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女武道としての玉手御前〜五代目菊之助の玉手御前

平成22年12月・日生劇場:「摂州合邦辻」〜「合邦庵室」

五代目尾上菊之助(玉手御前)、七代目尾上菊五郎(合邦道心)


1)素材(身体)が放つメッセージ

お芝居では役者の実年齢と・演じる役の設定年齢がかけ離れる場合がしばしばありますが、舞台で見るとベテラン役者が若者の役を演じてもさほど不自然に感じられずに当たり前のように見ていられるのだから・舞台演劇というのは不思議なものだなあと思うことがあります。これは西洋演劇やオペラなどでもよくあることですが、歌舞伎の場合はそのかけ離れ方が 特に大きいようです。まあホントは男が演じていてもそれを女だと思って見ているくらいの演劇ですから・歳の差なんてあってないものかも知れませんが、それにしても歌舞伎はそれがちょっと極端なようです。しかし、もちろん悪いということではありません。例えば藤十郎の演じる「曽根崎心中」のお初。「一生青春」をキャッチフレーズにするだけあって、80歳近い藤十郎の演じるお初はとても初々しい可愛らしいお初です。これこそ芸の力というべきものです。

しかし、役者の実年齢と・演じる役の設定年齢が接近すると、芸の巧拙は別にして・素材(身体)そのものが放つメッセージというものが確かにあるようです。熟年 カップルの演じる「ロメオとジュリエット」を見た後で、10代の役者が演じるカップルを見を見ると、ロメオとジュリエットというのは確かに17歳のカップルであるということが直截的に響いてきます。だからと言って熟年カップルが本物ではないとか・虚飾の芸で塗り固めた真実だとか言うのではありません。しかし、何の衒(てら)いもなく・ポッと提示された素材の語る真実の強さにオオッと驚かされることはあります。恐らくそれは次元がまったく異なるもので、それを比べること自体が間違っているのです。しかし、素材が語るメッセージは観客の心のなかにツーンと突き刺さる感覚で残るものです。

菊之助の演じる玉手御前を見て、改めてそのようなことを感じたわけです。菊之助は昭和52年(1977)生まれだそうですから現在33歳ということです。丸本には玉手御前の年齢は「十九(つづ)や二十(はたち)」と記されています。だから菊之助も年齢とぴったりというわけではないのですが、しかし、歌舞伎の玉手御前はほぼ熟年ベテランしか演じない・演じられない役であり、吉之助のなかの玉手御前のイメージは晩年の六代目歌右衛門や七代目梅幸で固まっているわけですから、この年齢接近は非常に大きい意味を持ってくるわけです。菊之助の玉手御前が花道から登場して・七三で立ち止まり・後ろを振り返る。まだひと言もしゃべっていないのに、これだけで玉手御前のなかにあるメッセージが正しく直截的に伝わってきます。だからと言って六代目歌右衛門や七代目梅幸の玉手御前 が違っていたということではありません。これらも全然違う次元においてまったく正しいのですが、菊之助の玉手御前が正しいということもこれもまた疑いようがないのです。真実がスックと立っている感じがします。これこそ素材(身体)そのものが放つメッセージというべきです。

菊之助は期待通りの玉手御前の出を見せてくれました。しかし、まあこのこと自体は「菊之助が玉手御前を演じる」というニュースがあった時点で予測がついたことです。このことだけでもちろん観劇随想は十分書けます。しかし、吉之助が 今回の菊之助の玉手御前をとても興味深いと感じたのは、実はこのことではありません。菊之助はまったく別のところで吉之助の予想を上回る玉手御前を見せてくれました。本稿ではこのことを考えていきたいと思います。(この稿つづく)

(H23・2・27)


)女武道としての玉手御前

人形浄瑠璃「摂州合邦辻」は安永2年(1773)・大坂北堀江座での初演。これが歌舞伎に移されたのはかなり後のことで、天保10年(1839)大坂角の芝居での上演がもっとも古いものとされます。しかし、文楽でも歌舞伎でも本作が盛んに上演されるようになったのは明治以降のことです。江戸期においては若い後妻が義理の息子に道ならぬ恋をしてしまうという筋書きが道徳的に好ましくないとして遠ざけられていたのですが、明治以後は近代的なアンビバレントな人間描写というイメージから玉手御前が観客の強い興味を掻き立てるものとなったということです。そのような興味で「合邦庵室」を読むのはもちろんそれはそれで面白いのですが、本稿ではまったく別の視点で「合邦庵室」を読んでみたいのです。

