(TOP)     (戻る)

五代目玉三郎の髑髏尼

令和5年3月歌舞伎座:「髑髏尼」

五代目坂東玉三郎(髑髏尼)、六代目片岡愛之助(平重衡の亡霊)、四代目中村鴈治郎(阿証坊印西)、六代目市川男女蔵(鳥男)、三代目中村福之助(鐘楼守七兵衛)他

(五代目坂東玉三郎演出、今井豊茂補綴


1)髑髏尼説話のこと

本稿は令和5年3月歌舞伎座の・玉三郎演出・主演による「髑髏尼」の観劇随想ですが、まず前座として触れておきたいことがあります。髑髏尼は平安末期の実在の人物で、「源平盛衰記」による逸話がよく知られています。

髑髏尼とは、桜町中納言成範卿の娘で新中納言御局のこと。平重衡との間に生まれた若君を連れて逃げる道すがら、源氏方に捕らえられて、若君は無残にも首を討たれてしまいました。局は悲しみのあまり東山長楽寺の阿証坊印西を頼って出家し、若君の首とその手遊の小車を持って巡礼の旅を続けました。人々はその姿を疎(うと)んで髑髏の尼と呼びました。髑髏尼は東大寺・興福寺など寺々を巡礼し、夫重衡が南都(奈良)焼き討ちしたことの懺悔滅罪を願った後、わが身の救済を求めて天王寺へ参り、船に乗って難波の沖に出て首もろ共に入水しました。「源平盛衰記」の記述を引きますが、

「修行者の尼共多く有けれども、この尼を見て疎けり、さもぞ怖しき尼よ、ひたすら下臈かとすればさにあらず、五六計なる少者の頸を懐に入持て、常に取り出して厳しき小車に並べて見る事のきたなさよ、親子に別るることは世の習いぞかし、さまであれ程に有べしとも不覚として、悪む者多し。(中略)様なきにもあらずとて、情をかくるものもありけり、角は云けれども髑髏の尼と名附けて修行者の中には不交けり。」(源平盛衰記・四十七)

「源平盛衰記」の記述から察せられることは、髑髏尼は、夫重衡が犯した南都(奈良)焼き討ちに対する贖罪を願って巡礼の旅を続けていたと云うことです。当時の倫理感覚では寺社を焼き討ちすることは、それこそ身の毛もよだつ大罪でした。未来永劫地獄で責められても足らぬほどの大罪です。若君が無残に殺されたのも重衡の大罪の故だと誰もが感じたのです。髑髏尼は贖罪のため南都の寺々を巡礼し、その旅の最終目的地が天王寺でした。天王寺の西門は極楽浄土の東門と向かい合っていると信じられていました。観音菩薩の救いを求めて、髑髏尼は天王寺の西の海に身を投げたのです。もうひとつ大事なことは、当時の巡礼者は乞食修行者のような姿に成り果てて、物狂いの有様を見せながら物乞いすることも多かったと思われることです。当時の人々も髑髏尼がわが子の首を見せて歩くことを奇異に感じたようですが、そのようなことでもして施しを受けないと、か弱い女性が独りで巡礼の旅を続けていくことは出来なかったのでしょうねえ。

そこで今回上演の吉井勇の「髑髏尼」(初演は大正6年・1917・2月市村座)のことですが、「源平盛衰記」との決定的な相違は、ドラマが仏の救済を願う天王寺の沖の入水で終わるのでなく、髑髏尼が奈良の尼寺で殺害されてしまうことです。これだけでもまったく救いがない結末です。しかも髑髏尼は子供を殺された恨みを捨てておらず、尼寺で源氏滅亡の調伏の祈祷を行います。つまり懺悔滅罪の巡礼に全然なっていない。これは「源平盛衰記」が描く髑髏尼とまったく正反対と云うべきです。ただし、吉之助はここで吉井勇の「髑髏尼」が史実と違うからいけないと言いたいのではありません。髑髏尼説話を作り変えたところにこの芝居の作意がある、そこを読み取りたいのです。

