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並木宗輔の虚構(トリック)

平成18年(2006)2月・歌舞伎座:「一谷嫩軍記・ 陣門組討」

九代目松本幸四郎
(二代目松本白鸚)(熊谷直実)、九代目中村福助(小次郎)、七代目中村芝雀(五代目中村雀右衛門)(玉織姫)

(追記) 平成十八年十月歌舞伎座:「熊谷陣屋」
九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(熊谷直実)、七代目中村芝翫(相模)他


1)並木宗輔の虚構(トリック)

並木宗輔は「一谷嫩軍記」において須磨の浦の戦いで熊谷直実が討ったのは平敦盛ではなく・ 実は我が子小次郎であったという歴史虚構(トリック)を設定しています。ご承知の通り、「組討」の場は表向きは熊谷は敦盛を討ったように作られています。そのタネ明かしは「熊谷陣屋」の場において明らかにされるのです。

とすれば後の「陣屋」での熊谷の性根を踏まえて「組討」の熊谷をどう演じるべきかというのは大いに気になるところです。「組討」において熊谷は敦盛・実は我が子を前にして「早や落ちたまえ」とお辞儀をしたり・「弥陀の利剣と心に唱名」などと念仏を唱えたりします。どういう理由で熊谷はこういうワザとらしい・回りくどいことをするのか。討たれるのが我が子であるとすれば、それはどうも「嘘臭 く」感じられます。だから歌舞伎の解説本には『「組討」の場はどこまでも熊谷が斬るのは敦盛であると思って見るのが宜しい』と書いているのが多いわけです。

逆に「組討」の場で討たれるのが敦盛だと思って見ていると、今度は「陣屋」の虚構が許せなくなってきます。このように「組討」を真に見れば「陣屋」がやり難くなり、「陣屋」を真に見るならば「組討」がやり難いのです。熊谷に一貫した人物像を求めようとすると、このジレンマに陥るわけです。

それでは解説本にあるように・「組討」と「陣屋」は別の芝居だと割り切って、「組討」の場はどこまでも熊谷が斬るのは敦盛であると思って見るのが宜しいのでしょうか。もちろんそれもひとつの読み方・ひとつの批評ではあります。しかし、これは「一谷嫩軍記」を一貫して読むことを初めから放棄しようというようなものです。本当に作者宗輔は一貫した人間像を以って熊谷を描いておらぬのでしょうか。

「陣門・組討」で熊谷が討ったのは我が子小次郎であることを明確に見せようと・敢然と新演出を試みた舞台がここに登場しました。今回取り上げるのは平成18年2月・歌舞伎座の舞台ビデオです。「陣門」で熊谷が小次郎に見せかけて敦盛を救出するのですが、花道まで来た時に熊谷に抱えられていた敦盛が 観客にはっきりと顔を見せてスックと立ちます。後ろに熊谷が座って手をつかえます。いつもの型を見慣れた人はこれを見て「アッ」と言うことでしょう。この後に・先ほど陣門に攻め入ったはずの小次郎が・今度は緋縅の鎧の武者姿 (つまり敦盛の格好)で白馬にまたがって登場します。

普通だと我々は小次郎と敦盛は瓜二つで見分けがつかないほどに似ているものだと・そう思い込むことにして芝居を見るわけですが、ここではふたりの人物がはっきりと区別されて います。つまり、人物が入れ替わって・小次郎が敦盛の身替わりになったことを観客に明確に見せているのです。これは「底を割る」というようなものではなく、もう芝居の前提をひっくり返しているわけです。

これはルール違反であるのか・はたまたトンでもない演出でありましょうか。しかし、吉之助には幸四郎がここまでやらねばならなかった「必然」が分る気がします。幸四郎は「陣屋」のドラマを踏まえて・須磨の浦で斬るのは我が子小次郎であることをはっきりと観客に見せたかったということです。それでないと「組討」の場の熊谷の心情を完全に表現できないと 幸四郎は感じたのでしょう。

思えば平成15年6月歌舞伎座での「陣門・組討」は幸四郎は従来型で熊谷を演じたのですが・実に泣きの熊谷でありました。吉之助はこの舞台をたまたま最前列で見ておりますが、もう始終鼻をすすって・涙ボロボロの熊谷で、「ここで私が斬らねばならないのは我が子なのです・こんな悲しいことがあるでしょうか」という心情が見え見えの熊谷でありました。我が子の首を抱えての「カ・チ・ド・キ」の台詞は、悲痛のあまり・もう声を搾り出すのがやっとで・その場にへたり込んでしまいそうにさえ見えました。こうした演技を「底を割っている」と批判することは簡単なことです。しかし、幸四郎はこの場で熊谷は我が子を斬るということを性根の前提に置いているわけですから・そこに熊谷の親としての心情をリアルに表現しようという幸四郎の「役者としての真実」があると吉之助は理解をしました。