まず考えてみたいのは、「摂州合邦辻」初演の安永2年の・まだ芝居を見ていない当時の大坂の観客が「合邦辻」と聞いて何を思い浮かべたのかということです。実はそれは仇討ち狂言ということ なのです。ちょうどその頃、合邦辻の閻魔堂の近くで非人の仇討ちという事件があったのです。だから合邦辻というと、「ああ、あの非人の仇討ちがあったところだね」というのが当時の大坂の町人が考えることであったと考えられます。このことに言及している評論は折口信夫の「玉手御前の恋」(昭和29年4月)以外にありません。他の評論でこのことを論じているものを吉之助は読んだことがありません。恐らく折口の連想が飛躍し過ぎているようで・文献的に根拠がないと考えられているので・無視されているのだろうと思います。しかし、吉之助にとっては折口の指摘は非常に示唆があることで、むしろ合邦辻という地名だけで折口が「摂州合邦辻」の本質にここまで迫ったことにスリリングな面白さを感じますねえ。いまの研究者の方々は文献・論拠に縛られ過ぎで、自由な発想が制限されて可哀想だなあと思います。そこで折口の「玉手御前の恋」を読みながら「合邦庵室」のことを考えていきます。

江戸時代といえば仇討ちが頻発した時代であったのはご存知の通りです。そのような時代であっても非人の仇討ちというのは珍しいことでしたから、合邦辻での仇討ち事件は当時とても話題になりました。その実説がどんなものであったのか 詳細は伝わっていないようです。しかし、非人の仇討ちというシチュエーションは、たとえ乞食に身をやつしても仇を追い求めんとする仇討ち行為の極限を示すものとして読み本などに 取り入れられて、後にこれをネタ本にして四代目鶴屋南北が「絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)」(文化7年・1810・江戸市村座)という仇討ち狂言を書きました。この芝居で敵役の左枝大学之助が討たれる大詰めの場は合邦辻の閻魔堂の前、そこはまさしく「摂州合邦辻」下の巻・合邦庵室のある・その場所なのです。吉之助も「絵本合法衢」という題名を 初めて聞いた時にはこれは「摂州合邦辻」の書き替え狂言だろうと誤解したことがありましたが、「絵本合法衢」には玉手御前は出てきません。四天王寺も出てきません。「摂州合邦辻」と「絵本合法衢」は大詰めの場所が同じだという以外にまったく関連のないお芝居なのです。しかし、大詰めの場所が同じだということは確かに何かが通じ合っているということなのです。

折口は合邦辻という地名から仇討ち狂言ということを思い浮かべます。当時、仇討ち狂言として人気があった題材に田宮坊太郎の仇討ちというものがありました。寛永19年(1642)に丸亀で実際にあった田宮小太郎(俗に坊太郎)の仇討を題材にしたものです。坊太郎の仇討ち狂言として最も有名なものは「花上野誉石碑(はなのうえのほまれのいしぶみ)」という人形浄瑠璃で、「志渡寺の場」が今でも時々上演されます。この芝居の女主人公の名前がお辻です。坊太郎は父源八を闇討ちされ、今は乳母のお辻と一緒に志渡寺に住んでいます。敵は剣術師範の森口源太左衛門と言います。敵を油断させて探るために坊太郎は叔父の内記に命じられて口がきけない振りをしています。寺を訪れた森口の折檻も坊太郎は黙って堪え忍びます。それを知らない母代わりの乳母お辻は断食をし・水垢離を取って坊太郎が口をきけるようにと、「唖となったるこなたの業病。金毘羅様へ立願かけ。清き体を犠牲(いけにえ)に。この病を治して給はれ」と一心不乱 に祈ります。そして願掛成就の日にお辻は自害を図ります。坊太郎はたまりかねて叫び声をあげます。森口が敵という証拠もそろった・近く仇討ちをするという坊太郎の言葉を聞いて、お辻は満足して息絶えます。それから10年後に坊太郎は父の仇を討ち本懐を遂げるのです。この「花上野誉石碑」は天明8年(1788)の初演ですから・「摂州合邦辻」よりも後の作品になりますが、同じく坊太郎の仇討ち系統の浄瑠璃として「摂州合邦辻」に先立つものがふたつあるそうです。ひとつは「敵討稚物語(かたきうちおさなものがたり)で、もうひとつが「敵討幼文談(かたきうちおさなぶんだん)」です。 どちらも「摂州合邦辻」より10年ほど前になる・これら2作品ではお辻は坊太郎の母親ということになっており、仇討ち資金も尽きて・ついには非人となりはてた母親が返り討ちに逢うそうです。

ここで大事なことが、女主人公の名前がお辻であるということです。お辻とは「摂州合邦辻」の玉手御前が高安殿の後妻となる以前の彼女の本名と同じです。もちろん玉手御前の「お辻」は直接的には合邦辻の「辻」から来ていると考えられており・それはその通りでしょうが、折口はお辻という名前からさらに連想をめぐらせます。つまり、お辻=合邦辻=非人の仇討ち=女武道ということなのです。