ほぼ同じ時期に当たる明治45年・1912・2月自由劇場で二代目左団次が初演した郡虎彦の「道成寺」(自由劇場での初演だから歌舞伎ではありませんが)のことが思い出されます。道成寺説話に材を取りながら、郡虎彦はこの芝居で本来ならば清姫の呪いから鐘を守るべき和尚妙念を何と破戒僧に仕立ててしまいました。清姫の呪いと妙念の情念がドロドロに混ざりあい、鐘を鳴らすこと(=救いを得ること)さえ拒否して、妙念は破滅へとひた走ります。(別稿・道成寺論考「やすらえ。花や」をご参照ください。)

これらはどちらも20世紀初頭の世界的な芸術思潮である表現主義の流れの上にあるものです。表現主義とは、内面的なもの・感情的なものなど、目に見えないものを主観的に強調しようとする表現様式です。つまり主人公の心のなかに蠢くドロドロした情念を抉(えぐ)り出し、生々しい切り口を拡大して観客に見せつけて、「われら人間が生きることの実相がこれだ」と叫ぶと云うことです。吉井勇は髑髏尼説話を解体して、まったく別種の様相に作り変えてしまいました。(この稿つづく)

(R5・3・11)


2)「髑髏尼」の初稿と改訂稿

今回(令和5年3月歌舞伎座)上演の「髑髏尼」(坂東玉三郎・演出・主演)は、初演は大正6年(1917)2月市村座のことですが、昭和37年(1962)9月歌舞伎座以来、約61年ぶりの上演となります。

ところで玉三郎のオフィシャル・サイトの「今月のコメント」に今回上演についての言及があって、「昭和37年歌舞伎座での・武智鉄二補綴による上演を当時見ましたが、原作とかなり違う作品になっていたのです。今回は今井豊茂さんに補綴をしていただきまして、原作に近く戻し・・」と云う旨が書かれています。ここで玉三郎が「原作」としているものが何か正確に分かりませんが、これは大正6年2月(つまり初演と同時期)に平和出版社から発行された「髑髏尼」台本のことを指していると推察して・本稿を続けます。(注:今回(令和5年3月歌舞伎座)上演は、ほぼこの平和出版社台本をベースに補綴されているようです。ただし一部改変されたところが見られます。これについては後述。)

平和出版社台本に目を通してまず浮かぶ感想は、第1幕(都万里小路)と第2幕(奈良の尼寺)との連関性が弱いということだと思います。第1幕では新中納言の局が我が子寿王丸を殺される「戦時の残酷」が描かれます。ところが第2幕はそれから1年後に飛んで・わが子はすでに髑髏になっており、髑髏の謂れだけで前の幕と後ろの幕がつながっているだけの感じが否めない。「わが子を殺されたら・そりゃ母親として悲しくて悔しいに決まってるでしょ」というのが前提で芝居が進むようで、髑髏尼になっていく新中納言の局の気持ちの描写がいまひとつ。第1幕に鳥男や僧印西のような印象的なキャラクターも出て来ますが、これが点描だけになって全体に絡んで来ず・主題が散漫な印象がします。

そこで大正6年本作初演の舞台を見た作家・小山内薫の劇評「「髑髏尼」に関する対話」(「旧劇と新劇」に所収・大正8年出版・玄文社)を参照すると、B氏の発言として、吉之助の印象と同じようなことが語られています。これに対して小山内薫はA氏発言として・こんなことを言わせています。(批評中のA氏・B氏はどちらも小山内薫の分身です。)

A氏:「ちょっと待ってください。あなたは「髑髏尼」を今度の舞台だけで論じておられるようですね。それは作者にとって少し気の毒です。今手元に古い「演芸倶楽部」がないので、はっきりしたことは言えませんが、元の本では万里小路と尼寺の幕との間に庵室の幕があって・そこで新中納言の局が髪をおろす一段がみせてあったと思います。今度の舞台ではそれがすっかり省かれたので、前の幕と後ろの幕との間に一年ほどの距離が出来てしまったのです。しかも、前の幕が非常に短くて、後ろの幕が三度も場面を変えるので、少し前後の均衡が取れなくなった点もあるのです。序幕が単なるプロローグのように見えるのも、それだからです。」(小山内薫:「「髑髏尼」に関する対話」・大正8年)

