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三島由紀夫没後50年記念企画

三島由紀夫:「サーカス」と「伽羅先代萩」

*三島由紀夫は昭和45年(1970)11月25日没。

(この連載は未完です。最新の章はこちら。)


1)七代目宗十郎のこと

三島由紀夫が初めて歌舞伎を見たのは、学習院中等科一年(13歳)の時であったそうです。演目は祖母と母に連れて行ってもらった昭和13年(1938年)10月歌舞伎座での「仮名手本忠臣蔵」通しでした。配役は、十五代目羽左衛門の由良之助・勘平、六代目友右衛門の師直、十二代目仁左衛門の顔世御前・お軽などでした。少年三島は花道近くの桟敷席からこの芝居を見ました。

大序が始まり花道から不思議な人が出て来ました。それは十二代目仁左衛門扮する顔世御前でした。傍から見るともう皺くちゃ顔で、これが忠臣蔵という大事件の原因になる美人とはとても想像も出来ない。それが、いきなり声を出すので少年三島はびっくりして、よく男でこんな声が出るもんだと、ただただ呆気にとられて見ていたそうです。この時、三島は、

「歌舞伎には、なんともいえず不思議な味がある。くさやの干物みたいな、非常に臭いんだけれども、美味しい妙な味があると子供心に感じた」(「国立劇場俳優養成所での特別講義」、昭和45年7月3日)

と後年語っています。それから昭和25年ごろまでの約十年間、三島は歌舞伎を「一生懸命に」見たそうです。後年出版された「芝居日記(平岡公威劇評集)」を見ると、三島はこの頃、歌舞伎を毎月のように見ており、歌舞伎座だけでなく、本所の寿劇場・渋谷劇場などの小芝居にまで通って、感想をノートに几帳面に記しています。

三島由紀夫:芝居日記

少年時代の三島が特に好んだ役者は、七代目澤村宗十郎(明治8年・1875〜昭和24年・1949)でした。ずいぶん通っぽい好みだなあと驚きます。宗十郎は、草双紙のような古風な芸風をもった役者でした。顔が長くて背が低い肉体的な特徴がねっとりと艶のある芸風を生み出し、現代の観客の好みからすると、時代遅れで大袈裟な痴呆的な演技と批判されかねないところもあったのですが、そんなところが宗十郎の大きな魅力でした。戦後はその芸風が他に求められない古風な味わいがあるとして、「宗十郎歌舞伎」と呼ばれて珍重されました。当たり役は「矢口渡」のお舟、梅の由兵衛、「野崎村」のお光、「毛谷村」のお園、「吉田屋」の伊左衛門など。

写真上は、七代目宗十郎の当たり役のひとつ・「神霊矢口渡」のお舟。

ところで後年の三島が六代目歌右衛門を贔屓にしたことはよく知られています。三島は歌右衛門のために「地獄変」・「鰯売恋曳網」など歌舞伎脚本を5本も書きました。三島が歌右衛門の芸風を好む理由は、吉之助にもよく分かります。歌右衛門は戦後の歌舞伎が女形を必要としなくなるかも知れないという空気を感知し・それに鋭く反応して、「わたしが女形じゃなくなったら、わたしじゃなくなるんだから」という危機意識のなかで自らの芸を先鋭化させていく過程をたどりました。時代の空気に鋭く反応する若き作家の感性が、歌右衛門の芸の在り方に魅せられたのは当然だと思います。(別稿「六代目歌右衛門の今日的意味」を参照ください。吉之助の最初期の論考です。)

「中村芝翫論」(昭和24年・1949)は、六代目芝翫(後の六代目歌右衛門)の賛美にとどまらず、三島の美学の秘密を解き明かすうえでも興味深い評論です。ここで三島は、芝翫の美は「一種の危機美」であると云っています。たとえば芝翫の雪姫が後ろ手に縛られたまま大きく身を反らせる、こうした刹那に芝翫の柔軟な肉体から「ある悲劇的な光線が放たれる」、それが舞台全体に妖気を漲らせる。芝翫の美には古典的均整のなかに「近代的憂鬱の入り混じったなにか」が潜んでいる。歌舞伎とは「魑魅魍魎の世界」であり、その美は「まじものの美」でなければならない。また「その醜さには悪魔的な蠱惑」がなければならない。そして歌舞伎の怪奇な雰囲気は「黒弥撒」に他ならない。芝翫の美は、そのことを想い起こさせると三島は云うのです。