「女武道の型に這い入る女の物語の要素が、合邦辻で行なわれた仇討ちと結びついて、合邦の玉手御前・すなわち合邦娘お辻ができているのではないだろうか。このお辻という名前は「誉碑」の乳母と同名であって、表面は関係がないが、同じ名を付けるような同じ刺激が働いているのだろう。そういう心理的要素をやはり考えてみなければならない。」(折口信夫:「玉手御前の恋」・昭和29年)

*折口信夫:「玉手御前の恋」(折口信夫全集 第18巻 藝能史篇2 (中公文庫 )に収録。)

ここで女武道と玉手御前ということが繫がってきます。それにしても女武道の玉手御前というのはどういうものか。このことをさらに考えていきます。(この稿つづく)

(H23・3・6)


3)女武道としての玉手御前・続き

女武道については別稿「源之助の弁天小僧を想像する」において取り上げました。折口信夫は四代目源之助についての論考「役者の一生」のなかで、「もともと歌舞伎芝居は女形の演じる女を悪人として扱っていない。立女形や娘役には昔から悪人が少ない。昔の見物は、悪人の女を見ようとしなかったのである」と書いています。古い時代の歌舞伎の女は類型化されていて、本質的に善であったと言えます。ところが、作品の筋が複雑になってくると悪の要素を持つ女も歌舞伎に少しづつ登場して来ます。たとえば「中将姫」に登場する岩根御前などは悪人ですが、こうした枠にはまらない役が繰り返されていくうちにある特別な女の性根が出来てきます。これが女武道の成立に繋がっていくと折口は言います。

芝居の正義というものは道徳的な正義とはちょっと違って、どこか鬱屈した押さえつけられた気分・陰湿な気分を振り払うような華々しくスカッとしたものが正義になるのです。別に立廻りや殺人をしなくてもいいのです。演じる役・見る側の胸がスクような・発散できるものが女武道の正義なのです。これは何故かというと、歌舞伎の女形というものが幕府の規制から生まれた・根本的に男が女を装うという不自然な存在であるので、女形の役柄にはそこに抑圧された・陰湿な気分が常につきまとうということです。ですから「俺だってたまにはスカッとしたいぜ、俺はホントは男なんだよ」という鬱屈した気分が女形の心理のどこかにあるのです。折口は、悪婆の切られお富の科白のなかに「お家のためなら愛嬌捨て憎まれ口も利かざあなるまい」とあるのは女形のある特性を示している重要な科白だと言っています。女形として常に戒めるべきことは、役者の本来性である男の如き粗暴な振る舞いを顕わにすることです。だから切られお富は女形としてあるまじき事(女武道)をするのも忠義のためだから仕方ないと断りをすることで、「女形本来の性質である善人に立ち返っている」と 折口は言うのです。同時にそれは女形が本来性である男に立ち返ろうとするということでもあります。女武道のなかにそのようなふたつの錯綜したロジックがあるわけです。

折口が歌舞伎の女武道と玉手御前を結びつけることは(折口の論を引く吉之助も同様ですが)人形浄瑠璃と歌舞伎を混同しているという批判を呼びそうですが、そうではありません。この時代(安永年間)の人形浄瑠璃は歌舞伎との 密接な相互関係のなかで成立しています。互いの存在を意識し、互いを吸収しながら発展していきます。「摂州合邦辻」自体が高安長者伝説だけでストレートに読み解けるものではなく、それは雑多な・猥雑な要素をたくさん取り込んだなかで成立したものです。玉手御前のような役はキャラクターの独自性を読むのではなく、そのなかに取り込まれた複合的な要素を読んでいくべきなのです。むしろ玉手御前を女武道で読み解くことは、玉手御前という役の本質を明らかにするものと吉之助は考えます。人形浄瑠璃の玉手御前はスッキリした感覚で・その倫理的性格が強く出て・それはそれで良いものですが、歌舞伎の玉手御前の方がこの役が本質的に持つ雑多な・猥雑な印象を端的に表現していると 考えます。

折口がお辻=合邦辻=非人の仇討ち=女武道 という発想をする根拠は、玉手御前を女非人のように扱うことが浄瑠璃作者の考えなのであろうと推察するからです。例えば「合邦庵室」の場に玉手御前は頬かむりして登場します 。本文に「・・気は烏羽玉の玉手御前、俊徳丸の御行方、尋ねかねつつ人目をも、忍びかねたる頬かむり包み隠せし親里も・・」とあります。当時頬かむりをする女は乞食の風俗に多かったのです。

