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偉大なる男の記憶

〜バロック的なる歌舞伎・その3:吉之助流・荒事論


『遠く過ぎ去った時代は、人間が抱く空想にとって大きな・しばしば謎めいたと言ってもよいほどの引力を持つ。人間はしょっちゅう現在に不満を抱き・過去に向かい・今度こそは決して消え去らない黄金時代の夢を真実の世界として確保できるようにと願う。おそらく人間はいつも幼年時代という魔術に支配されているのであって、この幼年時代は人間にとって決して公平無私とは言えない記憶によって不満なき至福の時代として映し出されている。過去が不完全でぼやけてしまった記憶でしかないならば、これを我々は伝承と呼ぶわけだが、これは芸術家にとっては格別に刺激的なものである。なぜならば、その場合、記憶の裂隙を空想という強烈な欲望で埋めつくすことも、再び生み出そうとする時間の有様を意図的に造形することも、芸術家の自由に任されているからである。伝承がぼやけるにしたがって、伝承はますます詩人にとって役立つようになると言ってもよいだろう。それゆえ、文学にとっての伝承の意義に関しては不思議は何もない。』(ジークムント・フロイト:「モーセと一神教」)


1)隈取りの功罪

ずいぶん昔の話ですが、歌舞伎座でたまたま外国人女性が隣りの席に座ったことがありました。彼女は詰まらなそうで・居眠りなどしておりましたが、芝居が「賀の祝」になって松王と梅王が登場すると「オオ、ワンダフル」とつぶやいて・ムクッと起き上がり、やおらカメラを取り出してパチパチやり出したのには閉口しました。どうして彼女が「ワンダフル」と言ったのかと言うと、それは松王・梅王が隈取りをしていたからで した。隈取りの化粧はエキゾチックで・いかにも「カブキ」に見えたらしいのです。

歌舞伎の「賀の祝」の松王・梅王が隈取りをしているのは喧嘩の場面が荒事の演出になっているからです。兄弟が俵を持って引き合う場面など「象引」やら「錣(しころ)引」の荒事場面を連想させるのでしょう。「いかにも歌舞伎らしい場面だ」とお感じの方も多いと思います。しかし、 吉之助はへそ曲がりなので・あの隈取りは「車引」には確かに似合うけれども・「賀の祝」の写実ののどかな田舎の田園風景の舞台面にはふさわしいように思えないのです。喧嘩の場面だから力強い・だから荒事だ・隈取りだという歌舞伎の発想はちょっと安直じゃないかと思ったりします。

隈取りでもうひとつ気になるのは「鏡獅子」の後シテの化粧のことです。あの化粧は広義に隈取りに分類されるようですが、最近の後シテの化粧を見ていますと・線が強過ぎで曽我五郎が獅子に変身したような感じに見えてなりません。これなども獅子は強いんだ・パワフルだという発想で、だんだん化粧の線が太く濃く強くなっているように思えます。獅子の毛を振り回す数を競うような風潮が昨今あるのもこれと関連しているでしょう。九代目団十郎が前シテのお小姓と後シテの獅子のイメージの落差を「鏡獅子」の発想に置いているのは確かです。しかし、「鏡獅子」は荒事ではないのです。可愛い女の子が獅子に変身しているのであるし・ 獅子物舞踊の系譜上に「鏡獅子」を見るのであれば、あまり線の強い化粧にするのはどうかと思います 。

伊藤信夫氏はその著書のなかで「隈取りは自らの容貌を修正し・その短所を補う変身のためのものであったが、その魅力が技芸の持つ魅力さえも圧倒してしまうことになった。こうして歌舞伎は役者を中心に発展していき、文学的内容が貧弱なものになった。隈取りは、歌舞伎をそのような宿命に追い込んだ化粧なのである」と指摘しています。(伊藤信夫:「隈取り〜歌舞伎の化粧」・岩崎書店)この指摘は重要です。隈取りが歌舞伎を魅力的にしている要素のひとつであることは確かですが、「これが歌舞伎だ」という隈取りの強烈なイメージが歌舞伎の型をパターン思考にしてしまっている弊害もしばしば見られるような気がします。