もちろん熊谷親子はここで敦盛を斬るのだとして平山武者所ほか味方の軍勢を(次いでに観客をも)欺こうとしているわけですから、熊谷はここでボロボロ泣いてはいられないという批判もあり得ます。ここは涙を堪えて・熊谷はまず平山武者所を騙し通なければ息子の死が無駄になってしまうからです。(これについては別稿「須磨浦の目撃者」をご参照ください。)そこは意見の分かれるところですが、幸四郎ならばこれでないと演じられないというのも吉之助は分る気がします。

あの時の幸四郎の「泣きの熊谷」を見た吉之助には、今回の新演出の「陣門・組討」には「そうか、幸四郎はやはりそこまでやらねばならなかったか」と納得するものを感じま した。つまり、「組討」と「陣屋」は別の芝居だと割り切って・「組討」の場は熊谷の斬るのが敦盛であるというような嘘を演じるのはイヤだと幸四郎ははっきり宣言しているわけです。これはある意味で役者として当然じゃないかと吉之助は思います。もちろんこの新演出が他の役者にもお薦めであるとは思いません。これは幸四郎だけに許されるものでしょうが、従来解釈に一石を投じるものとして・この試みは記憶しておきたいと思います。


2)遠見とセリ上げ

昔は「陣門・組討」は「陣屋」と併せて半通しの形で上演されることが多かったのです。これが大正期過ぎた辺りから「熊谷陣屋」が単独で出ることが急激に多くなってきて、「陣門・組討」の上演機会が減っていきます。これは九代目団十郎型の「陣屋」が単幕の芝居としての完結性を持っていることに関連します。いまでは「陣門・組討」は単独で出されるのがほとんどですし、しかも上演回数は多くありません。そのため「陣門・組討」の演出はいまひとつ「陣屋」との関連が突き詰められないまま今日に至っている気がします。

あんまり本筋とは関係ないところですが・今回の「陣門・組討」で注目されるもうひとつの大きな改変は、子役の遠見をカットしたことです。浅葱幕を切り落とすと・舞台中央から熊谷と敦盛(=小次郎)がセリ上がるという形にしています。解説本などには遠見は歌舞伎らしい・リアリズム離れしたのんびりした手法だとして好意的に紹介しているのが多いので何ですが、遠見での子役の熊谷と敦盛のやり取りは間延びして緊張感を大いに削いでいると思います。子供芝居があまり好きでない吉之助には・芝居の緊張感を維持する意味でも遠見のカットは有難いところです。しかし、どうせなら・ついでに本舞台に熊谷と敦盛がセリ上がるのも止めてもらいたかったという気がしました。

セリ上げという技法は主として所作事(舞踊)の時に用いるものです。花道でのセリ(いわゆるスッポン)は妖怪変化の登場に限られます。本舞台でのセリ上げの場合はそうではないようですが、所作事での舞台転換を効果的にするものとして・江戸時代は多用されたものでした。これが減ったのは明治以後のことで、例えば「積恋雪関扉」の関兵衛の登場も昔は本舞台のセリ上げであったのです。ところが、九代目団十郎がセリの所作板は踊っている時に継ぎ目が足に当たるとコツコツして踊りにくくて嫌だと言って・これを浅黄幕の切り落としに変えてしまいました。それでこの型のまま今日に至っています。だからこの場面の「関の扉」の鳴物だけは今でもセリの鳴物が残っているというわけです。

いずれにせよ本舞台のセリ上げは所作事の手法です。「組討」で熊谷と敦盛が五月人形みたいにセリ上がるのを見ると・いつも吉之助は所作事でもないのになあ・・・と思ってしまいます。好意的にみれば「様式的」ということになるのですかねえ。これは恐らく幕末の演出がそのまま残ったものでしょう。しかし、浅黄幕を落としたら・熊谷と敦盛がそこで組み合っているという段取りで芝居としては十分だと思います。(注:遠藤為春の証言に拠れば、九代目団十郎はセリを使わず・そのようにしたそうです。この行き方が正しいと思います。)