『この頬かむりは、普通の女の服装ではない。身分の低い者はふだんの生活にも頬かむりをするであろうが、まあ異例であろう。それをしている女は乞食に多い。そればかりでなく、父の合邦が「そのざまになってもまだ俊徳様と女夫になりたいと言うのか」と言うが、これも非人乞食の服装を言っているのではないだろうか。(中略)今までの玉手を見慣れているし、これが写実の玉手になってはつまらないと思うであろうが、しかし、肩当てをして、非人の着物を着て出てきても、見苦しくはないし、美しくもできると思う。そして、恐らく作者の計画では、女乞食、少なくとも「朝顔日記」の乞食になった朝顔の姿くらいにはなってもいいのだろうと思う。』(折口信夫:「玉手御前の恋」・昭和29年)

どうやら玉手御前は高安殿の屋敷を抜け出して親の家まで・苦労の末にやっとたどり着いたことが察せられますが、これで玉手御前を女非人のように扱うことの意味が分かると思います。若い後妻が義理の息子に恋を仕掛けるという行為は、人の道にもとる行為・つまり人でなし(人非人)の行為なのです。そのような不道徳な女は非人乞食のように扱われなければならないという考え方が、頬かむりの姿のなかに示されています。そこに玉手御前の罪が形象化されているのです。そして女非人の玉手御前が女武道を行なうことによって女形本来の性質である善人に立ち返 ろうとする。それが歌舞伎における玉手御前のドラマツルギーなのです。女武道と玉手御前との関係をさらに考えていきます。(この稿つづく)

(H23・3・26)


4)玉手御前の荒れ

歌舞伎の女形にとっての女武道とは女形の性質である善人性を意識すること、女形役者の本来性である男性に回帰しようとすること、このふたつが同時にあるということなのです。玉手御前の場合で考えるならば、まず「玉手はすっくと立ち上がり」から「恋路の闇に迷うたこの身」で肌を脱ぎ・立廻りになって・奴入平を突き飛ばし・戸口に立っての見得となります。この場面は実に凄まじく、玉手御前の激しい邪恋の炎が燃え上がる女武道の最高潮ですが、後で考えてみれば・ここで玉手御前は父親にわざと刺されに行っているのです。娘の乱行に堪らなくなった合邦が自分を殺さざるを得なくなるような仕掛けを玉手御前はわざとしているのです。案の定、合邦が奥から飛び出して来て娘を刺します。こうすることで・歯止めが効かなくなった自分の行動に、玉手御前は自分で決着をつけようとしているのです。その決着をつけるのは父親(合邦)であって欲しいということでもあります。そのような玉手御前の決意が本文の「玉手はすっくと立ち上がり・・」にはっきりと現れています。玉手御前の邪恋の件は父親の刃に貫かれて終わり 、これ以後はモドリとなって本来の善人性(貞婦の性)に回帰するそのきっかけを示すものです。

もうひとつ付け加えると、玉手御前が行なう・もうひとつの女武道が、自ら刃物で鳩尾(きゅうび)を引き裂き・その鮮血を鮑の杯に注いで俊徳に授けるという行為です。これは、つまり女腹切りです。切腹というものはもちろん本来は武士が行なうものです。女腹切りの趣向で有名なお芝居は近松門左衛門の「長町女腹切」ですが、武士が行なう切腹を女が行なうことの意外さが、女武道の趣向のひとつとして観客に悦ばれたのです。玉手御前の行為もそのように考えてみたいと思います。

ところで玉手御前の乱行の場面は、まさに荒れ・荒事のそれの如くであると言えると思います。 そのことは諫言する入平に対して玉手御前が「邪魔をしやると蹴殺すぞ」を叫ぶことを見れば分かります。「蹴殺すぞ」とはまるで歌舞伎の荒事の台詞、それは芋洗いの弁慶か・あるいは鳥居前の忠信あたりが言いそうな台詞なのです。そんな台詞を女である玉手御前が言うのです。だから玉手御前のこの場面とは、女の荒れなのです。女武道が強く意識されていることが、これだけで明白です。実は歌舞伎の玉手御前の場合は、ここを「邪魔をしやると許さぬぞ」と文句を変えて言うのが普通です。これは六代目歌右衛門も七代目梅幸もそう言っていました。「邪魔をしやると蹴殺すぞ」と言うと女形の台詞としてはあまりに調子が強過ぎて・どうにもピッタリこない感じですから、これを「許さぬぞ」に変えたということはまあ理解できる話です。しかし、今回の舞台での菊之助は本文通りに「邪魔をしやると 蹴殺すぞ」と言っています。しかも、明白に地声で・つまり本来性である男の声でこれを発声していて、歌舞伎の荒事風のイントネーションを加えています。

