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吉之助流「歌舞伎の見方」講座:第16講

現代的な歌舞伎の見方


○現代的な歌舞伎の見方・その1:歪んだ時代

現代(平成15〜8年の今)の雰囲気は明治30年代に非常によく似ているという指摘があります。ちなみに明治34年が1901年に当たります。「歌舞伎素人講釈」では九代目団十郎・五代目菊五郎が相次いで亡くなった明治36年(1903)を江戸歌舞伎の終焉と位置づけています。明治維新と文明開化の熱狂が終わってみると ・解き放たれたはずの身分は再び固定され、何のことはない・封建社会の江戸時代よりもっと複合的な閉塞状態が待っていたということです。そ うしたフラストレーションが「新歌舞伎」という新しい時代の歌舞伎を生み出していくのです。(別稿「新歌舞伎のなかのかぶき的心情」をご参照ください。)

昭和末期(1980年代)においては国民誰もが中流意識で「一億総中流」と言われたものでした。ところが、現代においては再び階層が分かれ始めている気配があります。とんでもなく富裕な人々がいる一方で、そうではない経済的に恵まれない人々が・特に若年層に急速に増えています。言い換えれば、そういう貧困層を踏み台にしたところで何かが起き始めているのです。平成17年(2005)に「下流社会」という用語が登場したのはご承知の通りです。

作家桐野夏生氏が平成17年1月・朝日新聞に談話を載せています。(「中流家庭の階層分断」・私たちがいる所)桐野氏はひとつの現象を指摘しています。それは人材派遣会社などによる派遣労働の増加による女性たち・あるいは若者たちの転落です。彼らはフルタイム労働の機会を極端に制限され、安価なパートタイム労働力として使い捨てられている社会的弱者であるのです。これはある種の隷属状態なのです。努力してもどうにもならない・一生下働きで使い捨てにされかねないような状態です。いつの時代にもそういう状態は程度はあってもある場面にはあるものですが、努力さえすればその状況から抜け出ることもできるという実感が世の中から急速に消え始めていると感じられます。 その代わりに「もうどうなったっていいや」みたいな気分が蔓延し始めています。だから、この時代は維新の興奮が醒めた明治30年代の雰囲気に似ているのです。あるいは鎖国して・身分が固定して・安土桃山のダイナミズムが失われていく寛永年間の雰囲気に似ているのです。

『精神面で言えばバブルは「マル金(金持ち)・マルビ(貧乏人)」という分類がはやったように持てる者が持たざる者を臆面もなく揶揄する・下品な社会を創ったと思います。バブル崩壊後もその下品さは残った。そして今、バブルを楽しいと感じた人々、欲望を全開にしてしまった人々が閉塞感のなかで行きはぐれ、右往左往しています。(中略)「所有」に代わる新しい豊かさの原理を見出すことが日本の課題なのでしょう。(中略)所有によって豊かになるという神話を信じられなくなった以上、人と人との関係を見直していく作業しか私には糸口が思い浮かばない。(中略)豊かさが失われたと多くの人が感じている時代には、貧しさとは何か、人間はどこまで貧しくなるのかという問題に、内省を通じて近づいていく作業が求められているはずです。』(桐野夏生氏談話 ・上述)

以上は日本でのことですが、似たようなことは世界的現象としても起きています。9・11テロ以後の世界情勢を見れば分かるように、アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンが指摘した「文明の衝突」は国家間・民族間の経済格差 もひとつの大きな要因だと言えます。それがきっかけで様々な軋轢や亀裂が生じています。もちろん経済的要因だけが現代の抱えた問題の切り口ではありません。その問題は複合的なものであり・容易に解析はできません。しかし、世の中良くない方向に向かっているらしいということは確かに感じられます。

こういう歪んだ時代に吉之助は・歌舞伎だけのことではないですが・芸術芸能を楽しめればそれでいいという感じでは見ることも・聴くことも・読むことも・もはやできないのです。現代に生きるために必要なものは、日常において歪んでしまったものを正常な方向に矯正してくれる古典的な感性です。調和した・バランスがとれた感性とでも言いましょうか。そうした古典的な感性を構築するために現代における歪んだバロック性の正体を無意識的にではなく・明確に認識する必要があります。それでなくては時代に生きる方策を立てることは叶わないのです。歌舞伎を考えることもそのことのひとつの材料にはなると思います。