*「髑髏尼」台本「演芸倶楽部」・大正2年・1913・10月号
  挿画:田中三郎 原画は色刷りです。

ここで「髑髏尼」の台本には、初稿(「演芸倶楽部」・大正2年・1913・10月号)と改訂稿(平和出版社・大正6年・1917・2月)の2種類あることが分かります。出版時期から見ても改訂稿は市村座での初演を前提としたものらしく、もしかしたら役者サイドから(分量を半分にして欲しいとか)直しの要望があって仕方なくやったかと思われるものです。そのように推測するのは、吉之助が両方に目を通した印象では、初稿の方が明らかに出来が良いからです。(しかし、まあ改訂稿も最終的には作者が了解して出来たものですがねえ。)初稿と改訂稿は相違点がかなり多く、色合いが大きく異なる印象がします。したがって改訂稿は、初稿をベースにしてはいるけれども・部分的な手直しではなく、実質的に新たな書き直しと考えて良さそうです。

もう一点、小山内薫は興味深いことを指摘しています。

A氏:「僧の印西だって、後ろの幕の最後の幕切れにもう一度出ることになっているのです。それは、今度平和出版社から単行で出た改訂脚本を見ても、そうなっています。序幕の終わりで「哀れな人の世の恐ろしい出来事を、慈悲の眼で見るといたそう」と言った僧が、後の幕の終わりを「わしはとうとう人の世の悲しい出来事の終わりまで見てしまった」と結ぶので、はじめてこの芝居に句切りがつくのです。それを、なぜか今度のは最後の幕切れに出さないのです。」(小山内薫:「「髑髏尼」に関する対話」・大正8年)

いちおう訂正しておくと、初稿の幕切れが僧印西の台詞で終わるというのは小山内薫の勘違いです(「演芸倶楽部」を確認しましたが僧印西の台詞はありませんでした)が、改訂稿の方は確かにそのようになっており、僧印西の台詞のおかげでかろうじて前の幕と後ろの幕につながりが付くと云うことです。恐らく改訂に際し吉井勇が前の幕と後ろの幕の繋がりが弱いことを気にして付け加えた、これが改訂稿での・作者の大事な工夫であったと思います。ところが、大正6年(1917)2月市村座初演では僧印西の台詞がカットされてしまいました。歌舞伎がどうしてこういうことをしたかと言うと、市村座初演は、六代目梅幸の髑髏尼・六代目菊五郎の鐘楼守七兵衛でしたから、

「多分(十三代目)勘弥(僧印西)で幕を切ることは出来ないというような、古い芝居道の好からぬ仕来りからでも来ていることでしょう。(中略)困ったものですね。新脚本を演じようという程の役者が、そんな古い虚栄的な仕来りを主張する法はありません。そこへ行くと、(二代目)左団次という役者は実に偉いと思いますね。あの人は脚本の一字一句をも直そうとはしません。そんなことをするのは、役者の越権だと思っているのですね。」(小山内薫:「「髑髏尼」に関する対話」・大正8年)

小山内薫は書いています。六代目菊五郎はもちろん歌舞伎史に残る偉い役者ですけれど、こういう恣意的な脚本改変を少なからずやりました。一例として「暗闇の丑松」(長谷川伸)の幕切れの改変を挙げておきます。歌舞伎では名優がやったことならば、悪い事例であっても、これが先例としてしばしば踏襲されることになります。

ちなみに今回(令和5年3月歌舞伎座)の「髑髏尼」でも幕切れに僧印西が登場しないので、「わしはとうとう人の世の悲しい出来事の終わりまで見てしまった」の台詞で芝居に区切りが付かない。そのため見終わった観客の反応が「・・・何だこの幕切れは?」と云う感じになってしまいました。これを作品の足らぬせいだとされるならば、それは作者にとって少々お気の毒なことではありませんか。(この稿つづく)

