑丈だったに違いありません。だから見た目の老け役の哀れさとは違った形で哀れさをどうやって表出するかが大事だろうと思います。ところで権四郎が怒ってお筆に抗議する台詞はまったく筋が通ったもので、教育を受けていない人間の台詞とは思えないほど理路整然としています。さすが一流の船乗りだけに権四郎は迅速かつ冷静な判断ができる人間だと思います。権四郎がお筆に対してまくし立てる台詞も、冷静さを失って怒りにまかせて怒鳴っているわけではないのです。たとえば権四郎は「主君の若君のとおいやるからは、それ知らぬまんざらの賤しい人でもなさそうな・・」と言います。権四郎はお筆の主人が相当に身分が高そうなことは分かっているが、それを知ってしまえば身分の低い者は言いたいことが言えなくなるので、気取らぬふりして怒鳴るのです。逆に言えば、そこに身分の低い者の悲哀が聞こえると思います。それは「ごっつぁんでぇす」という顔をして庶民に犠牲を要求しようとする「時代」に対する庶民の必死の抗議です。弥十郎の権四郎は単純に怒りにまかせて怒鳴っている風に少し聞こえます。台詞にもうすこし工夫が必要だと思います。例えば言葉を言い淀む、あるいは語尾を意識的に弱くするなど、ともすれば及び腰になりそうな権四郎の気持ちを見せるちょっとした工夫です。そこに「時代」に必死で抵抗する庶民の哀れさが出るだろうと思います。

「逆櫓」幕切れで「汝(樋口)が子でもない、主君でもない、若君でもない、大事の・大事のおれが孫を一所に殺して侍が立つか」と権四郎が言うのは、 「松右衛門内」で樋口が権四郎に「親となり子となり夫婦となるその縁に、つながるる定まりごとと思召し諦めて、若君の御先途を見届け、まだこの上に私が武士道を立てさせて下さらば、生々世々(しょうじょうせぜ)の御厚恩」という言葉に、権四郎がそっくりそのまま応えたものです。世話(庶民)の側が駒若君を預かって、権四郎がこれを守護することになります 。これは普通の時代物のパターンとは異なるものですね。駒若君は世話のなかに消えて行きます。

(H28・8・24)



 

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