吉之助の場合には、バロック的なものを解析するために最も都合の良い・日本史的レベルの材料として歌舞伎が必要です。同様にオペラ・およびクラシック音楽が世界史的レベルの材料(正確に言えば西欧史的レベルと言うべき)として吉之助には必要です。このサイト「歌舞伎素人講釈」が・吉之助の観劇歴からするとほぼ二十数年の準備期間を以って・2001年1月すなわち21世紀の誕生と共に始まり、この5年間にかぶき的心情・バロック的感性という風に論理展開をしてきたのは完全に時代とシンクロしていると思っています。

(H18・1・1)


○現代的な歌舞伎の見方・その2:抜け落ちているもの

もうひとつ感じるのは、今の巷にあるところの歌舞伎の見方が時代に対する係わりが切れたところにあると感じられることです。歌舞伎の知識というものが教養の一部(つまり知っているに越したことはないが・別に知らなくてもいいような程度の知識)としてだけあって・それが史観あるいは人生観に裏打ちされたものとして感じられないということです。これについては最近、テレビの英語教育番組で体感による英語トレーニングで人気の言語学者・大西泰斗氏(著書「ネイティヴスピーカーの英文法」など)が語っていることが歌舞伎にもそのまま通じると思います。

『大学受験もくぐり抜けて・高校の英文法などはほとんどわかっている、だけどサッパリ英語はできない。いったい何が足りないんだろう。結論から言えば、「全部」抜け落ちているんですよ。言葉が使われる状況も、感触も、何もかも抜け落ちた、骨格標本のような文法規則しか頭に入っていない。単語をある程度知っていても、それが実際どんな感触で使われるのか、一番肝心なことが抜け落ちているんです 。相手の表情、相手との人間関係、発音のされかた、その文の使われ方と前後の文脈、そうしたものが無数に折り重なって、確固とした語感が築かれる。使うべき場所がわかってくる。「形式主語」といった貧弱な規則や日本語訳を頭に入れただけでは、まともに英語を使えるわけがありません。私は「理論」を作っているつもりはなくて、今までこぎれいに整理・整頓されてきた―そしてその結果まるで使い物にならなかった―知識を、語感の混沌の中に一度戻してあげているのです。 』(大西泰斗:サイト「英語タウン」インタビュー:詳細はhttp://www.eigotown.com/culture/people/onishi.shtmlを参照 )

つまり、同様に歌舞伎の見方というものが「今に生きていない」・抜け落ちているということです。再現芸術である演劇では舞台の時間の経過のなかで個人の心情が高まり・考え方が変容し・熟していく・その過程は、本で字面(じづら)だけ読んで線引きしているのでは決して理解できないものがあります。やはり、登場人物の経時的な心理変化を追体験する(つまり芝居を実際に見て没入する)ことでしか得られないものがあると思っています。音楽も同様です。逆に言えばそうした観点から歌舞伎を見れば歴史・社会学・あるいは哲学のレベルにおいても思いもよらぬ発見があるはずです。そうすれば歌舞伎も今の時代にも通じるものになり・時代との係わり合いも生まれてくるのです。

「歌舞伎素人講釈」がスペインの美術史家エウヘーリー・ドールスのバロックの概念を取り入れ・新たに「バロック的なる歌舞伎」の展開を開始したのはこうした背景があるからです。(別稿「かぶき的心情とバロック」をご参照ください。)歌舞伎だけ を論じているならば「かぶき的心情」だけで十分事足ります。しかし、歌舞伎の様式を解体し、もう一度、汎人類的な観点から融合させるためにはバロックという概念がどうしても必要です。そのために音楽・特にオペラへの検討をせねばならないというのも吉之助なりの必然です。まあ、だんだん地が出てきたというところで もありますが、6年目以後の「歌舞伎素人講釈」は新たな段階へ入ったということかと思います。

(H18・1・3)