今回の舞台の菊之助の玉手御前は概ね好評のようですが、後半の演技について「男が見える」という劇評が出たようです。「男が見える」という言い方は、女形が隠さなければならない本来性である男の地がうっかり露呈してしまった・女形の演技の綻びのようなものを指すもので、これは褒めている評ではないと思います。しかし、菊之助は「邪魔をしやると蹴殺すぞ」を地声で言っていることで分かる通り、男の地がうっかり露呈してしまったものではなく、菊之助は明らかに意図的に男を全面に出しているのです。女武道が女形役者の本来性である男性に回帰するものであったとしてもそこに尚女形の慎みがあるべしという意見もあるだろうと思います。まあそれも分からないことはないですが、吉之助としては菊之助がここで臆面もなく男を全面に押し出してきた意図を積極的に評価したいと思うのですね。

ここでの玉手御前はまさに怪物そのものなのです。その美しい女性の内側から男の本質が皮を裂いて噴出してきた如きなのです。それは合邦を身震いさせるほどグロテスクなもので、合邦にとってそれほどにおぞましいものです。だから合邦は無我夢中で娘を刺しに行くのです。その姿は、ひとつには玉手御前という女性の有り様を象徴しています。このままでいたら激しい邪恋の炎に焼け死んでしまいそうな苦しみと、この苦しみを断ち切って・本来の清く美しい姿に立ち返りたいという願望が、そこに入り乱れて います。注釈付けますと、グロテスクなおぞましい姿というのは玉手御前が自らそうしなければならないと志願して纏った醜い衣装であって、玉手御前は本当はその衣装を一刻も早く脱ぎ捨てたいのです。そのきっかけを玉手御前は求めているのです。それが「玉手はすっくと立ち上がり・・」の本文にはっきりと現れています。

それと同時に玉手御前のグロテスクなおぞましい姿には、歌舞伎の女形という存在の有り様が重ねられているのです。女形という虚飾の役者は、このまま見せ掛けの清く美しいお人形に仕立てられたまま綺麗綺麗で終わるのか、それとも本来性である男性に立ち戻って真(まこと)の人間として立つことが出来るかということです。それこそが歌舞伎の女武道の意味するものです。乱行の場面の玉手御前は、そのようなアンビバレントな状況を象徴するものです。

繰り返しますが、これはもちろん歌舞伎の玉手御前のことですが、それはそのまま原作(人形浄瑠璃)の玉手御前のなかに本質としてあるもので、菊之助はその本質を抉り出すように・より生々しく鮮烈に提示して見せたということなのです。もちろん六代目歌右衛門のも ・七代目梅幸のも素晴らしかったし、吉之助は決して彼らの舞台を忘れませんが、しかし、菊之助の玉手御前は「ここまでやるのか」と目を見張る出来栄えでありましたし、何よりそれは玉手御前の本質を深く考えさせるものでした。乱行の場面で菊之助にひとつだけ注文付けるとすれば、「玉手はすっくと立ち上がり・・」の場面でしょうかねえ。ここは操り人形が急に引っ張り上げられるような感じで、無表情でスックと立ち上がって欲しいと思うのです。そこに宿命に操られる女性の虚無の感覚が出ればもっと良ろしかったと思いますが、注文はそこだけですね。他はまったく文句付けようのない出来だと思います。(この稿つづく)

(H23・4・11)


5)説経「しんとく丸」 の系譜

「摂州合邦辻」の背景にあるのは高安長者伝説とされますが、雑多で猥雑な要素が取り入れられているため、実際、「摂州合邦辻」を見ていると一体どこが謡曲「弱法師」と関係あるのか、どこが説経「しんとく丸」 からつながるのかよく分かりません。だから、高安長者伝説を無理矢理に関連付けようとして、しばしば強引な読み方になりがちです。あるいは最初から関連付けを放棄して玉手御前の不倫・不道徳性への興味へ走るといった具合でしょうかねえ。(別稿「折口信夫への旅・第1部 ・補説」を参照ください。)しかし、雑多で猥雑な要素が高安長者伝説とまったく無関係のところで混入したということはないはずです。ある本質を共有したところで、それが形を変えて取り入れられているはずです。そこのところ大まかに括ってみれば、おぼろげにでも見えるものが見えてくるはずです。

ところで説経「しんとく丸」 にはしんとく丸の許婚として乙姫という女性が登場します。乙姫は餓死寸前のしんとく丸を救い、最後に復活させるのです。一方、「摂州合邦辻」には俊徳丸の許婚として登場するのは浅香姫ですから、位置的に浅香姫が乙姫のところにはまると考えるのが自然ですが、そうではありません。「摂州合邦辻」では玉手御前が説経の乙姫の役割を負うのです。説経の乙姫がどういう具合で玉手御前に変容していくのか、どの辺を大まかに想像してみたいと思います。