*伊藤信夫:隈取り―歌舞伎の化粧

一方、隈取りの美意識が成功している例も挙げておく必要があるでしょう。例えば「忠臣蔵・四段目」での上使・薬師寺次郎左衛門の赤面です。最近の舞台では薬師寺は普通の扮装ですが、ひと昔前には薬師寺は異様な赤面で登場し・その悪役ぶりを見せ付けたものでした。塩冶判官の切腹の上意を伝えに登場する薬師寺は、その悪意をあからさまにして・罵詈雑言を吐きます。塩冶判官に同情する観客に対して、薬師寺の赤面は幕府の裁 きの不当を象徴するかの如きです。実録風の演出になってしまった四段目のなかで・薬師寺の赤面だけが異様な悪意を以って登場すると、その場違いな印象(ギャップ)が、この場が実録の浅野内匠頭の切腹ではなく・時代物(つまり無理矢理架空のものにされてしまったところの)の足利時代の塩 冶判官の切腹であることの不自然さを強く意識させます。

時代物・特に江戸時代の出来事を過去のある時代に仮託している時代物の場合は、同時代の事件が劇化できないというやむを得ない制約のなかで生まれたものですから・その「虚構」の不自然さ を意識させるのも大事なことかも知れません。もしかしたら薬師寺の赤面が考案された時にも・そのことが意図されたかも知れません。吉之助が初めて「四段目」を見た時にも赤面の薬師寺の非人間性が強烈なほどに感じられました。こうした非人間的状況に対する反発こそ由良助らの行動の原動力だと直感できました。

赤面の「非人間性」を封建制批判・幕府批判にすぐに結びつけてしまうのはちょっと唯物史観的に思われるかも知れませんが、そういう要素は一面としてあり得ることです。どんな時代でも・世間でも・社会でも・家庭でも個人を制約し縛るものはいろいろある ものだという風に考えてみたいと思います。そのような「個人を圧倒する巨大な状況」が異様な悪意のある顔をして舞台に立ち現れるのです。赤面はそうした何ものかを象徴していると考えられます。そこに 吉之助は歌舞伎の隈取りの美意識の一面を見るわけです。


2)試論・隈取りの発想

個人を圧倒し・個人の尊厳を束縛する「巨大な非人間的状況」、それは異様な・悪意のある顔をしてこちらへやってきます。それならば、そのような邪悪な圧倒的な存在に対して、我々はどのようにして対抗すべきでありましょうか。そのような圧倒的な存在に対抗するためには、我々もまた超越的な存在のパワーを借りなければ なりません。その答えのひとつが「暫」の鎌倉権五郎の「筋隈」なのです。

隈取りの成立については諸説あり・正確なところは分からないようです。「歌舞伎年代記」によれば延宝元年(1673)初代団十郎の「四天王稚立 (してんのうおさなだち)」の坂田金時が全身を赤く塗って・紅と墨で隈を取って大評判をとったのが最初であると言われています。それが次第に変化して、元禄15年(1702)の三度目の「暫」において初代団十郎はその後の「筋隈」の原型となる「塗り顔の荒事」を演じます。(「歌舞伎年代記」による)

一方、「暫」のウケの隈取りとして有名な山中平九郎の「公家荒の隈」は二代目団十郎の「暫」の時のことですから・もう少し(十数年くらい)後の成立になります。しかし、初期の歌舞伎は「善玉対悪玉」という単純な対立構図を持っていたわけですから、悪役が悪役然としてこそ・善玉の隈取りも映えるというものですし・またその逆も言えます。実際、「暫」の舞台を見ていると、ウケの「青黛(せいたい)の隈」の持つ超絶的な魔力に対して・主人公が何とか対抗できるのはその隈取リの持つパワーあってのことだと思えます。また、同時に筋隈の主人公の超人的なパワーを・ウケががっしりと受け止めるために、ウケはそれなりの化粧をして魔力を帯びなければならぬと思うわけです。つまり、このふたつは初めから対(つい)になっていると感じます。

だとすると善玉の隈取りが初代団十郎によって単独で発想されたものと考えるよりも、悪鬼・悪霊の化粧というものがまずそれなりに最初にあって(悪霊が奇怪な化粧をすること自体は別に特異な発想ではなかったはずです)・その邪悪な魔力に主人公が神仏の超人的な力を借りて対抗しようという発想で団十郎の隈取りが生まれたと考える方がより自然ではないかと思うわけです。「四天王稚立」の坂田金時ならば・相手は酒天童子なわけですから・これもそれなりの化粧をしていたに違いないと思えるのです。これは私の想像に過ぎませんが。

坂田金時も曽我五郎も鎌倉権五郎もその昔から荒人神信仰の対象として民衆の人気を集めてきた存在ですから・江戸の舞台で取り上げられるのはごく自然なことです。しかし、彼らが主人公だと言っても・それだけで神事としての荒事は成立しなかったように思われます。それが神事であるためには舞台上でのその役の「神性」が観客に実感される必要があるのです。そうして初めて荒事は神事になるのです。