3)幸四郎の熊谷

今回の新演出で・もうひとつ詰め切れていないと不満を感じるのは、玉織姫の扱いです。玉織姫は「組討」の虚構を設定した並木宗輔のもうひとつの仕掛けであると思うからです。許婚敦盛(=実は小次郎なのですが)の首を抱きしめならがら死んでいく玉織姫の姿は哀れを誘いますし、熊谷がふたりの遺骸を並べて海に流すのも「どちらを見てもつぼみの花。都の春より知らぬ身の今魂はあまざかる、鄙に下りてなき跡をとふ人もなき須磨の浦、なみなみならぬ人々の成り果つる身の痛はしや」という熊谷の心情が感じられてグッとくる場面です。そこに「平家物語」の世界の再現を見る気がします。

ところが、今回の「組討」のように熊谷の斬るのが小次郎であるのが大前提となると、玉織姫はアカの他人の首を抱きしめて・それが許婚の首だと思って・「アヽはかない姿になり給ふなう」と嘆きながら死んでいく ことになるわけで、かなり趣が変ってしまいます。熊谷にしてみれば・身替わりの大博打の最中なのですから・容易に真相は明かせないにしても、玉織姫はもう息を引き取ろうかという瀕死の状態ですから、偽首を渡してやるより・「心配するでない、敦盛卿は無事である」と玉織姫の耳元で囁く方が彼女の為にはどれだけかよろしかったでしょう。それなら玉織姫は許婚の無事を祈りながら死んでいけるかも知れません。ところが、熊谷はそうはしないわけです。熊谷は偽首の・我が子の首を玉織姫に抱かせるのです。嘆きながら玉織姫は死んでいきます。

もちろんこれには熊谷なりの理由があります。須磨浦は衆人環視の戦場であって、そのなかで熊谷親子は身替わりの大博打を打とうとしているのです。目撃者たちを騙すために、わざわざ「早や落ちたまえ」とお辞儀をしたり・「弥陀の利剣と心に唱名」などと念仏を唱えたり ・親子で演技をしてきたわけです。ここでネタばらしをしてしまうわけにはいきません。熊谷は実に冷静冷徹です。ここで玉織姫さえも騙してしまって、これを状況証拠にしてしまうのです。もちろん好意的に考えれば、死んでいく玉織姫のために・せめてもの熊谷の心遣いというこということになります。

いずれにせよ熊谷はここでタネ明かしをするわけにいきません。大事の偽首を玉織姫に渡すのに(後で義経に首を見せねばならぬのです)・玉織姫に「これは敦盛さまの首ではない」と騒がれては困ります。今回の幸四郎の熊谷ですが、ずいぶん無警戒の感じで玉織姫に偽首を渡しますねえ。これは平成15年6月の上演の時もそうでした。しかし、今回の新演出ではここが同じではマズイと思います。玉織姫は小次郎の首を抱くことが観客に分かっているのですから。ここは玉織姫の面前に軍扇をかざして見せて、玉織姫がもう眼が見える状態ではないこと・もう息が切れる寸前であることをしっかり確かめてからでないと、大事の偽首は手渡せません。そうすることで、この首が敦盛の首ではないことを・観客に再度念押しすることが出来るのです。今回の「組討」の場面では、そこの一点だけがちょっと気に掛かりました。

今回の「陣門・組討」は「これでなければ自分は熊谷が演れない」という幸四郎の問題提起であると吉之助は受け取りました。そのことは舞台である程度の成果を上げています。しかし、それはこれに続く「熊谷陣屋」の場との関連において・本当の意義を見せるのです。その意味では「陣門・組討」だけの上演では・この試みはまだ中途半端であるということが言えます。さて、幸四郎さん、この「陣門・組討」の後に・どうゆう「熊谷陣屋」を付けるのでしょうか?それによってこの新演出の成否が決まるということでしょう。いずれにせよこの新演出の試みは、本当は「陣門・組討」〜「熊谷陣屋」の半通しによって問われるべきであったということは確かなことです。

(H18・9・21)


(追記)

直実の時代の表現

平成十八年十月歌舞伎座:「熊谷陣屋」

九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(熊谷直実)、七代目中村芝翫(相模)、四代目市川段四郎(弥陀六)、二代目中村魁春(藤の方)、十二代目市川団十郎(源義経)


前稿に「この組討の後にどうゆう陣屋を付けるのでしょうか」と書きましたが、幸四郎が平成十八年十月歌舞伎座で「熊谷陣屋」を出しましたので、これを幸四郎の一応の解答であるとしてその舞台を見てきました。

幸四郎の熊谷ですが、終始調子を高く持って・時代に基調を置いた熊谷でした。幸四郎は体格が立派であるし、形容として大きい時代物の役柄に仕上がっています。しかし、そのために取りこぼしたものも結構多いように思えました。

