(TOP)     (戻る)

十五代目仁左衛門・一世一代の水右衛門

令和5年2月歌舞伎座:「霊験亀山鉾」

十五代目片岡仁左衛門(藤田水右衛門・隠亡の八郎兵衛)、五代目中村雀右衛門(芸者おつま)、八代目中村芝翫(石井源之丞・石井下部袖介)、初代片岡孝太郎(源之丞妻お松)、四代目中村鴈治郎(大岸頼母・掛塚官兵衛)、六代目中村東蔵(貞女林尼)


1)南北劇の「明るさ」

先日ちょっと調べ物をしていたら、日本文学研究家であるエドワード・サイデンステッカー氏の対談記事がたまたま目に留まりました。(昭和52年6月国立劇場筋書) それに拠ればサイデンステッカー氏がSF作家・小松左京氏と会った時、小松氏が「江戸時代は明るくハッピーな時代だった」と言ったと云うのです。サイデンステッカー氏は納得が行かなかったようで、「南北や黙阿弥を読むと、江戸時代は暗く不幸な時代であったとしか思えない」と力説していました。これを読んでちょっと残念に思いました。例え同意が出来ないにしても、小松氏ほどに時代に対する感性が鋭い人物(そうでなければ・あのようなSF大作が次々書けるはずがありません)がそのように仰ったのならば・その言は一応聞いて置こうと、その言葉の意味をじっくり考えてみる態度が必要なのです。小松氏が良いヒントを提供してくれているのにねえ。

誤解がないように付け加えれば、サイデンステッカー氏が南北や黙阿弥の芝居を暗く不幸であると読むのは決して間違いではありません。現代の感性で読めば、そう感じるのは当然なのです。けれどもこれだけだと見方が一面的になってしまいます。蛍光灯の照明が当たり前の生活をしている現代人には「暗く見える」けれども、その同じ明度が、行灯の照明が当たり前の江戸庶民には「十分な明るさ」であったのです。そこを考えないと。大事なことは、南北や黙阿弥の芝居から、「暗さ」(これは現代人からの視点として欠かせないこと)と「明るさ」を同時に感じ取ること(それは過去からの視点を受け入れること)です。これがダブルシンキング(二重思考)ということで、相反するふたつの要素の矛盾を承知しつつ・なおかつ両者のバランスを取った見方、古典の鑑賞にはこの考え方が欠かせません。

そこで今回(令和5年2月歌舞伎座)上演の「霊験亀山鉾」のことですが、本作は平成29年(2017)10月国立劇場以来・約6年ぶりの上演ですが、長年上演されて手垢にまみれた感のある「四谷怪談」と違って、これまでほとんど上演がされなかったため作品のイメージが未だ固まっていない。いわば新作同然なわけです。数少ない上演のひとつひとつが南北再評価のために大事になります。そこを考えると昨今のように、南北劇の「悪の美学」・「殺しの美学」が喧伝される状況はあまり好ましいものではないと思っています。「悪の美学」ってのは、どちらかと云えば、南北を明るい方のイメージで読もうとしていると云うことでしょうかねえ?そうなのかは知れませんが、むしろ南北劇の暗いところ(と現代人には見えるが・江戸人にとっては明るいところ)を努めて見ないようにしている(或いは目を逸らしている)ようにも思われますね。

まあそれだけ「霊験亀山鉾」のなかで描かれる人間模様が、我々現代人の生活感覚とかけ離れていると云うことです。それを全面受け入れるというわけには行きませんが、本作に見られる(返り討ちされる側の)絶対的な忠義と自己犠牲の暗さ・或いは重さを、明るい光を当てて直視しないと、本作のドラマは薄っぺらに見えてしまうと思います。だからことさら「悪の美学」を喧伝せねばならぬことになります。(この稿つづく)

(R5・2・6)