*エウヘーリー・ドールス:バロック論


○現代的な歌舞伎の見方・その3:構造主義的な見方

芸術にはいろんなジャンルがあります。演劇は一応「総合芸術」ではありますが、おそらく芸術としては俗に近いものです。つまり、演劇は芸術としてはちょっと低く(ロウ・ブロウに)見られていると思います。(映画も同様に考えられます。)これは演劇というジャンルの持つ宿命みたいものです。その要因はいくつか考えられますが、演劇は対話で展開するのが基本ということがあるように思います。すなわち、誰かさんと誰かさん(あるいは複数の誰かさん)との関係で計られていて・つねにA対Bで進行するのです。独白のようなものでも聞かせる対象は意識されています。基本的な構造が単純で2元論的である(つまり具象的である)と言えます。2元論というのは人間の肉体感覚に発した最も原初的・基本的な意識構造なのです。逆に言えば単純に一面的に割り切るものであり・形而上学的とは言えないところがあります。演劇は個人 だけで作り上げるものではないから観念が形而上学的に(抽象的に)高められる度合いが少ないのかも知れません。そのぶん 大衆にアピールするところがあるとも言えます。その辺が演劇がやや低めに見られるところの原因であるかと思います。逆に言えば吉之助が思うには・演劇は音楽よりもずっと作品解析がし易いと思います。主題が具象的であるし・登場人物の構図がほとんど2元論的であるからです。

最近の「歌舞伎素人講釈」での記事「桜姫断章」はそうした構造論の試みのひとつです。例えば「桜姫断章」においては清玄を「肉体を喪失した精神だけの存在」、一方の権助を「精神を欠いた肉体だけの存在」と見ます。「桜姫という業」においては桜姫を宇宙の律の権化と見て・清玄をその観察者と見ます。観念的な・深読み的 な解釈のように見えると思います。しかし、「桜姫東文章」や「東海道四谷怪談」のような作品はそのような観念的・構造主義的解析に見事に耐えるのです。それは南北が作品的に優れているということがあるのはもちろんですが、それは実は演劇が本来持つところの2元論的なシンプルな構造によることから来るもので ・その分析手法は完全に伝統に立脚したものなのです。

ただし、伝統に立脚したものであっても・その分析手法はこれまでの歌舞伎批評であまり用いられなかったものであるかも知れません。吉之助の構造主義的歌舞伎観はラカン派の心理分析に影響されるところが大きいものです。フランスの学者ジョルジュ・ラカンはフロイト精神分析理論の権威です。フロイト理論はわが師としている武智鉄二が歌舞伎の解釈に取り入れたこともありますが 、何と言うかその用い方はまだ部分的・表層的であって・歌舞伎全体の構造分析にまでは至っていなかったと思います。歌舞伎評論でこうした分析手法を本格的に駆使するのは不肖「歌舞伎素人講釈」がおそらく最初のことかと思います。

構造主義的解析が現代的な方法論であるのは、現代が連関性を喪失しており・ひとつひとつの事象がバラバラに見える・そのために本人自身が直面している事態を明確に認識できないことから来ます。このような時代においては、まずひとつひとつの事象を解析し・その意味を読み込んでいく・世界を再構築する作業がどうしても必要にな ります。演劇あるいは映画というものは、その最も解析し易いところの・ この時代を計るための・じつに好都合な材料なのです。特に歌舞伎においては・非常に人為的な・歪んだバロック的な要素をその内面に持っている(別稿「バロック的なる歌舞伎・歪んだ真珠」をご参照ください)わけですから、 歌舞伎は現代を先取りしているとさえ言えます。すなわち構造主義的解析は歌舞伎において・もっとも伝統的かつ現代的な手法となるのです。武智理論の後継者を自認する吉之助はサイト「歌舞伎素人講釈」において・この方向を追求していきたいと思っています。

(H18・1・8)


○現代的な歌舞伎の見方・その4:比較文化の手法

吉之助が歌舞伎とともに音楽・特にオペラを大事にしているのは、「歌舞伎素人講釈」をお読みの方はご承知のことと思いますが、別稿「八つ橋の悲劇」はビゼーの歌劇「カルメン」と三代目新七の「籠釣瓶花街酔醒」を重ね合わせたものでした。もちろんカルメンと八つ橋は全然互いに関連のない事象です。しかし、明らかに似た症候を呈しているのです。それはなぜかと言えば同じような 歪んだ心情が根底にあるからです。別稿「空想の劇場」でアンドレ・マルローの「空想の美術館」の概念を紹介しました。小品の「走る牡鹿」の写真を拡大して・ロマネスク大聖堂の大壁彫の写真を縮小して・同じサイズで並べて鑑賞するのです。その比較から見出されるものは何でしょうか。