彼らはその行動の凄まじさ・パワーの強さから・その死後に荒人神として崇められることになったわけですが、彼らは最初から「神さま」として舞台に登場するのではありません。生身の人間として舞台に登場 しているわけです。もちろん死後には「神」として崇められることになるその証拠・その超人的なパワーが観客に実感されなければなりません。問題はその神性をどうやって舞台上で表現するかです。それを可能ならしめたものが隈取りという表現手法だったのです。

能楽では悪鬼・悪霊に変身するために面が使われました。歌舞伎はもともと写実から発した演劇ですから・変身において面を使わず・それを化粧において行おうとしました。初期の歌舞伎における悪鬼・悪霊の化粧は恐らく能面のデザインを真似たものであったでしょう。しかし、それがどんなデザインであったにせよ、この世に存在しない魔性(それゆえ超絶的なパワーを持つと信じられている存在)に対する化粧でありました。そのこと自体は不思議なこととは思われません。しかし、そういう化粧を生身の人間の役柄の化粧に応用しようとするのには発想の飛躍が必要なのです。

「歌舞伎年代記」が記す通り・延宝元年(1673)初代団十郎の「四天王稚立」の坂田金時を隈取りの創始とするならば、伝説の出雲のお国の「かぶき」の始まりから70年も経っています。発想の飛躍のためにはそのぐらいの長い時間が必要だったかも知れません。悪鬼・悪霊の化粧を生身の人間に応用するということは、その人物は単に強いとか元気がいいというだけを意味するわけではないのです。それ以上の意味・超人的なパワー(神性)がその役柄に付加されているわけです。こうして坂田金時という超人的キャラクターの神性が観客に実感されることになります。

初代団十郎は信仰心のすこぶる厚い人でした。団十郎はその日記に荒事での自分の演技について「これ人倫のはたらきならず」と書いています。ですから団十郎が創始したとされる荒事の隈取りも彼個人の天才的発想というよりは、団十郎の強い信仰心と江戸の民衆の信仰の賜物だと言うべきなのでしょう。以上は吉之助の想像に過ぎませんが。


3)現世的な・しかして他者的な

しかし、隈取りというのはすこぶる強烈な表現手法ではあります。隈取りの化粧を施した荒事の主人公たちは荒人神(あらひとかみ)です。舞台の上で役者は「人間であって・この世の常の人間ではない」ものに変身しているのです。

伊藤信夫氏は「(隈取りによって)役者の生身の美しさを隠すのではなく、素顔の魅力と変身の魅力を合体させて、役者のイメージを無限にふくらませて助長させてしまった。そのことが歌舞伎を役者本位の演劇にさせてしまった」と指摘しています。イヤまったく荒事の主人公は隈取りによって役者以上の存在になっているのです。現代の我々はこのような「荒事が神事である」ということを何の疑いもなく予備知識として受け入れてしまっています。しかし、ここのところをもう少し突っ込んで考えてみたいと思います。

先行芸能である能楽は「神に捧げられた演劇」でした。それならば歌舞伎は演劇という表現形式を民衆の視点にまで引きおろした現世的な演劇であると言うことが出来ます。そういうスタンスならば 歌舞伎は神事から離れていくのが自然な方向だろうと思います。神事とは本来「現世的ではない・神の視点で構成されており他者的なもの」だからです。しかし、最もかぶき的な・原初的な形態であるはずの荒事が奇妙なことに強烈な神事であるのです。構造が単純であるだけにそのインパクトがより強く感じられます。

その一方でまさに荒事が間違いなく「かぶき的」であることの証もあります。それは「民衆出身のヒーローが神になっている」ということです。つまり「現世的であると同時に他者的」なのが荒事なのです。このような内部矛盾に荒事という演劇形式の特徴があります。

『いくつかの相矛盾する糸があるひとつの動作に結集された場合、そこから生まれる様式は常にバロックのカテゴリーに属する。』(エウヘーリー・ドールス:「女性の敗北と勝利」・「バロック論」に所収・美術出版社)

*エウヘーリー・ドールス:バロック論

このドールスのバロックの定義を思い起こせば、荒事のバロック性が理解できるでしょう。それは何ゆえであろうかと考えると「隈取り」のもたらす効果に思いが至ります。悪鬼・悪霊だけに本来許されるはずの異様で様式的な化粧法を、生身の人間に応用し、それにより「生身の人間である自らが舞台で神と化す」ことを可能としたことにあります。そのために荒事は「民衆が主体の現世的な演劇」という本義から離れた道筋をたどる事になります。