吉之助には三島が歌右衛門を贔屓にしたことは理解できますが、少年三島が七代目宗十郎を贔屓にしたということは、聞いただけではスンナリと理解しがたいところがありました。なぜならば歌右衛門の先鋭的な芸の在り方と、宗十郎のそれとは、正反対であるように思えたからです。三島は宗十郎のことがどのような理由で好きだったのでしょうか。それは、少年三島が、宗十郎の芸風の、「時代遅れで・古風で・芝居掛かって大袈裟な」芸風が好みだったと云う単純なことではなさそうです。その背後に少年三島の美学があるはずです。

吉之助がつらつら思うには、歌右衛門と宗十郎との間に、三島が見出した共通項は、どうやら「芝翫論」で三島が使った「危機美」というところにありそうです。ただし歌右衛門の場合は未来形の「危機美」、宗十郎の場合はほとんど過去形の「危機美」なのですが。

三島は「沢村宗十郎について」(昭和22年・1947)のなかで、こんなことを書いています。かつて近世の歌舞伎劇はひとつの宗教であった。貴族的な洗練を経ない・異様な新しさの具現がそこにあった。それらが、ひとたび現実であり生身であった美しい俳優(わざおぎ)たちの顔であった。しかし、時代が過ぎ好尚が衰えて尚古癖や好事(こうず)に席を譲る他はなくなると、残された絵姿は自らが立脚していた時代の好尚を厳しく拒み始めた。自らのうちに花やいださまざまな願望をおのれ一身でせき止めて、その断面の美しさのみを伝えようと決心したと云うのです

『しかしここにその顔を生んだ時代の好尚をもはや拒みえない悲劇的な顔がある。(吉之助注:つまりそれが七代目宗十郎の顔だと三島は云うのです。)時代が滅びた後にただ一人生き残った顔がある。これは役者絵が果たした決心と責務のちょうど裏腹のもの、古名優が死によって成し遂げたのとあたかも逆の働きを運命付けられて生き残ったとしか思われぬ。あれは時代の盛時を荷(にな)って亡びたものの再生であった。これは亡びつつある一時代の返り花に他ならなかった。』(三島由紀夫:「沢村宗十郎について」・昭和22年・1947)

思えば三島は、「滅び」について形を変えながら何度も何度も語って来た作家でした。そもそも昭和45年11月25日の三島の自決がそう云うものであったと思うし、遺作となった「豊穣の海」四部作もそうでした。昭和42年(1967)の戯曲ですが、太平洋戦争戦中・戦後の2年間を舞台に侯爵家である朱雀家の崩壊を描いた「朱雀家の滅亡」もそうです。その結末部に次のような台詞があります。

瑠璃子:「滅びなさい。滅びなさい!今すぐこの場で滅びておしまいなさい。」
経隆:(ゆっくり顔をあげ、瑠璃子を注視する。- - 間。)「どうして私が滅びることができる。とうのむかしに滅んでいる私が。」
(三島由紀夫:「朱雀家の滅亡」・昭和42年・1967)

とうのむかしに滅んでいる歌舞伎の昔の芸が、時代に対して滅ぶことを拒むかの如く眼前(舞台)にあったということなのです。宗十郎の芸も、歌右衛門の芸とはベクトルの方向が真逆になりますが、まさに時代に対して先鋭的なものであった。本人がどう思っていたかは分かりませんが、本人の意思に係わらず、宗十郎の芸が時代に対して自らの存在を主張する。いわば現代は過去から鋭く批評されることになるのです。少年三島は宗十郎の芸をそのように見たわけです。(この稿つづく)

(R2・11・8)


