(TOP)          (戻る)

三島由紀夫没後50年


作家三島由紀夫が、今から50年前の、昭和45年(1970)11月25日に、盾の会メンバー三人と共に市ヶ谷の自衛隊駐屯地(現・防衛省本庁)に乗り込んで自決という衝撃的な死に方をしたことは、御存知の通りです。吉之助は当時中学生でしたが、その時のことはよく覚えているつもりでしたが、調べてみると三島が自決したのは午後0時半ばのことであったようです。そうすると吉之助が学校から家に帰ってテレビを見て事件を知った午後3時過ぎには、もう事件は終わっていたはずですが、多分、報道が相当混乱錯綜していたのでしょうねえ、当日のテレビ報道では何が起こって現在はどういう状況なのかさっぱり分からず、吉之助にはテレビで同時進行で事件の推移を見たような感覚が依然として残っています。当時の吉之助は作家・三島の名前は知ってはいましたが、事件の時点ではまだその作品を読んだことはなかったと思います。事件の後に「仮面の告白」・「潮騒」」・「金閣寺」など代表作を次々と読みました。本サイトを見ればお分かりの如く、吉之助にとって三島は非常に重要な作家ではあるのですが、あの自決事件が吉之助にとってどういう意味を持ったかは、50年経ってもまだうまく説明が出来ません。現時点ではただ重い印象を受けたとしか申せません。

「歌舞伎素人講釈」に三島由紀夫に関する記事は多くありますが、三島未亡人によって公開差し止めがされて長らく確認出来なかったため、従来フルトヴェングラー指揮だとされていた映画「憂国」の背景音楽「トリスタンとイゾルデ」の音源が、正しくは、レオポルド・ストコフスキー指揮フィラデルフィア楽団による、1932年RCA録音のストコフスキー編曲による管弦楽版「Symphonic Synthesis」(「交響的統合」 とでも訳しますかね)から拝借したものであることを、音楽評論家山崎浩太郎氏のご協力を得て同定確認できたことは、これは一応、「歌舞伎素人講釈」の成果として自慢して良いことかなと思っています。(別稿「妻麗子の幻影」をご覧ください。なお本件については山中湖畔にある三島由紀夫文学館の研究室だよりのなかでも紹介されています。)

ところで、三島は「椿説弓張月」(昭和44年11月国立劇場初演)など歌舞伎作品を8本書きました。三島は中学生(13歳)の時に初めて歌舞伎を見て以来、歌舞伎に親しみ・歌舞伎に造詣の深い作家であることは良く知られていますが、恐らく作劇だけではなく小説においても、三島のなかで歌舞伎が作品に及ぼしている影響は想像以上に濃いと思っています。このことに関しては、吉之助も公開されている創作ノートなども調べて長年考えてはいますが、文献的には多分立証出来るものは少ないと思います。しかし、吉之助の心証としては、三島作品での歌舞伎からの影響はかなり見られそうです。それは深層心理的に深いところで、感性でつながっているものです(そもそも昭和45年の自決自体がかぶき的行動ですが)一例を挙げれば、遺作「豊穣の海」四部作は、三島自身は「浜松中納言物語」からインスピレーションを受けたと書いてはいますが、吉之助は意外と鶴屋南北の「桜姫東文章」との関連が深いものと考えています。(これについては別稿「桜姫という業(ごう)」あるいは「三島由紀夫と桜姫東文章」をお読み下さい。)

なお三島由紀夫没後50年企画として、「獣の戯れ」とベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」について論考を書きましたが、もう一編、三島が昭和23年(1948)に書いた短編「サーカス」と歌舞伎との深い関連についての論考が、近いうちに連載予定であることを付記しておきます。

(R2・11・6)





  (TOP)        
(戻る)