比較文化論において大事なことは類似点だけを論じることです。相違点はそれはそれとして受け止めて流すということが必要です。このことはしばしば間違えられています。相違点 を主に論じれば論旨はしばしばとんでもないところへ展開していきます。巷の比較文化の論文には相違点をあげつらって日本の独自性を論じて・いつの間にやら排他論あるいは独善論みたいになっているものを 多く見かけます。発生地点が異なるものが違った特徴を示すのは当然のことで、それは特性・あるいは個性と認識すべきことです。しかし、類似点には何かのとっかかり(何と言いますか・汎人類的理解へのとっかかりとでも言うべきもの)がある場合が多いのです。 類似点だけが一見したところ全然関係ないようにみえる事象を結びつけるのです。もちろん似てればそれで良しというものでもないですが、類似点に事の本質が潜んでいる場合が多い。これを見つければ比較することの意味が出てくるのです。

例えばリンゴの木はバラ科です。リンゴはバラのような棘はないし蔓もない・おいしい果実のなる樹木で、見た目はバラと全然違います。しかし、リンゴがバラの仲間であることは花弁を調べれば分かるのです。クジラが哺乳類であることも、そのヒレがあり・四足を持たない魚のような形態からは想像ができません。そのためにはクジラの生態を観察せねばなりません。カルメンと八つ橋も同様です。彼女たちが仲間であると分類することは彼女らの独自性を損なうものではなく、むしろその個性に新たな 普遍的な意味を与えるものです。その分析のためにあえて事象を分解し・解体し・解析し・分類する作業が必要になります。「歌舞伎素人講釈」はそのような空想の劇場の解析場なのです。そこから歌舞伎のまったく新しい姿が見えてくるでしょう。そういう解析作業がこれからの歌舞伎には必要になってくると思います。

「歌舞伎素人講釈」の最初期の論考「義経と初音の鼓」は初音の鼓について狐忠信にとっては懐かしい親であり暖かい愛の象徴・人間の世にあっては醜い権力闘争が象徴されているとするものですが、これはワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」 四部作でのラインの黄金からの連想で読み解けます。ラインの黄金はラインの乙女たちの手元にあるときには豊かな自然の恵みの象徴 でありますが、ラインの乙女たちの手を離れて・神々と人間の世界にあっては醜い権力と欲望の象徴に変化するのです。「ニーベルングの指輪」には・これを階級闘争として読み込もうとするバーナード・ショーの有名な論考がありますが、権力闘争に溺れ・やがて終焉を迎える大神ヴォータンに後白河法皇 の朝廷政治の終焉を重ねることも可能でありましょう。知的遊技(一種のパズルを解く楽しみと言えましょう)としてもこれは面白いことですが、ワーグナーの楽劇に先駆けること百年前に日本で「義経千本桜」が成立していることは意味があるかも知れませんよ。(まあ、このことはそのうちにメルマガに書くことになると思います。)そういう風に思考展開していくのが「歌舞伎素人講釈」なのです。

(H18・1・11)


○現代的な歌舞伎の見方・その5:シアター・ドロップアウト

タイトルは刺激的ですが・冗談半分であります。しかし、冗談半分ということは本音も混じっているということではあります。カナダの名ピアニスト・グレン・グールド(1932−1982)はそのキャリアの途上で・64年に突然「コンサートは死んだ」と宣言して一切の演奏会活動から退き・以後レコーディングだけに専念することになります。この「コンサート・ドロップアウト」は演奏会における聴衆との関係や演奏の一回性に疑問を提起したもので、特に芸術とメディアとの関連を論じるうえで多くの哲学者や社会学者の興味をそそって来ました。グールドの関連本は多いですから・興味ある方はそれをご覧戴きたいですが、「コンサート・ドロップアウト」というのは平たく言えば、録音技術が進歩した現代では少なくとも音楽・音そのものを純粋に鑑賞する(グールド的に言うなら思索する)ことにおいては演奏会という「場」は必ずしも必要でない・どころか邪魔な場合もあるということになるのかと思います。

吉之助は別に「劇場不要論」を考えているわけではありません。これからも芝居は「生」が基本となるのは間違いありませんが、ビデオの発達した現代では鑑賞(というより吉之助的に言うところの解析・思索)においては特に「生」にこだわらなくても良いと思っています。映像資料が増えてきた昨今は、もう少し映像に対して積極的な対し方があって良いと思っています。歌舞伎チャンネルは特に地方にお住まいの歌舞伎ファンに新たな可能性を拓くと思います。サイトの「歌舞伎舞台の記憶」を ご覧になれば・もちろん吉之助が生で見た芝居の感想もありますが・舞台録画の感想もあり・吉之助の生まれる以前の映像の感想も載せています。どれも等しく材料として・ 批評空間の時系列を壊すことを意図しています。