2)実悪について

「霊験亀山鉾」では藤田水右衛門と隠亡の八郎兵衛は容貌が瓜二つという設定です。同じ南北作の「絵本合法衢」でも、左枝大学之助と立場の太平次の容貌がそっくりですが、これらは「舞台に見える姿はひとつの人格がまとった仮の姿である」という歌舞伎の哲学から来ます。どちらの役も、稀代の実悪役者・五代目幸四郎が纏う仮の姿なのです。大学之助は時代から・太平次は世話から、それぞれ別の角度で以て同じ人間(幸四郎)が悪さをしているということです。だから「またあいつ(幸四郎)が出て来たわい」となって構わないのです。このことは池田大伍が看破しています。

『大学之助と立場の太平次、これは作者の働きから、両人の顔が似ているという点でひとつ役者にさせて、実は大学之助でも良いのである。しかし大学だと万事が固くなって、生世話の味にならぬ。ところで、大学、太平次に分けて、前に武家屋敷で殺させ今度は山中の一つ家で殺させる。こういうことは内外共の脚本で珍しくないことである。固くなりそうな場面を世話で見せる行き方である。シェークスピアの「ヘンリー四世」のなかでファルスタッフがヘンリー四世の真似をして皇太子ハリーを叱る。これは金襖で見せるのを世話に砕いたものである。』(池田大伍:「私の南北観」・昭和2年)

「霊験亀山鉾」の水右衛門と八郎兵衛も、これと同じことです。しかし、現行歌舞伎では、水右衛門は時代の悪・八郎兵衛は世話の悪とはっきり区別して二役を演じ分ける考え方ですから、二役の同一性を意識しようとしません。こう云うところで近代自然演劇の観念が邪魔をします。

もうひとつ申し上げたいことがあります。今回(令和5年2月歌舞伎座)上演に関連したいくつかのマスコミの記事で、悪役・水右衛門のことを「色悪」と記したものが散見されます。色悪というのは、悪事を働く冷血で美しい二枚目の役どころを指します。見た目が良く・表面的には善人であるが、実は悪人というものです。代表的なのは七代目団十郎が初演した「四谷怪談」の民谷伊右衛門ですが、これは長い歳月を掛けて歌舞伎の工夫が加えられて今の「色悪」のイメージが出来上がってきたのです。(七代目団十郎の大先輩に当たる)五代目幸四郎が創始した悪役群(もちろん水右衛門も含む)は、これを「実悪」と云うのです。五代目幸四郎は登場すると子供が泣き出したと云う話があるくらいの、凄みの利いた容貌でした。それがいつ頃からか実悪と色悪のキャラクターが混同されているようですね。

*五代目幸四郎の藤田水右衛門。これがホントの実悪。

例えば今月(2月)歌舞伎座チラシは「色悪」とは記していないけれども、「水右衛門の徹底した冷血漢ぶりが最大の見どころで、色気も備えた業悪非道さは不思議な魅力を放ち、美しい悪の華を咲かせます」と書かれています。これも明らかに「色悪」のイメージですね。確かにいい男の仁左衛門が水右衛門を演じれば、そんなイメージになってしまうことは分かります。それはもちろん悪いことではありません。いい男ならいい男なりの「実悪」のイメージを追えば良いわけです。しかし、仁左衛門は彼なりに線の太い「実悪」を演じようとしていると思います。まあそれでもいい男ぶりは隠せないわけであるが。ですから・これは仁左衛門のせいではないのだけれど、水右衛門にせよ大学之助にせよ、過去50年くらいに限れば、これらの役の世間のイメージが仁左衛門で出来上がっちゃってるらしい(つまり他の役者があまり演じていない)ところに、実悪と色悪が混同される、現行歌舞伎の微妙な問題がありそうな気もするわけです。そう云うわけで、そろそろ本格の「実悪」役者よ出でよと言いたいところですね。(この稿つづく)

(R5・2・8)