2)七代目宗十郎と三島

三島が自ら「一生懸命に歌舞伎を観た」とした昭和十年代から二十年代前半の歌舞伎界の頂点に立っていた役者は、六代目菊五郎でした。だから三島が菊五郎の芸をどう考えていたかはとても大事なことであるので、ここでちょっと触れておきたいと思います。三島は、「中村芝翫論」(昭和24年)のなかで、菊五郎についても書いていますが、芝翫賛美の傍らで三島はしばしば菊五郎批判を展開するのです。これはいささか唐突な印象を受けます。別に菊五郎を引き合いに出さなくても、「芝翫論」の論旨は変わらないと思うからです。むしろ論旨を不必要にややこしくしているように感じます。しかし、三島としてはまず菊五郎を批判した後で「だから自分は芝翫を評価するのだ」と言いたかった気持ちは、文章を読むと、何となく分かって来ます。例えば、菊五郎が政岡を演じる時、「菊五郎は知恵ある観客と競争をしてみせる」と三島は言います。三島は、

(菊五郎の政岡の感動は)観客が政岡を観ることの感動ではなく、観客自身が菊五郎に倣って政岡を演じることの感動なのである。却って政岡という役は観客と演者との間に介在する魂のない土偶になる。」(「中村芝翫論」昭和24年)

とまで書いています。戸板康二は、著書「六代目菊五郎」のなかで、「菊五郎は要するに正面をきらない人だった。きれなくはなかったが、きりたくないのだ」と書きました。普通の役者が大きく二呼吸ほどの時間をかけて見得をするところを、菊五郎は一呼吸、あっという間に見得を終えてしまい、すぐ次の動きに移ってしまったそうです。それは旧来の見得の持つ或る種の「臭み」、観客が望んでいる見得の「ツボ」をあえて拒否する行為でした。このような菊五郎の演技は、ノイエ・ザッハリッヒカイト(新則物主義)の感覚です。ここに「近代的な芸術家」の姿がほの見えるとして、武智鉄二などはこれを大いに評価しました。しかし、三島は、菊五郎の近代性を一刀両断にしてしまいます。

「菊五郎の近代性というべきは、実はあまり根ざしの深くない現実主義、合理主義、自然主義などの、概論風な近代性であった。教科書を読めばわかる程度の近代性である。菊五郎の新しさはあくまで方法の新しさで、本質的な新しさではなかった。」(「新歌右衛門のこと」昭和26年)

菊五郎の時代には、まだ古い時代の雰囲気を濃厚に残した錦絵役者が生きていました。(宗十郎がその一人であることは云うまでもありません。)その中で歌舞伎役者としては不利なずんぐり体型の菊五郎は、自のハンデキャップを封じるために、芸を心理の内面へ向けて行きました。したがって菊五郎には対立すべき規範が先に存在しており、菊五郎はその持ち前の写実の芸を深めていく事で近代的に見せていただけであり、菊五郎の芸に本質的な新しさはないと三島は断じるのです。そして、歌右衛門の役割は「菊五郎の近代性へのアンチテーゼ」だと三島は高らかに宣言します。

ちなみに昭和24年(1949)3月2日に七代目宗十郎が亡くなり、同年7月10日には六代目菊五郎も亡くなりました。宗十郎の亡き後、三島は、菊五郎の近代性へのアンチテーゼを、若き六代目歌右衛門に託すことになるわけですが、歌右衛門以前(つまり戦前の歌舞伎)においては、菊五郎の近代性へのアンチテーゼの役割を、三島は宗十郎に見出していたと云うことなのです。

ところで三島の初期短編「サーカス」は、昭和23年(1948)1月に「進路」という小雑誌に掲載されたものでした。三島は前年(昭和22年)11月に東京大学を卒業し、同じ月に念願であった短編集「岬にての物語」を出版、12月には高等文官試験に合格して大蔵省に入庁したばかりという・慌ただしい時期に当たります。三島は当時を回想して、終戦直後のわずかな期間、新しい雑誌が生まれては消えていったが、そこでは高度な観念主義がどの雑誌をも支配しており、あらゆる商業的規制から自由であった、「サーカス」はそんな間隙から生まれたわがままな小品であると後に書いています。「サーカス」についての作者の愛着が伺われます。