(追記)なお昭和37年(1962)9月歌舞伎座上演での・武智鉄二補綴台本には目を通していませんが、当時の上演筋書を見る限り、これは初稿をベースに補綴をしたものです。場面の入れ替えなど手直しはしていますが、武智は原作(初稿)からかけ離れた補綴はしていないと云うことだけは、武智の弟子を自任する吉之助としては付け加えておきたいところです。上演時間としては、今回上演のほぼ倍(2時間ほど)掛かっています。

(R5・3・14)


3)「髑髏尼」の初稿と改訂稿・続き

今回(令和5年3月歌舞伎座)の「髑髏尼」が改訂稿をベースにしているならば・舞台は改訂稿だけで論じれば良いと云う考え方も当然あるでしょう。しかし、吉之助としては、もし参照が出来るのであれば、初稿の方にも当たっておきたいと思います。初稿を参照することで、改訂稿からだとよく見えなかった作者・吉井勇の意図が見えて来るかも知れません。

前節で指摘した通り、「髑髏尼」初稿と改訂稿は相違点が多く、印象がかなり異なります。注目すべきは、初稿では、新中納言の局(髑髏尼)の重衡に対する強い思慕の気持ち(局自身はこれを「恋」と呼んでいる)が前面に出て来ることです。その代わりに、我が子寿王丸を殺された母親の悲しみ・悔しさが後ろへ引いてしまいます。源氏への恨みも後退しています。

改訂稿で完全に省かれた初稿・序幕第二場・鳥辺山蓮台野の場を見ます。阿証坊印西の勧めにより、局は剃髪し尼となりますが、局は剃髪はするけれども、心そこにあらずといった印象です。初稿から重要な台詞を抜き出してみます。

局:「(首を見ながら)寿王丸、お前はとうとう悲しい恋の犠牲になってしまったのだね。重衡さまにお別れ申してから、お前を重衡さまだと思って、今日まで寂しく生きていたのだよ。(中略)平家が滅びてしまっても、この恋だけは滅びぬと、今まで思っていたのだけれど、お前が死んでしまっては、もうそんな事も言っておられぬ。」

局:「いつそ私も後を追うて、このまま死んでしまおうか。(間)いや、いや、私はまだ死ぬことが出来ぬ。私の胸にはまだ恋の思い出が残っている。そうじゃ。私はこれから恋の思い出に生きるのじゃ。いづれこの(寿王丸の)首も髑髏となってしまうであろうが、それでも絶えず身につけて、見るたび毎に(恋を)思い出すのじゃ。」

この台詞を見ると、初稿では、重衡への「恋」を思い出すために息子の髑髏があるのです。新中納言の局の気持ちとしては、夫・重衡に対する「恋」が主であって、我が子を失った悲しみの方は従なのですねえ。

局:「あの人々(源氏の者)は平家を滅ぼしたばかりでなく、私の恋までも滅ぼしたのじゃ。(間)お上人さまは恋のことなど忘れねばならぬと言われるけれど、私はどうして恋を忘れる事が出来よう。(中略)しかしもうこうなる上は仕方がない。尼となっても恋を忘れずに、何か秘法を求めた上で、せめて幻でありと重衡さまにお目にかかろう。そうしてなお源氏の人々を呪うてやるのじゃ。」(以上「髑髏尼」初稿〜「演芸倶楽部」・大正2年・1913・10月号)

これで作者・吉井勇の意図が見えてくると思います。改訂稿だけで読むと、局をかろうじて生かすのは、我が子寿王丸を殺された母親の悔しさ・源氏への恨みだという風に見えます。それは「わが子を殺されたら・そりゃ母親として悲しくて悔しいに決まってるでしょ」というのが前提で芝居が進むからです。それならば尼寺での秘法で呼び出す亡霊は寿王丸でなければならないように思いますが、芝居では現れる亡霊は重衡なのです。そうなる理由が改訂稿では判然としませんが、初稿の台詞からであれば、これは何となく推察が出来ると思います。局は重衡に会いたいのです。

