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「やすらえ。花や」山の手事情社の「道成寺」

平成23年12月浅草アサヒ・アート・スクエア
山の手事情社公演・「道成寺」

山本芳郎(和尚妙念)、大久保美智子(久子)、山口笑美(清姫)他

構成・演出:安田雅弘

山の手事情社のサイトはこちら。


1)鎮花祭のこと

『鎮花祭は3月末の行事だが、これは夏祭りの部類に入るものである。やすらい祭りとも言うのは、その踊り歌の聯ごとの末に、囃し詞「やすらえ。花や」を繰り返すからだという。昔は、木の花を稲の花の象徴として、その早く散るのを、今年の稲の花の実にいる物のすくない兆と見たのだ。歌の文句も「ゆっくりせよ。花よ」という義で、桜に寄せて、稲を予祝するのである。』(折口信夫:「ほうとする話」・昭和2年)

平安の昔、鎮花祭(はなしずめ)の時に歌うお囃子の文句に「やすらへ。花や、やすらへ。花や」と言いました。「やすらう」は躊躇するの意味で、休息することを「やすらう」と言うのは・その転化です。つまり、このお囃子は「そのままでをれ。花よ」、「じっとして居よ、花よ」と呼びかけたものです。折口信夫は散る花が惜しいと感じるのは・いわば習慣であって 、我々は文学を通じて・そうした鑑賞法を学んだのであると云うことも書いています。(「花物語」・昭和9年)散る花を惜しむという感覚は・我々が教養として教わって後天的に定着したもので、 元はそうではなかったのです。

花が散ると、桜の枝から芽が吹き出て、今度は青葉が伸び始めます。若々しい燃えるような若葉の緑色はグングン成長する生命の鼓動を感じさせます。しかし、花の立場から・逆からこれを見るならば、美しい花の奥底にそのような燃え盛る生命のエネルギーが既にして渦巻いていたということなのです。そして、熱いエネルギーが動き始めて ・やがてバランスを失ない・地表に噴火するが如くに表皮を突き破ぶって美しい花を散らしてしまう。平安の人々はそのようなことを想像したのかも知れません。ですから鎮花祭のお囃子で「やすらへ。花や、やすらへ。花や」(そのままでをれ、花よ。じっとして居よ、花よ。)と歌い掛けるのは、花が動き始める瞬間を内心恐れている のかも知れません。一旦動き出したら花は確実に散り始めることを平安の人々は知っていたからです。そこからやがて「散るのを惜しむ」という感情が出てきます。 花の散るのを惜しむ気持ちは文学的な感情には違いありませんが、間違いなく「そのままでをれ。花よ」・「じっとして居よ、花よ」というところから生まれて来たものです。

『桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。』(梶井基次郎:「桜の樹の下には」・昭和3年)

梶井基次郎の文章は桜を語るときによく引き合いに出されますが、とても世紀末的・浪漫文学的な桜の見方だと言えます。梶井は桜のなかに潜んでいる何か得体の知れないものの存在を感じ取っています。それは人間は無意識という・自分ではコントロールできない暗い情念に突き動かされている人形であるというフロイト的な考え方と重なっています。それは20世紀初頭の世界的な芸術思潮でした。(別稿「生きている人形〜谷崎潤一郎:「蓼喰う虫」論を参照ください。)しかし、梶井の桜の見方も 、実は「そのままでをれ。花よ」・「じっとして居よ、花よ」という伝統をしっかり踏まえたところから出ているのです。つまり、花の下で蠢いている得体の知れない暗いエネルギー(情念)を意識しているということです。

平安の鎮花祭から昭和の梶井基次郎まで線を引きましたが、「散る花を惜しむ」という感覚から「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という浪漫文学的な感覚に向けて梶井が一気に変化させたものではなく、やはりある段階を踏まねばならない はずです。吉之助は平安の鎮花祭から昭和の梶井基次郎の間に存在する転換点のようなものを想像したいのです。そうしたものがあるならば、それは「道成寺」に違いありません。ただし室町時代の謡曲「道成寺」ではなくて、江戸の歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」の方です。