「サーカス」創作ノートには日付がありませんが、一応執筆時期は概ね昭和22年半ばのことであろうとして話を進めます。この創作ノートのなかに歌舞伎の記載がちょっとだけ見られます。ただし「サーカス」との関連は、まったく暗示されていません。ただ芝居の配役のみメモっただけに過ぎないようで、恐らく歌舞伎に関心のない研究者の大半は見過ごすと思います。ここではメモのうち主要配役のみを記載します。

「曽我対面」:工藤祐経 十五代目羽左衛門、曽我十郎 七代目宗十郎、曽我五郎 (六代目菊五郎)

「伽羅先代萩」:細川勝元 十五代目羽左衛門、政岡 七代目宗十郎、仁木弾正 六代目菊五郎、八汐 十二代目仁左衛門

「与話情浮名横櫛・源氏店」:与三郎 十五代目羽左衛門、お富 十二代目仁左衛門、 多左衛門 七代目宗十郎、蝙蝠安 六代目菊五郎

たったこれだけです。「先代萩」に関しては、配役が若干異なったメモが、もう一箇所見えます。これは吉之助の勘ですが、恐らく創作ノートに記された三作品では「先代萩」が、「サーカス」読解のうえで最も重要です。

「伽羅先代萩」:細川勝元 十五代目羽左衛門、政岡 七代目宗十郎、仁木弾正 六代目菊五郎、八汐 六代目寿美蔵(後の三代目寿海)

注目すべき点は、どの配役にも共通して七代目宗十郎の名前が見えることです。(これは十五代目羽左衛門についても同様ですが、三島の歌舞伎観を考える上で、これも興味深いことです。)そこに当時の三島の宗十郎に対する傾倒ぶりが伺えます。なお十五代目羽左衛門は、昭和20年5月6日に、疎開先の長野県湯田中で亡くなりました。また十二代目仁左衛門も、昭和21年3月16日に、戦後混乱期の不幸な事件で亡くなりました。したがって「サーカス」執筆時点(昭和22年半ば?)では、もはや望めない配役でした。上演記録を調べてみると、少なくとも三島が初めて歌舞伎を見た昭和13年(1938年)10月以降から昭和20年8月終戦までに、上記の配役での上演記録は見られないようです。したがって、創作ノートでの配役メモは、三島が実際に目にした舞台の配役ではなく、三島が想像した(理想の?)配役かと思われます。

これに近そうな配役を上演記録から探してみると、例えば「源氏店」に関しては、

昭和17年6月歌舞伎座:与三郎 十五代目羽左衛門、お富 十二代目仁左衛門、多左衛門 七代目宗十郎、蝙蝠安 六代目友右衛門

という記録が見えますが、蝙蝠安が異なっています。また「伽羅先代萩」に関しても、

昭和16年3月歌舞伎座:細川勝元 十五代目羽左衛門、政岡 七代目宗十郎、仁木弾正 七代目幸四郎、八汐 十二代目仁左衛門

昭和18年4月歌舞伎座:細川勝元 十五代目羽左衛門、政岡 十二代目仁左衛門、仁木弾正 六代目菊五郎

という記録が見えますが、これも配役が若干異なります。なお、上記の三公演に関しては、「芝居日記(平岡公威劇評集)」のなかに言及が見られません。東京歌舞伎座の上演なので青年三島が上記舞台を見た可能性は大いにありますが、実際に三島が目にしたかどうか確認が出来ませんでした。

一方、宗十郎が演じる政岡に関しては、「芝居日記」に記載があって青年三島がこれを見たことがはっきり確認できます。それは歌舞伎座ではなく・小芝居での御殿一場のみの上演になりますが、

昭和19年10月浅草松竹座:「伽羅先代萩・政岡忠義の場」 政岡 七代目宗十郎、八汐 六代目寿美蔵(後の三代目寿海)

という舞台でした。そこで次に宗十郎が演じる政岡について考えてみたいと思います。(この稿つづく)

(R2・11・11)





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