説経「しんとく丸」 では、しんとく丸を探し求めて乙姫は長者の娘という身分を捨てて流浪の旅に出ます。このような流浪する女性のイメージの元は中世に多く輩出した熊野比丘尼です。熊野比丘尼とは熊野を本拠して、絵解きや語り物などをしながら諸国を放浪し・布教活動を続けた女性の放浪者 (あるき巫女)です。彼女らは社会の底辺に位置しました。畏怖されながらも乞食同様に扱われてきたのです。このことが非人同様に扱われる・頬かむりして登場する玉手御前の姿に重ねられていることは言うまでもありません。

流浪の旅の果てに乙姫は天王寺にたどり着きます。乙姫は寺のなかの金堂、講堂、六手堂などを順番に、しんとく丸の姿を求めて探し歩きます。その昔、天王子の境内には、掘っ立て小屋や車輪をつけた背の低い小屋(車小屋)がいくつも並んでいて、施しを求める大勢の乞食・あるいは病人が集まっていたのです。天王寺・は病魔に冒された人たちが最後にすがる聖地でした。まず考えねばならないことは、天王寺の金堂、講堂、六手堂などはいずれも大坂観音霊場 三十三箇所の札所 のひとつであって、ここに乙姫と観音信仰の深い関係を見ることができるということです。このことは岩崎武夫著:「さんせう太夫考」での「しんとく丸と母子神信仰の世界」に詳しく著述されていますが、以下本書を参考に話を進めます。

岩崎武夫:さんせう太夫考―中世の説経語り (平凡社ライブラリー)

寺内を探し歩く乙姫が最後にたどり着いたうしろ堂の縁の下に、病に冒されて盲目になったしんとく丸がひとり生きています。変わり果てた病人は自分がしんとく丸であることを明かしますが、自分の身を恥じ・乙姫に「ここから立ち去れ」と再会を拒否します。しかし、乙姫は業病を恐れることなくしんとく丸を抱きしめて・肩にかついで外に出て天王寺七村を袖乞いしながら巡ります。岩崎先生は乙姫の姿に妻・愛人・巫女という以上に母=慈母神としての観音菩薩の姿を見ることができると書いていますが、さらに注目すべきことを指摘しています。それは「しんとく丸」 の乙姫が「曽根崎心中」のお初に転化する、あるき巫女から遊女への転化ということです。ご存知の通り、近松門左衛門は「曽根崎心中」冒頭に観音廻りを置き、お初のことを「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」と言っています。さらに天満屋の場で・縁の下の徳兵衛とお初が心中を決意するクライマックス、縁の下にひそむ徳兵衛の姿は、天王寺のうしろ堂の縁の下で乙姫の救いを待つしんとく丸の姿と重なっています。巫女が遊女に、お寺の縁の下が遊女屋の縁の下に置き換わっていきます。ここに中世の語り物の世界が、近世演劇の人間ドラマに転化していくプロセスを見ることができます。

さらに論を進めますが、近松の世話浄瑠璃の最初の作品である「曽根崎心中」は元禄16年(1703)竹本座での初演。一方、菅専助・若竹笛躬による「摂州合邦辻」は安永2年(1773)・大坂北堀江座での初演。この時期の人形浄瑠璃は歌舞伎などに人気を奪われて・そろそろ衰退期に差し掛かっていました。近松の「曽根崎心中」が人間のドラマを中世的な呪術宗教的な暗がりのなかから明るいところに引き出そうとしたものであるとするならば、対する「摂州合邦辻」では人間のドラマが再び薄暗い世界に引き戻されていくような・そのような危ういものが感じられます。江戸後期の閉塞した社会は、因果とか宿命というような人生に重く圧し掛かる・どうにもできない何ものかを民衆に強く意識させるようになっていました。しかし、共通しているものが確かにあるのです。それは玉手御前のなかの観音菩薩のイメージです。説経「しんとく丸」 でのうしろ堂での乙姫としんとく丸の再会の場面を引きます。

『・・干死(ひじ)にせんと思へども、死なれる命のことなれば、めぐりおふたよ恥づかしや、これよりもお帰りあれ、乙姫この由きこしまし、おとも申さぬものならば、なにしにこれまで参るべしと、しんとくとって肩にかけ、町屋に出させ給へば・・』(説経「しんとく丸」 )

頑なに再会を拒否するしんとく丸を抱きしめる乙姫には観音菩薩の慈愛の眼差しが感じられます。同様に「摂州合邦辻」において「見る目いぶせきこの癩病、両眼盲て浅ましき姿はお目にかからぬか、これでも愛想が尽きませぬか」と求愛を拒否する俊徳丸に自ら刃物で鳩尾(きゅうび)を引き裂き・その鮮血を鮑の杯に注いで授ける玉手御前の姿に観音菩薩の姿が重なるのです。そこに至る過程がかなり異なるように思われるでしょうが、過程をすっとばして結末を見れば・乙姫が玉手御前であることは歴然としているのです。(この稿つづく)