「熊谷陣屋」は時代物だから熊谷が時代の演技になるのは当然じゃないかと思われるかも知れませんが、そうではありません。「陣屋」の熊谷の演技を時代の方へ強く向け過ぎると、幸四郎が描きたいと願うところの「我が子を討った父親の悲しみ・無常」ということが浮いて見えてしまうのです。もう少し実事(じつごと)の方・つまり写実の方へ比重を置いて演技をすれば・その心情はもっと誠のものとして実感を以って見えたと思います。そのヒントが御祖父さんの初代吉右衛門の演じる熊谷の映画(昭和25年)にあるのですから、幸四郎はその映像をよく見て研究してもらいたいと思います。

例えば「陣屋」の眼目と言うべき物語りの場面ですが、幸四郎の物語りは全体を台詞を高い調子で一貫して続けてしまって・メリハリに欠けるところがあります。物語りの「父は波濤へ赴き給い、心に掛かるは母人の御事」から「是非に及ばず御首を、討ち奉ってござりまする」は、もっと低く実感を以って言って欲しいのです。そして、女性たちの嘆きの声を断ち切るように「エエ、戦場の習えだわ」と声高く時代に叫べば良いのです。 そうした表現の緩急が欲しいと思います。

なぜならばこの物語りは・実際に熊谷が討ったのは小次郎なのですから、これは「嘘の物語り」だからです。しかし、ここに嘘を語りながらも・熊谷の本心がつい出てしまう箇所があります。例えば「心に掛かるは母人の御事」という箇所です。恐らく・あの須磨の浦の場面で小次郎が母親(つまり相模のこと)を漏らしたに相違ありません。嘘を語りながらも・横で何も知らずに藤の方に同情して泣いている相模が熊谷は不憫でならないわけです。そのような物語りを熊谷が調子よく・高らかに語ることなど出来るはずもありません。だから、熊谷が時代に張ることのできる場面は・そう考えれば「敵と目指すは平家の一門、敦盛はさておき、しのぎを削るに誰かれの容赦がなろうか」とか「エエ、戦場の習えだわ」と言うふたりの女性を押さえつける台詞だけになるはずです。逆に言 うと「戦場の習えだわ」などを強く言うのは熊谷が自分自身を納得させようと・叱咤しているからでもあります。

「熊谷陣屋」全体においても、熊谷の演技は相模に対する時はその心情が湧き出て・時代の表現が弱くなるのが本当だろうと思います。だから相模に対する時は熊谷は自然に口調が低くなると考えられます。「いや、何、藤の御方、戦場の儀は是非なしと御あきらめ下さるべし」という台詞は藤の方に言っているようでいて・実は相模に言ってい るのですから、これも心情が入って低く言うべき台詞です。つまり、熊谷の演技は相模に対する時にトーンが低めに落ちることで、続く「戦場の習えだわ」と声を張り上げる時代の演技にアクセントがつくわけです。ここが熊谷の時代の演技の緩急の味噌です。

幸四郎の熊谷の場合は相模に対する時の演技が一貫して高めのままで推移するので、その物語り全体が一本調子に見えてくるのです。幸四郎が「子を失った親の心情」を訴えたいのならば、熊谷は自分だけの心情に浸っていて良いはずがありません。それこそこの後の場面で相模がなじる通り「そなたひとりの子かいのう」と言うことにな ります。幸四郎の熊谷は相模に威圧的に対し過ぎで、相模に対する情があまり見えてきません。自分ひとりの悲しみに酔い過ぎている。しかし、熊谷が一番思いやらねばならないのは妻相模のこと なのです。幸四郎の熊谷は相模に対する演技を抑えれば、熊谷の心情がもっと自然に見えてくると思います。

歌舞伎では首実検の後・相模のクドキがあって・最後に相模が熊谷に向かって「申し・・」と言って夫をなじる仕草をすると・熊谷はこれを憤然として「何を」という感じで睨みかえす場面がありますが、ここも本来ならば熊谷は「そうだ、その通りだ、お前の気持ちは俺が一番分っている・俺も同じ気持ちだ・今は言うな・言うな」という感じで目をつぶってウンウンと頷くくらいがちょうど良いのです。幸四郎にはこう言う所をこそ直してもらいたかったという気がします。

いずれにせよ熊谷を大時代の役どころだと決め付けていると、熊谷の心情表出の幅を狭めることになります。熊谷の実事での可能性をもっと突き詰めたいものです。平成十八年二月歌舞伎座での「組討」での新機軸を生かす・つまり「子を身替わりに差し出した親の悲しみ」に焦点を当てようとするならば、この「陣屋」にはまだまだ工夫の余地があると感じました。

(H19・2・25)


 

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