謡曲「道成寺」の詞章にも「(シテ)春の夕ぐれ。来てみれば。(地)入相の鐘に花ぞ散りける。花ぞちりける花ぞ散りける。」とありますから・桜のことは意識されていますが、舞踊「娘道成寺」の桜一面の舞台面にはかないません。「娘道成寺」では桜が主人公だと言っても良いほどです。大体「娘道成寺」は前と後ろに安珍清姫伝説をくっつけただけで・表面的にはそれとは全然関係ない娘の心情を様々な節付けで綴った踊りです。吉之助は「娘道成寺」のことを謡曲「道成寺」の主題による変奏曲であると思っています。「娘道成寺」の花のほかには松ばかり・・という舞台はそれだけで観客の心をパーッと明るくさせます。満開の桜の明るさは実は江戸の民衆の感性の明晰さから来るものです。と同時に桜の美しさのなかに何か得体の知れない不気味さを感じてもいるのです。ところで六代目菊五郎自身が京劇の名優馬連良との対談で次のようなことを語ったことがあります。

「僕は二度死にたいと思ったことがある。『道成寺』の踊りでね、鐘の中に入るまでが非常によく出来た。このまま本当に死んだら極めていい心持ちだろうと思って鐘を上げるのをよせと言った。三味線が鳴り出しても鐘を上げるのが非常に不気味なんだ。後がもう先の通りに出来るかどうか分からない。・・・馬連良さんならこの話をしても通じると思うんだ。そういう時に死にたいな・・・という気持ちがですね。」(昭和17年12月「中央公論」六代目菊五郎・馬連良による対談)

ここでの菊五郎の発言は踊り手の「至福の瞬間」について語っていますので、「娘道成寺」のことを語っているつもりは本人にはないと思いますが、菊五郎の発言のなかの「三味線が鳴り出しても鐘を上げるのが非常に不気味なんだ」という部分は「娘道成寺」を見る観客の心理につながるものがあると思います。見事な踊りのあとに鐘が上がるとあの美しく可愛い白拍子が蛇体に変身している、これほど不気味で恐ろしいことがあるでしょうか。「鐘を上げるのをよせ」、菊五郎の素晴らしい踊りを見た観客は同じことをきっと思ったに違いありません。それまでの白拍子の踊りは確かに理屈のない世界の馬鹿々々しい美しさでした。日高川を泳ぎ渡って、鐘の中の男を焼き殺してしまう女の凄まじい執念などはどうでも良かったのです。ところが鐘の上がる段になってその恐怖がどこからか湧き上がってくる。「鐘を上げるのをよせ」、その瞬間に何も関係なかったはずの「道成寺」伝説が蘇って来ます。

その瞬間にはっきり意識されることですが、観客は咲く花の美しさを愛でていながら・あるいは愛でているからこそと云うべきですが、その花の下で怪しく蠢めく熱い生命のエネルギーのことを不気味で邪悪な力のように感じてしまうのです。そのエネルギーは 無残にも美しいものを下から突き破って破壊してしまうからです。あの美しく可愛い白拍子が蛇体に変身してしまう・そのような恐ろしいことは起こって欲しくないのです。観客は「そのままでをれ。花よ」・「じっとして居よ、花よ」という気持ちになってきます。そのような恐ろしいことは「娘道成寺」の場合は鐘が上がらなければ起こらないはずです。だから菊五郎が「鐘を上げるのをよせ」と言うのは、「そのままでをれ。花よ」ということと ほぼ同義であると考えて良いわけです。(別稿「菊五郎の道成寺を想像する」をご参照ください。)

2)道成寺の鐘

ここで桜(花)から鐘の方に話を変えます。「道成寺」では桜は全体を支配する重要な主題ですが、筋の上から見れば・鐘 の方が重要なモティ-フであるからです。歌舞伎では清姫の霊ということになっている白拍子は、道成寺の鐘の供養の日にやって来ます。道成寺では清姫によって焼かれた鐘を再興してその供養を行うことになりました。季節はまさに春。鐘がかつて女人の怨念によって焼かれたことを慮って、供養の儀式は女人禁制ということにしますが、そこに白拍子が現れます。白拍子はやがて本性を顕し、鐘に怨念を再びぶつけるというのが「道成寺」の大筋です。