(H23・4・26)


6)説経「しんとく丸」 の系譜・続き

説経「しんとく丸」のことをもう少し考えます。詳しくは岩崎先生の著書をお読みいただくとして、しんとく丸が業病になるまでの大まかな筋を記しますと、説経の伝えるところではしんとく丸の父母は前世はそれぞれが山人と大蛇であり・前世に犯したその罪によって長者夫婦は現世において長く子が出来ないでいました。夫婦は清水観音に祈願し、子供がある年齢に達した時に両親のどちらかが命を失なうという条件で子宝を授かりました。それがしんとく丸なのです。しかし、慢心した母は神仏への恩を忘れ、神仏に向かって非礼の言葉を吐いてしまいます。怒った観音は母の命を奪います。母の代わりに後妻として迎えられた継母は自分の子に家督を継がせようと企みます。継母の讒言によってしんとく丸は父に見放され、さらに継母の呪詛により業病の身となって天王寺に捨てられます。

ここで大事なことは、「しんとく丸」の筋は仏教説話の因果応報の律に則っているようだけれども、当のしんとく丸にはまったく罪がないことです。罪があるとするならばそれは両親の罪なのですが、親の罪を贖(あがなう)ために無垢なしんとく丸に酷い運命が課せられているということです。もうひとつは清水観音は長者夫婦の願いを聞きいれてしんとく丸を子として授けておきながら、今度は一転して邪悪な継母の呪詛の願いを聞き入れてしんとく丸を業病にして乞食の身に落としてしまうことです。しんとく丸がこの世に生まれたのも観音様のおかげなのですが・しんとく丸を業病にしたのも観音様であり、しんとく丸を汚辱のなかから救い上げるのもまた観音様なのです。観音様に善悪の区別が全然ないように見えます。しかし、これを観音様の二面性と呼んで良いのかどうかは分かりません。善悪という尺度自体が立場が変われば逆転してしまうような生臭く愚かな人間側の尺度なのであって、観音様には元々そういうものがないのかも知れません。それはもっともっと奥が深いものに違いありません。観音菩薩といえば慈悲の心を以って衆生を救うために相手に応じてさまざま姿に変身して現れるとされます。観音様のご意志はいろんな業(わざ)で現れるということです。しかし、物語・あるいは芝居の形式を取る場合においては観音様の最終的な業こそがそのご意志を示すものとなるということはもちろんのことです。このことは「摂州合邦辻」の玉手御前の行為、俊徳丸を業病に落とし・最後に自分の命を捨ててこれを救うという行為にも重ねられます。どちらもが玉手御前の真実の姿なのです。そこに玉手御前の慈悲の心のふたつの有り様が現れているということですが、その最終的な姿こそ芝居においては重要であることは言うまでもありません。

菊之助の玉手御前の乱行(荒れ)の凄まじさについては前述しましたが、もうひとつ菊之助の素晴らしいところを挙げておきたいのです。それは玉手御前がモドリになって・自ら刃物で鳩尾(きゅうび)を引き裂き・その鮮血を鮑の杯に注いで俊徳丸に授けた後の慈悲の眼差しです。生々しい嫉妬の乱行と女腹切りという凄まじいエネルギーの放出、それはまさに女形にあるまじき女武道の振る舞いであるわけですが・これを終えた後、菊之助は清らかで正しい女形本来の佇まいのなかへ自然な形で立ち戻っているのです。しかも、それは恋しい男を見詰める女の眼差しではなく、菊之助の眼差しは完全に我が子を見守る静かで暖かい母親の眼差しになっています。これは観音菩薩の眼差しなのです。折口信夫は「昔の見物は悪人の女を見ようとしなかった」と言っています。昔の観客にとって芝居のなかの女性は常に清く正しく美しいものでなければなりませんでした。ああやっぱり玉手御前は良い女性であった、それまでの乱行は見せ掛けだけのことで・やっぱり玉手御前は貞節な女性であったのだといって、昔の観客は安心をしたのです。そういう結論に落ち着くことで玉手御前も・観客もまた救われたのです。

玉手御前のドラマはファン・ゲネップが唱えるところの分離・移行・合体という通過儀礼の三つの段階のことを思わせます。つまり貴種流離譚のことです。(別稿「今日の檻縷(つづれ)は明日の錦(にしき)」をご参照ください。)俊徳丸が貴種流離の系譜を引くキャラクターであることは知られており、そ のようなことは歌舞伎の解説にも書かれています。しかし、実は玉手御前も同じような過程を踏んでいるのです。これは浄瑠璃・歌舞伎の作劇術の黄金律とも言うべきものです。このパターンを踏まえれば、貴種流離譚でも仇討ち物でも御家騒動物でも 、何でも作る事が出来るのです。玉手御前の乱行(荒れ)というのは、自らの身を焼く煉獄であるということができるでしょう。そのような試練を経て・玉手御前は清らかで美しく貞節であるという女性本来の本質を明らかにするわけです。(この稿つづく)