一方、初稿では、尼寺での秘法によって現れるのは、「死の使い」です。死の使いは改訂稿に登場しない役です。死の使いが幻影として知盛や維盛など平家の人々のかつての姿を映し出します。そのなかの一人として重衡が現れます。局(髑髏尼)は狂喜しますが、死の使いは「あれはみんな骸骨だ、そして1時間も経たぬうちに、お前もあんな姿(骸骨)になるのだ」と言って消えます。この場面は幻想的に処理すれば、視覚的になかなか面白いものに仕上げられそうですが、改訂稿にはこの場面は出て来ません。改訂稿では重衡の南都焼き討ちの大罪の報いが前面に出ており、祈祷の場面は髑髏尼と重衡の亡霊との対話が続いて、動きが少なくて暗いですねえ。

改訂稿では、髑髏尼に恋して・終いには殺してしまう鐘楼守七兵衛という醜い男の位置付けも判然としません。七兵衛という役の原イメージが、ヴィクトル・ユーゴーの「ノートルダム・ド・パリ」の鐘突きカジモドにあるらしいことは、誰もがそう感じると思いますし、作者のイメージも多分そうだと思います。問題は、髑髏尼のドラマと関係がなさそうな七兵衛の恋が横からしゃしゃり出る感じでどうして絡んで来るのかと云うことです。改訂稿では、そこのところが見えにくい。初稿であると、死の使いの台詞に「1時間も経たぬうちに、お前もあんな姿(骸骨)になるのだ」とありますから、死の使いによって髑髏尼に死をもたらす役目を与えられたのが七兵衛なのです。それは髑髏尼が「恋」に死のうとしているからです。だから髑髏尼に「恋」する七兵衛が引き寄せられたのです。しかし、髑髏尼の「恋」と、七兵衛の「恋」が交錯することはありません。「髑髏尼」のなかに「業」(ごう)という単語は出てきませんが、髑髏尼が持つ「業」に七兵衛のまったく別種の「業」が絡みついて行き・二人とも破滅すると云うのが、髑髏尼の殺害です。接点は「恋」しかありません。(この辺は郡虎彦の「道成寺」との類似性を感じますね。)

このように「髑髏尼」は、初稿と改訂稿とでは色合いがかなり異なっており、背景にある主題も微妙に異なるようです。改訂稿は、平家が滅びたのも・寿王丸が殺されたのも・髑髏尼が死んでいくのも、みな重衡の南都(奈良)焼き討ちの大罪の報いという色合いが強い。こうなってしまったのは、役者サイドから具体的な手直しの要請があったせいなのか、作者・吉井勇の熟考の末なのかは分かりません。しかし、改訂稿を読んだ時に何だか割り切れぬ印象がするのは、改訂の過程に裏事情がありそうな気がしますね。吉之助としては、上演時間の制約を考えないのであれば、作者・吉井勇のためには「髑髏尼」は初稿で評価されるべきだろうと思います。(この稿つづく)

(R5・3・15)


4)「髑髏尼」の内的様式

吉井勇の「髑髏尼」(初稿・「演芸倶楽部」・大正2年・1913・10月号)が、20世紀初頭の世界的な芸術思潮である表現主義の影響を強く受けたものであることは、本稿冒頭で指摘したところです。表現主義とは、主人公の心のなかに蠢くドロドロした情念を抉(えぐ)り出し、生々しい切り口を拡大して観客に見せつけて、「われら人間が生きることの実相がこれだ」と叫ぶと云うことです。「髑髏尼」上演のためには、そのような作者の意図を生かした舞台演出が必要であると思います。大事なことは「髑髏尼」を歌舞伎として取り上げる時に、当然歌舞伎の手法を使わなければならないわけですが、これを作品の内的様式にどのようにマッチングさせるかなのです。