吉之助がこうであるのは・ひとつにはこの十数年は仕事やその他の関係で芝居を年に2〜3回しか生で見ていないということがあります。(その昔はそれこそ片っ端から見ておったのですけどね。)もうひとつは吉之助はクラシック音楽の方では・ほとんどこれがレコード(CD)鑑賞主体ということがあります。吉之助はフルトヴェングラーやトスカニーニはもちろん生では聴いていない(生まれる前に死んでたのです)し、生で聴いたカラヤンやバーンスタインも・聴いた回数は圧倒的にレコードであるからです。 音楽においてはビデオ(DVD)批評はすでに当然のものになりつつあります。「生(なま)信仰」というのが吉之助の場合には根本的にないのかも知れません。

観劇ファンの方には「生信仰」は根強いと思います。これは無理もないことです。だから「見てない舞台のことは話せない・ビデオで見ても所詮は代用品・まあ論じるにしてもせいぜい参考程度」という意識になるだろうと思います。劇評も舞台を見たら(つまり上演されたら)すぐ書かれないと駄目だし、もちろんビデオは劇評の材料にならないということになる。しかし、吉之助の場合は十年前の舞台で引っ掛かっていたことが今頃なるほどと思う場合があるので、十年後に思い出して批評を書くことも良しと思います。そういう批評の方が重いこともあると思います。だから生で見てない舞台の映像のことも話題にします。まっ、NHKや歌舞伎チャンネルで録り貯めたビデオも多くあることなので・そういう風にこれからもやっていきたいと思っています。それじゃ客観的批評にならない?いや客観性は書き手のなかにあるものかと思いますね。

(H18・1・13)


○現代的な歌舞伎の見方・その6:文化遺産としての歌舞伎

ユネスコの「世界自然遺産」というのがありますが、日本でも屋久島・白神山地・知床半島が登録されているのはご存知の通りです。実は世界自然遺産規約では山地を切り開くとか・道路やホテルを作るとか再開発は厳しく制限されています。日本では「世界遺産」をキャッチフレーズに観光客を呼び込んで一儲けしようと考えていた方が多いようで、世界遺産に登録されてから「当てが外れた」と言ってブーブー言う方も少なくないようです。しかし、考えれば分かることですが・「世界遺産」というのは「保全(今の状態を未来の人類のためにそのまま取っておくこと)」を目的としているのです。

昨年(平成17年)11月26日に歌舞伎が「無形文化遺産」に登録されました。このことがどういう意味を持つかはそう考えればよく分かると思います。松竹さんが「さあこれで外国人観光客が呼び込めるぞ」と算盤はじいているならお間違えです。責任は重いのですぞ。先行して指定を受けた能狂言・文楽の場合と ・歌舞伎の無形文化遺産登録とは若干意味合いが異なると考えなければなりません。歌舞伎はまだまだ興行として十分に成り立ち・伝統芸能としては固まり切っていないところがあるからです。つまり、まだ生きているというか・「死んではいない」・生(なま)な芸能であるということが言えます。しかし、歌舞伎は自らを「伝統芸能」であると世界に向かって宣言した わけです。このことの意味は将来じわじわと出てくるでしょう。

ご注意願いたいですが・歌舞伎が無形文化遺産であると規定されたからと言って、スーパー歌舞伎が駄目・コクーン歌舞伎が駄目になると言うことではないのです。そういうことを言っているのではないのですよ。しかし、歌舞伎役者が自らが「伝統的である」ということをどう 受け止めるかです。単に「面白いか・面白くないか」ではない芸の尺度がこれからは求められることになるのです。だから、いつぞや三津五郎がインタビューで「今の時代には難しいかも知れないがスタンダードでありたい」(雑誌「演劇界」・平成17年2月号)と発言していた方向性が伝統芸能家として正しいこと になります。

これからの歌舞伎役者にはそうした姿勢が求められます。当然ながら見る側(評論家・観客)も同じです。そうなれば今の歌舞伎のあり方も変らざるを得ないかと思うのです。そういうわけで伝統を考える「歌舞伎素人講釈」の役割は今後もそれなりにあるかなということを考えているわけです。

(H18・1・15)


 


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