(H23・4・30)


7)菊之助の玉手御前

「摂州合邦辻」で玉手御前がその乱行の真意を告白し、「コレ申し父様いな、何と疑ひは晴れましてござんすかえ」と言った後、父・合邦が「オイヤイオイヤイ・・」と応える場面は、文楽でも難しい 箇所と言われています。その昔、三代目大隅大夫がこの「オイヤイ」のところをやったところ・師匠の三味線の竹澤団平が受けてくれない。何度も「オイヤイ」を言うのだけれど、全然受けてくれない。大隅大夫はがむしゃらに「オイヤイオイヤイ・・」を叫んでいましたが・そのうち酸欠になったか気が遠くなって見台で頭を打った。それで ハッと気が付いて自分があまりに情けなくて思わず「オイヤイ」と叫んだら、やっと団平が受けてくれたという話があるそうです。団平と大隅大夫の芸話というのはこういうものばかりですね。この逸話の教えるところは、この場の合邦の気持ちは「(娘を刺した)自分は取り返しのつかないことをしてしまった」という悲痛と同時に、早まってしまった自分に対する情けなさであるということです。いずれにせよ・この合邦の「オイヤイ」のところは、歌舞伎でもとても重要視されている箇所です。十三代目仁左衛門の最後の合邦が懐かしく思い出されます。

ところが、今回の舞台で合邦を演じた菊五郎は、この場面を合邦ひとりの演技ではなく・玉手御前と合邦との掛け合いに作り変えて、「父さん・・」「・・オイヤイ」「父さん・・」「・・オイヤイ」・・というように変えてしまいました。合邦の一番の為所(しどころ)と言うべき場面をこのように変えたことは、ある意味でとても損なことで吉之助はちょっと驚いたのですが、菊五郎の合邦にはこのやり方が意外と似合うのですねえ。父と娘との絆(きずな)を互いに確認をしながら、そのやり取りのなかから玉手御前が浄化されていくように感じられます。とても情味があって、これはなかなか悪くないなあと思いました。

吉之助は、実は菊五郎初役の合邦は前半が頑固一徹な印象が弱い感じでちょっと不満に感じていたのです。「口では厳しい事を言っているけれども・内心は娘の事が心配で心配で仕方がない」という情の要素が仕草にしばしば出るので、これではカッとして娘を刺しにいく必然が取りにくいと、吉之助は前半を辛口に見ていたのですが、なるほどこういう情味の強い合邦ならば・こういう「オイヤイ」の処理の仕方もあるかも知れないなあと、最後は妙に納得した気分にさせられました。この「父さん・・」「・・オイヤイ」の処理は、今回の菊之助初役の玉手御前の段取りのなかでとても重要な位置を占めるものだと思います。父・合邦の認知がない限り、玉手御前がその清らかで美しく貞節であるという女性本来の本質を明らかにすることは決してないからです。モドリというのは、悪人と見えた人が実は善人であったというサプライズだというのはそれは表面的なことで、モドリの本質というのはその善人の本質が確かにその通りであると認めてくれる・その価値のある 人物を心底求めている・その人物だけが自分を本来の姿に戻すことができるということなのです。玉手御前にとってその価値のある人とは父親・合邦にほかなりません。「父さん・・」「・・オイヤイ」のやり取りは情味があって、女形のモドリにとてもふさわしいと思いました。

それにしても、今回菊之助が玉手御前を通しで演じるに当たって、演出についてどのような議論が菊五郎・菊之助親子の間で交わされたのかそれは分かりませんが、この親子はなかなか良い関係であるなあと思いました。玉手御前はお祖父さん(七代目梅幸)の当たり役、お父さん(当代・七代目菊五郎)の玉手御前も好評でありました。菊之助が同じようになぞって演っても・それだけでもそれなりの評判を取るであろうに、今回菊之助が独自の考えを入れた玉手御前を見事に演じきったこともそのセンスの良さも含めて素晴らしいことだと思いますが、それを父親である菊五郎が傍から見守って、まあ多少の駄目押しはしたかも知れませんが、「お前がそう信じるなら、お前の思うところをやってみな」と黙ってそれに付き合うというのも、なかなか出来ることではないなあと思いました。思えば「NINAGAWA十二夜」の舞台でも同じことが感じられたものでしたが、イヤこれは良い親子であるなあと吉之助はとても嬉しく思ったものでした。

(H23・5・5)


(後記)

別稿「合邦庵室の倫理性」、「哀れみていたはるという声〜説経の精神的系譜」もご参考にしてください。

 

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