しかし、隈取りだけでは「神事としての荒事」をまだ十分に説明できないようです。神事としての荒事は初代団十郎は元禄17年(=宝永元年・1704)2月19日、市村座の「移徒十二段(わたましじゅうにだん)」に出演中に同じ座の役者生島半六に刺されて舞台の上で殺されたという事件なしでは完成しなかったように思えます。同年7月に父親の不慮の死により・長男九蔵が17歳で二代目団十郎を襲名します。二代目団十郎は父の創始した荒事を次々と演じて、荒事の創始者としての初代の位置付けを確固たるものにしました。

神事としての荒事を確立したのは二代目団十郎です。その背景には江戸の民衆の御霊信仰がありました。言うまでもなく曽我五郎も鎌倉権五郎も関東の民衆に昔から信仰されてきた御霊神です。荒事の役者として御霊の役どころの数々を演じてきた初代の強烈なイメージ、舞台上で無惨に殺された初代の無念の思い、それらが御霊信仰とからまって・市川団十郎家を歌舞伎の数ある家系のなかでも特別な存在に仕立て上げていきます。

神事としての荒事を考えてみます。別稿「荒事における稚気」において、「荒事芸は童子の心を以て演ずべし」という口伝の意味を考えました。荒事に見られる「稚気」にはかぶき者の過剰さが人々に愛された時代の記憶があるのです。初代団十郎の頃には幕府はその過剰さを疎ましく思い・かぶき者の規制を強化し始めていたのですが、芝居のなかのかぶき者にはその「元気の素」がまだまだしっかり残っているわけです。

初代団十郎は、元禄10年(1697)2月中村座の「大福帳参会名護屋(だいふくちょうさんかいなごや)」で「鎌倉権五郎を演じました。これが「暫」の始まりと言われています。鎌倉権五郎は奇怪千万なメーキャップと衣装で虚仮脅しをしているようですが、役自体に自分の過剰さが観客に愛されているという甘えが そこに見て取れます。「暫」の権五郎は揚幕の方まで下がってくれと言われて「イーヤーダー」と幼児がダダをこねるように 高調子で拒否します。「睨み殺すぞ」というような台詞も・リアルに言わないで、「ニラミコーロースゾー」と子役の台詞みたいにわざと棒で言ったりします。そうすることで荒事役者は観客に媚びてみせるのです。それを観客が喜んで受け入れる。かぶき者である自分が観客(民衆)に愛されているという確信があるから、観客に媚びているのです。それが童子のイメージに繋がります。その童子のイメージから「祭祀性」が照射されるわけです。

 その一方で荒事の「神事」は別の側面も併せ持っています。「暫」という芝居は見方を変えれば体制鎮護の芝居なのです。権五郎は江戸町民のヒーローの姿をとりつつも、実は体制存続を脅かす人間を退治する警察官であると見ることもできます。あまり意識はされていないようですが・上から押さえつける要素が確かにあるのです。(別稿「身分問題から見た歌舞伎十八番・その1・暫と不動」をご参照ください。)

初代団十郎は元禄10年(1697)5月中村座の「兵根元曽我(つわものこんげんそが)」で不動明王を演じました。この「不動」は大評判で成田近郊からの信者たちが 劇場に連日つめかけ、不動明王の姿をした舞台の団十郎に投げられた賽銭は毎日十貫文に上ったと言います。団十郎の屋号「成田屋」はこのときから始まったというほどの大当たりでした。この芝居ー正確に言えば「不動」は単独で演じられるものでないので「幕」と言うべきですがーはじつに奇怪な芝居です。団十郎扮する不動明王がただじっと座っているだけの芝居なのです。その団十郎の不動明王を見た観客が拝んだり賽銭を投げたりするのです。しかし、観客に自分を拝ませ賽銭を投げさせる役者の気持ちはどういうものなのでしょうか。そして役者にみずから喜んで屈服する民衆の心理はいかなるものでしょうか。両者の屈折した意識を感じるのは 吉之助だけでしょうか。

もうひとつ考えてみたいことがあります。初代団十郎の死が御霊信仰と結びついたとしても、普通ならばそれは初代団十郎個人への御霊信仰に限定されるものだろうと思います。ところが荒事の場合はそれが荒事全体・というより隈取りが施された役柄全体への「祭祀性」に置き換わっているのです。このことをどう考えればよいのでしょうか。