そこで「髑髏尼」初演(大正6年・1917・2月市村座・改訂稿に準拠)の舞台を見た小山内薫の「「髑髏尼」に関する対話」(「旧劇と新劇」に所収・大正8年出版・玄文社)を参照すると、案の上、不満が述べられています。

A氏:「吉井君のこの作を演ずる仕方としては、演じ方が間違っていると思います。(中略)ただ「素」でやれば好いと思っているのが間違いです。むしろ「芝居」をしなければならないのに、しないようにしているのが間違いです。この芝居は現実的な芝居ではないのですから、決して写実的にやる必要はないのです。あくまでもファンタスチックな芝居なのですから、役者の演技もあくまでもファンタスチックであって欲しいと思います。」

小山内薫は「この芝居を五代目歌右衛門(髑髏尼)・二代目左団次(七兵衛)で見たかった、見ないでも良いに決まっている」とも書いています。これで初演の舞台がどんな感じか大体想像がつきますね。初演の舞台は、自然主義的な、淡い印象の舞台であったようです。このような「写実」の演技であると、主人公の心のなかに蠢くドロドロした情念を抉(えぐ)り出し、生々しい切り口を拡大して観客に見せつけようとする、「髑髏尼」の内的様式を巧く表現出来ないわけなのです。歌舞伎の芸の引き出しがそのような表現手法を持っていないのでしょうか。そんなはずはないだろうと思います。誇張された演技は歌舞伎の大得意なのですから。小山内薫は、舞台装置と照明についても言及しています。

A氏:「(初演の舞台は)戯曲の情調をまるで考えていない背景です。(中略)例えば序幕(都万里小路)です。あそこでは一体何が行われると思うのです。むごたらしい「小児虐殺」じゃありませんか。あの一場を貫く情調はなまぐさい「血汐」です。恐ろしい「戦の呪い」です。「殺される」・「血だらけ」という詞が、どんなに多くあの一場で繰り返されているでしょう。然るに、あの冷ややかな、落ち着いた、色の淡い山や家や木はどうでしょう。もし私が舞台監督だったら、真っ赤な夕日を利用して、山をも家をも木をも、強烈な、不安な、呪うような赤で染めさせて、「血汐」を流させます。「戦の呪い」を叫ばせます。芝居の背景は舞台をただ美しい絵にする事ではありません。芝居の背景は人間の行為を中心にして生きなければならないのです。」

その通りだと思いますねえ。小山内薫が、当時の、20世紀初頭の世界的な芸術思潮である表現主義を強く意識していることは、上記の発言でも明らかなのです。つまり芝居が主張する情調を、どぎついくらい誇張して観客に見せつける手法です。

A氏:「(第2幕)尼寺も、「呪詛」と「苦患」と「執念」とに満ちた場面ですから、色彩は強烈でなければなりません。しかし、この場は最後の数分を除くと、他はかなり「過去」の閑寂に支配されています。(中略)すなわち序幕とは反対に色の薄い落ち着いた古びた舞台を作って、それを光線ひとつで不安にも・強烈にも・非現実的にもするのです。(中略)第1場ではそれを夕日の光線で「執念」を思わせるように赤く染め、第3場ではそれを月の光で「死」を思わせるように青く染めたいと思います。」

そうすると当然のことですが、照明に合わせて衣装の色も吟味せねばならないことになるわけですね。さすがに小山内薫は、同時代人として見るべきところを見ていますね。(この稿つづく)

(R5・3・17)