3)十五代目仁左衛門・一世一代の水右衛門

今回(令和5年2月歌舞伎座)の「霊験亀山鉾」脚本は、ほぼ前回平成29年(2017)10月国立劇場上演本(奈河彰輔補綴)に拠っており・これを今井豊茂が10分程度刈り込んだ(補綴した)ものであるようです。(吉之助が見たのは2日目でしたが・終演が9時を超えてしまったせいか、その後・さらに大幅なカットが施されたようです。)舞台を見た印象では一応の筋は通っており、なかなか上手く補綴したものだと感心しますが、やはり4幕9場の展開はめまぐるしい。芝居をじっくり味わう場面がないのは致し方ないところです。表面的な筋を追いかけるだけになってしまうので、原作では南北も悪人に仇討ちをする追っ手の善人側の苦難・悲惨もそれなりに描いてはいるのだが、実際の上演であると「返り討ち物」としては「型通り」の印象を免れない。どうせ本作を通し上演するのならば・二部制の時にじっくり取り上げれば良いものを・・と思いますけれど、今回は水右衛門と八郎兵衛・二人の悪役を「仁左衛門一世一代にて相勤め申し候」というのが眼目なので、言うだけ野暮かもね。

そこで仁左衛門の水右衛門ですが、スケールの大きい悪人を描こうとしているのは良く分かりますが、仁左衛門だと本質的にクール(冷酷・極悪)に徹し切れない印象がしますねえ。やはり仁左衛門には正義の味方の方が似合うと思います。そのせいかは知らないが、仁左衛門はインタビューで「悪と決めつけましても、水右衛門は陰、八郎兵衛は陽。その色の使い分けですよね」と語っていますが、吉之助は逆の方が宜しいと思いますけどねえ。つまり水右衛門の方が陽です。カラッと割り切って、モラルに対する後ろめたさなどさらさら無い、陽性の悪です。ケラケラ笑いながら楽しそうに人を殺してもらいたいのです。その方が五代目幸四郎の実悪らしいと思います。一方、八郎兵衛の殺しの方は、おつまに振られた腹いせという背景があるから単純なものだと思います。まっ見解の相違ということで。

前回国立上演の時は「仕勝手で崩れていない印象で・なかなかテンポが良い」と書いた記憶がありますが、戦後では本作の初めての歌舞伎座上演となる今回は、(全体としての印象としてはそう変わらないけれど)やっぱり歌舞伎座でやるとこうなってしまうかな?と云う感じが、良い意味でも・悪い意味でも、ちょっとしますね。ちょっとの違いだが、より歌舞伎らしくなっているようです。正確に云えば、「歌舞伎座らしく」です。その印象が脚本補綴から来るか・配役の違いから来るか・それとも他の要素かは一概に言い難いですが、例えば第三幕・播州明石機屋の場が短い場面だけれど・それなりの重さを持った場面として見れたのは、東蔵の貞林尼と孝太郎のお松の好演に拠るところが大きいと思います。これは「らしさ」が良い方へ出たところです。

これも「らしさ」のひとつだが・再考を願いたいのは、芝翫の源之丞です。返り討ちされる哀れを出したい意図だと思いますが、声を細く高めにして色男に仕立て過ぎで、演技が嘘っぽい。返り討ちされることの悲運を「実」として表出してもらいたいのです。「返り討ち物」とは、殺された者の怨念を以て近親者が敵を追う、その彼が返り討ちされたら、その者の怨念を引き受けて・その近親者がさらなる怨念を以て敵を追う、そのような「怨念の連鎖」のドラマなのです。討っ手の怨念の「実」が描かれなければ「返り討ち物」は成立しない、そのように心得てもらいたいですね。

(追記)実は吉之助が見た日(3日)に、焼場の棺桶から水右衛門が現れる場面の仕掛けに不具合があったらしく、1分弱芝居が中断するという・ちょっとしたアクシデントが起こり、どうやらその時に仁左衛門さんが右脚を痛めたような気配があったので心配していましたが、翌日(4日)は無事に出演して・お元気なところを見せてくれたそうで、安堵いたしました。

(R5・2・12)



  (TOP)     (戻る)