4)初代団十郎殺しの記憶

話が突然変わるようですが、精神分析学者のフロイトの最晩年の著作に「モーセと一神教」という本があります。死に直面したフロイトが全身全霊を以って立ち向かった非常に個人的な趣の本であり、フロイト研究者の間でも評価は分かれるようです。この本が特異なのは文献的にほとんど根拠がない「モーセ殺し」を論じていることです。

この本の詳細に立ち入ることはしませんが、ここでフロイトは「偉大な男たち」ということを言っています。「偉大な男たち」とは別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎・その1」で引用しました折口信夫発言にある「時代にいきどおった男たち」と同じと言ってよろしいものです。すなわち何か自分に課せられた使命を感じて奮い立ち、時代・社会を大きく動かした男たちです。

『我々が、たとえばゲーテ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ベートーヴェンをためらいなく偉大な男たちだと理解するとするならば、その時には、彼らの偉大な作品に対する感嘆の念とは別の何かしらが我々を動かしているに相違あるまい。もしもこの男たちのような例がなかったならば、おそらく「偉大なる男」という名称はもっぱら行動する男たち用のもの、つまり征服者・将軍・支配者用のものであり、彼らがなした仕事の偉大さ、彼らの行動から発した影響力の強さを承認するものだと、考えられる結果になるであろう。』 (ジークムント・フロイト:「モーセと一神教」)

そしてフロイトはそうした偉大な男たちが大衆に対して父親的なイメージを発し、無意識のレベルから大衆を呪縛することを指摘しています。

『そこでとりあえず、偉大なる男とはふたつの仕方で、すなわちその人格と確信する理念とによって彼の周囲の人々に影響力を発揮するということにしておきたい。この理念は大衆集団の古くからの願望形象を強化するものかも知れないし、あるいは、大衆集団に対して新たなる願望目標を示すものかも知れないし、あるいはまた別の仕方で大衆集団を呪縛するものであるかも知れない。(中略)人間の集団には感嘆賛美するに値する権威への・屈服すべき権威への・それによって支配されたいと願う権威への・場合によってはそれによって虐待されたいとすら願う権威への強烈な欲求が存在しているのを我々は知っているからだ。このような集団の欲求がどこから生じてくるのか、我々は個別的な人間に関する心理学から経験的に学んできた。この欲求の発生源は、すべての人々に幼年時代から内在している父親への憧れにほかならない。』 (ジークムント・フロイト:「モーセと一神教」)

フロイトはこのような考察の果てに、ユダヤ教の成立のためにモーゼは殺されていなければならないという大胆な仮説に突き当たります。言うまでもなく父殺し・王殺しというのは民俗学の重要なテーマです。これはフレーザーの「金枝篇」 などでも有名です。父殺しとは通過儀礼であって、そうすることで子供は新たな段階へ成長していきます。フロイトはモーセ殺しが長期にわたってユダヤ民族の「普遍的な自我」の外傷(トラウマ)となったとします。そこに自身がユダヤ人であるフロイトの個人的な思索があるのですが、詳細については本書をお読みください。

以上のことに重ねて荒事の「祭祀性」を考察してみます。初代団十郎は、「かぶき者の演劇に発する」という歌舞伎のルーツを強烈に意識させる荒事という様式を編み出しました。荒事に見られる「稚気」にはかぶき者の過剰さが人々に愛された 幼年時代の遠い記憶があるのです。「かぶき者」の遠い記憶を舞台に蘇らせた初代団十郎はまさに「時代に対していきどおりを見せた偉大な男・父親」でありました。しかし、その一方で初代団十郎のイメージは次第に増幅し・民衆を押さえつけんばかりに大きくなっていくのです。観客に自分を拝ませ賽銭を投げさせ、観客もみずから喜んで役者に屈服するようになっていきます。実際、団十郎の気性は苛烈で潔癖であり、座中に敵 が少なくなかったと思われるところがあります。そんなところで元禄17年2月19日の「初代団十郎殺し」が起きるのです。

初代団十郎の強烈な記憶が隈取りを施す役柄への神性のイメージに転化していく、そのプロセスはフロイトがモーセ殺しで仮定しているものとほぼ同様であると感じざるを得ません。荒事には「感嘆賛美するに値する権威への ・屈服すべき権威への・それによって支配されたいと願う権威への・場合によってはそれによって虐待されたいとすら願う権威への強烈な欲求」がはっきりと見られるのです。

(H17・5・1)

(後記)

別稿「見得と隈取り〜歌舞伎におけるバロック的なるもの」もご参考にしてください。





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