5)玉三郎演出・主演の「髑髏尼」

今回(令和5年3月歌舞伎座)の玉三郎演出・主演による「髑髏尼」は、改訂稿(平和出版社・大正6年・1917・2月)をベースに今井豊茂によって補綴された脚本に拠っています。前述の通り、改訂稿は、平家が滅びたのも・寿王丸が殺されたのも・髑髏尼が死んでいくのも、みな重衡の南都(奈良)焼き討ちの大罪の報いだという印象が強いものです。そのなかで髑髏尼は南都(奈良)焼き討ちの懺悔滅罪を願いつつも、わが子を殺された恨みを忘れず・源氏滅亡の祈祷を行うということで、妄執がまったく断ち切れていません。業(ごう)に巻かれていると云うか、髑髏尼が業そのものだと云うべきかも知れません。一方、醜い姿で誰からも愛されない鐘楼守七兵衛もまた・髑髏尼とは違うところで業に巻かれた人物である。その七兵衛が髑髏尼にあらぬ恋をし、業が業に絡み合って共に破滅する、その救いようがない有様を見て僧印西は「わしはとうとう人の世の悲しい出来事の終わりまで見てしまった」と幕切れで苦しく呻くと、吉之助は「髑髏尼」改訂稿をそのように読みたいと思います。

しかし、今回上演では、幕切れの髑髏尼殺害は、改訂稿の・元の尼寺の前庭ではなく、祈祷の場面に続いてそのまま奈良尼寺の内陣のなかで行わる改変がされました。(したがって幕切れに僧印西が登場しない。)七兵衛が自らの首を絞めて髑髏尼の死骸に折り重なって倒れて芝居が終わるので、何だか芝居が「鐘楼守七兵衛の愛の死」みたいになってしまいましたね。源氏への恨みを決して忘れぬ髑髏尼の業の物語であったはずが、最後に七兵衛の愛の物語になって終わる。これで良いのか?(まあ「愛」と云っても妄執の愛ですがね。)見終わった観客の反応が「・・・何だこれ?」と呆然となるのは当然です。これは補綴に問題があるからです。

七兵衛は本来はもっと年上の役者が勤めた方が生臭さが出て良いと思います。(もっとも初演当時の六代目菊五郎も31歳と若かったのですがね。)若い福之助(26歳)は頑張っていますが、これが「ノートルダム・ド・パリ」の鐘突きカジモドならば、或いはそれなりなのかも知れませんねえ。(玉三郎の演出意図はそこにあるのですかねえ?)しかし、作者のイメージでは、多分七兵衛は業にがんじがらめに巻かれたカジモドであろうと思います。そのようなドロドロした業の重さを表出するには、福之助はまだ若いかも知れません。しかし、抜擢に応えてよく頑張りましたね。

舞台演出については玉三郎らしいハイ・センスですが、全体的に自然主義演劇のタッチで、特に序幕(都万里小路)は色彩が淡く、これではちょっと物足りない。初演劇評の小山内薫を引き合いに出すまでもないですが、ここは表現主義のセンスをもっと取り入れて欲しいと思います。序幕は夕日の光線を強くして、「血汐」をイメージした方が宜しい。源氏の殺戮を目撃する京都の人々の反応もおざなりな印象ですねえ。もっと恐怖と怒りを叫ばせねばなりません。第2幕(奈良の尼寺)にも同様なことが云えますが、もう少し色彩のコントラストを強く付けて欲しいと思いますね。第2幕第2場(尼寺内陣)での・無調的な音楽は不安と不気味さを表出してなかなか良かったと思いますが、全体的には穏便な印象ですねえ。静的に過ぎる印象です。

髑髏尼は、玉三郎の美しいイメージを壊さないところで仕立てられています。我が子を殺された髑髏尼の悲しみは伝わって来ますが、これは改訂稿が髑髏尼の心境を十分描き切れてないせいがありますが、「わが子を殺されたら・そりゃ母親として悲しくて悔しいに決まってるでしょ」と感じで理屈で理解される感じであって、怨念のドロドロした熱いものを感じません。玉三郎の芸風は体質的にそのようなドロドロからは遠いわけですから、髑髏尼が一幅の画のように「美しく」納まった印象になってしまいました。まあ玉三郎らしいことだなあとは思いますね。滅多に掛からない作品を取り上げてくれて得難い機会でしたけれども、出来ることならば(「恋」に執着する髑髏尼の心境がもう少し描かれている)初稿の方を取り上げてくれた方が、作者・吉井勇のためにも良かったのにと思うのですが。その方が玉三郎の髑髏尼も生きただろうにと思います。

(R5・3・18)



  (TOP)     (戻る)