何ゆえ清姫の霊が鐘にそれほどまでに執着するのか・どうして鐘供養の日にやってくるのでしょうか。道成寺の鐘は愛しいそれゆえ憎さ百倍である安珍を焼き殺した因縁がある鐘であるということで、これで一応の説明は付きます。普通はそこで終わるわけですが、「鐘を上げるのをよせ」 と「そのままでをれ。花よ」が同義であるとするならば、もう ちょっと先のことを考えて見なけれればならないと思います。清姫の霊は鐘が鳴らされると困るのだろうと吉之助は考えています。お寺の鐘が鳴らされるとその邪気は振り払われて・清姫の霊のエネルギーは失われます。だから鐘が鳴ることを阻止する為に清姫の霊は白拍子の姿に変わって道成寺の鐘供養の場に現れるのです。

別稿「本当は怖い道成寺」で触れましたが、謡曲「道成寺」では白拍子が鳥帽子を落とす・つまり女の性を顕してしまうと鐘が落ちて来ます。ここで女人禁制の禁忌(ダブー)に触れ て鐘が反応したことが明らかです。同時に白拍子の鐘への強い執着を暗示してもいます。しかし、歌舞伎の「娘道成寺」では白拍子が鳥帽子を落としても・その場面で鐘が落ち ません。踊りはまだまだ続くのです。ドラマにおける鐘の位置付けが謡曲と歌舞伎でまったく異なることがここで分かります。確かに舞踊「娘道成寺」にも「つねに鐘への思いを込めて踊るべし」というような口伝があることはありますが、ドラマ的に見れば「娘道成寺」は白拍子が鳥帽子を落とすということを変身のきっかけにしていないのです。これは白拍子の鐘本体(鳴るとか鳴らないという以前の物体としての鐘)への執着が希薄であるということを示しています。鐘は鳴らなければ意味がありません。鳥帽子を落とすだけで白拍子が本性を顕わすことはないのです。踊りは更に続きます。白拍子が清姫の霊という正体を顕わすタイミングは白拍子が決めるわけです。謡曲「道成寺」より歌舞伎の「娘道成寺」の方がドラマ的に見て不気味で邪悪なエネルギーがより重くなっていることが明らかです。ここで改めて、何のために清姫の霊が鐘供養の日にやってくるかを考えるならば、答えはひとつしかないと思います。清姫の霊は再建された鐘が鳴ることを阻止する為に鐘供養の日にやって来たのです。

「散る花を惜しむ」感覚から「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という世紀末的・浪漫文学的な感覚への転換点が、江戸期の舞踊「娘道成寺」辺りにあるであろうことが おぼろげに想像できると思います。花も鐘も物語(ドラマ)を紡ぎ出すきっかけに過ぎなくなって、自分では制御できない心の奥底に潜む暗い情念のようなものへの ドラマの傾斜が始まっているのです。「娘道成寺」ではまだ萌芽のようなものにしか見えませんけれど、昭和の梶井基次郎になるとフロイトの無意識の概念と重なって・はっきりとそれが見えてきます。

3)山の手事情社の「道成寺」

平成23年12月浅草アサヒ・アート・スクエアで劇団山の手事情社によって「道成寺」 が上演されたので、これを見て来ました。これは歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」のストレートな現代劇化ではなく、歌舞伎の聞いたか坊主を発端にして「今昔物語集」・浄瑠璃「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」・郡虎彦(こおりとらひこ)の「道成寺」からの筋をピックアップして自由な発想で重複させて・コラージュ風に仕上げたものです。安田雅弘構成の舞台は、各時代それぞれの「道成寺」の旋律が重層的・多声的に扱われた遁走曲(フーガ)のような感触に仕上がって、ひとつのお芝居で安珍清姫伝説の千年の地層が俯瞰できて、とても興味深い舞台でした。

ところで今回の芝居のなかに断片的に取り入れられている郡虎彦の「道成寺」は新歌舞伎ではありませんが、1912年(明治45年)4月に自由劇場で二代目左団次によって上演されたものです。その初演は甚だしい不評であったそうです。脚本を読むと、この芝居はとても観念性が強いもので ・エンタテイメント性がほとんどない実験芝居で当時不評だったのは確かに仕方ないところかと思います。上演を前提にされて書かれた脚本というよりはレーゼ・ドラマ(読むためのドラマ)に近い感触です。(主役和尚妙念の台詞にはどこか二代目左団次の新歌舞伎のリズムが意識されてはいますが。)人間は無意識という・自分ではコントロールできない暗い情念に突き動かされている人形であるというフロイト的な考え方から発するということは前に書いた通りですが、この芝居が20世紀初頭の世界的な芸術思潮から安珍清姫伝説を観念的に読み直そうとした意図ははっきりと分かります。

フロイトというと性の衝動とか・そのような本能的な観点でもっぱら語られることが多かった(特に20世紀前半のフロイト心理学は世間的にはそのような受け入れ方をされてきました)のですが、これはもう少し具象的に考えて見ても良いかも知れません。清姫の恋心を安珍が受け入れてくれるならば、それによって清姫の欲求は満足され、清姫の自己実現はされるということです。しかし、それは仏に帰依しようとしている安珍の立場を全然考えていないわけで、愛と言ってもまったく一方的な自己愛 なのですが、確かにそれは愛なのです。実は清姫の理性は安珍の立場をそれなりに理解をしていて、自分の欲求を押さえ込もうということをしているのです。しかし、清姫のなかの欲求は清姫にその実現を激しく要求します。清姫のなかで渦巻く情念は熱く燃え上がって・それは制御できない状態となり、やがて皮膚を突き破って美しい清姫の姿さえ変えてしまうということです。表面に現れた情念が蛇の姿をしているわけです。安珍清姫伝説はそんな風に読めるかと思います。それにしても・これは中世日本仏教の悪いところではないかと思いますが、道成寺縁起の絵解きなどで女性は業の深い存在だなどと説くために・「道成寺」を女の業の観点でどうしても見てしまい勝ちです。現代においてはフロイト心理学の性の衝動のイメージがそのような側面を後押しする傾向さえあるようで・「女の情念は怖わ〜い」という結論に至りかねません 。しかし、この物語を女性だけに限定することはないと吉之助は思っています。「道成寺」の場合はたまたま主人公が清姫という女性だったというだけのことです。男性版「道成寺」だってあり得ることです。

郡虎彦の「道成寺」がユニークであるのは、その世紀末視点もさることながら・本来ならば清姫の情念から鐘を守るべき立場の道成寺の和尚妙念を破戒坊主にしてしまった ことだと思います。その逆転の発想が凄いと思いますねえ。(これを舞台に掛けた二代目左団次も何とも凄い役者だと思います。)それにしても吉之助はこの芝居を男性論理と女性論理の対立という風に見ることはできないのです。男の情念・女性の情念と言ったって、どちらも似たようなもの・どっちもどっちではありませんか。どちらが正しい・悪いということ もないのです。襲い掛かってくる清姫の情念が和尚妙念の邪悪な情念を誅するということではなくて、両者の情念がドロドロに混ざり合って・こんがらかって、鐘を鳴らすこと(=救いを得ること)さえ拒否して、ただひたすら共に破滅に向かって突っ走るという風に吉之助は見たいと思います。これがまさに世紀末の感覚なのです。日本古来の安珍清姫伝説・「道成寺」はここまで変容してしまったのですねえ。(注:1912年はもう世紀末ではないですが、この時期の文学は西欧世紀末芸術の余韻を多分に引っ張っていることに留意してください。)

ところで「そのままでをれ。花よ」・「じっとして居よ、花よ」という声が、世紀末の破滅願望一色に塗り潰されたかのような・この郡虎彦の「道成寺」のなかにあるでしょうか。あるとするならばそれはドラマを見る観客の心のなかに起こるものです。それは人間の心のなかに残る一片の理性の声なのです。郡虎彦はそのような気持ちを観客の心のなかに呼び起こすようにこの芝居を書いたのだろうと思います。

(H24・1・1)

*郡虎彦の「道成寺」は有難いことに青空文庫で読むことが出来ます。



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