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須磨浦の目撃者

〜「一谷嫩軍記」・須磨浦・組討


1)なぜ「陣屋」は単独で上演されるのか

「一谷嫩軍記」の歌舞伎での上演記録を見ますと、昔は「陣門・組討」と「熊谷陣屋」は半通しの形で続けて上演されることが多かったのです。ところが、現代では「陣門・組討」と「陣屋」はそれぞれ別々に上演されることがほとんどです。というより「陣屋」が単独で上演されることが圧倒的に多くなって、「陣門・組討」の方はあまり上演されなくなってしまったのです。

これは不思議なことです。「熊谷陣屋」は言うまでもなく名作ですが、内容はトリックが効いていますから前場があった方が観客にも筋が理解がしやすいように思います。熊谷の「物語」などもずっと分かり易くなるはずだと思います。しかも「陣門・組討」というのは「平家物語」を彷彿とさせる名場面でもあります。これを半通しでやるというアイデアはすぐに出そうなものですが現代ではあまり「やらない」のです。これは一体なぜでしょうか。

「陣屋」の単独上演が多くなっていくのは明治後半から大正にかけてのことのようです。その理由は歌舞伎の上演形態の変化(見取り上演が多くなる)も大きな要因でしょう が、それだけではなく九代目団十郎型の「陣屋」での上演が普通になっていくことに理由があるようです。それは九代目団十郎型の「陣屋」が密度が高く・自己完結性を持っているからです。

九代目団十郎型は、時代物の「陣屋」を熊谷直実の視点で解釈し直した・新しい時代感覚の演出でした。(これについては別稿「熊谷の引っ込みの意味」「九代目団十郎の熊谷を想像する」をご参照ください。)主人義経の命によって我が子を身替りにする熊谷直実の苦悩・無常の精神をクローズアップする演出は、その解釈を突き詰めていくほど実は「組討」での熊谷の解釈を難しくするものなのです。どうしてかと言うと九代目の作り出した熊谷像というのは近代演劇理念の裏打ちのあるもので、一貫した人間性を必然的に要求してくるものだからです。

作者(並木宗輔)は「組討」において熊谷の討つのが実は敦盛ではなくて・我が子小次郎であることをあからさまにしていません。表向きは熊谷は敦盛を討ったことになっています。そのトリックは「陣屋」において明らかになるのです。

とすれば、九代目団十郎型の「陣屋」での熊谷の性根を踏まえて「組討」の熊谷をどう解釈すべきだろうかというのが当然問題になってきます。 「組討」において熊谷は敦盛・実は我が子を前にして「早や落ちたまえ」とお辞儀をしたり・「弥陀の利剣と心に唱名」などと念仏を唱えてみたり します。どういうことで熊谷はこういうワザとらしい・回りくどいことをするのか。討たれるのが我が子であるとすれば、それは何となく「嘘臭い」ようにも思われます。だから歌舞伎の解説本にも『「組討」の場はどこまでも熊谷の討つのが敦盛であると思って見るのが宜しい』と書いているのが多いのです。

逆に「組討」の場で討たれるのが敦盛だと思って見ていると、どうしても「陣屋」のトリックが許せなくなってきます。岡本綺堂は皮肉たっぷりにこう書いています。

『観客に一杯喰わせてアッと言わせるには、なるほどこういう手段が最上であるかも知れないが、不自然と言えばすこぶる不自然なもので、いかに丸本流の理屈でもこの破綻は掩い切れまいと思われる。何ぼ何でもこんな思い切った書き方はしないだろうと観客は油断していると、思いきやの結末に至ってアッと驚かせされる。それを上手と言えば上手、卑怯と言えば卑怯である。(中略)この作者なども現代に生まれていたら屈指の探偵小説家になり得たであろう。』(岡本綺堂他による「壇特山の研究」より・昭和2年10月・「演芸画報」・岡本綺堂は「半七捕物帳」の作者でもありました 。)

このように「組討」を真に見れば「陣屋」がやり難くなり、「陣屋」を真に見るならば「組討」がやり難いのです。熊谷に一貫した人物像を求めようとすると、このジレンマに陥るわけです。このことが、現代において「組討〜陣屋」の半通しが上演されない背景にあると思われます。


2)「倅小次郎直家と申す者」

それでは解説本にあるように『「組討」の場はどこまでも熊谷の討つのが敦盛であると思って見るのが宜しい』のでありましょうか。もちろん、それもひとつの読み方・ひとつの批評で はありましょう。しかし、これはいわば「一谷嫩軍記」を一貫して読むことを初めから放棄しようというようなものです。本当に作者(並木宗輔)は一貫した人間像を以って熊谷を描いておらぬのでしょうか。

「組打」は「嫩軍記・二段目」の端場に当ります。端場というのは切場の前の比較的軽い場のこと を言うのですが、「組討」だけは端場のなかでも特別な存在となっています。宝暦1年(1751)12月豊竹座での初演でも「組討」は二代目若太夫が勤めました。若太夫は紋下の筑前少掾の次ぐ地位にある太夫で、四段目切場も担当をしています。これだけでも「組討」が重い場であることが分かると思います。「組討」の場にはそれだけの「仕組み」がされていると考えるべきなのです。

この「組討」を豊竹山城少掾が語ったことがあります。恐らく昭和16年12月のことであろうと思います。その時に聴いた感動をもとにして武智鉄二が「組討論」という論文を書きました。(昭和23年11月)この 「組討論」は武智理論の丸本分析の代表的な名評論でありまして、機会があれば是非ご一読をお勧めしたいと思います。この「組討論」で武智氏は、作者・並木宗輔は本文中に熊谷が討つのが敦盛ではなく・小次郎であるとあからさまには書いていないけれど、よく本文を検討すればその細部のあちこちで熊谷が我が子を討ちかねる心の迷い・苦悩が表現されているのだということを詳細に書いています。この論文を読んだ時に、 吉之助は「丸本作者はいい加減なことは書いていない」ということを思ってホントに感激しました。そして「もし丸本がいい加減だと感じるなら・それは読み方がまだ足りないのだ」ということを確信したのです。特に 吉之助がショックを受けたのは、

『 「アア後れしか熊谷。早々首を討たれよ」 と捻向き給ふ御顔を、見るに目もくれ心さえ、 「倅小次郎直家と申す者丁度君の年恰好。今朝(こんてう)軍の先駆けして薄手少々負うたるゆゑ、陣屋に残しをきたるさへ心にかかるは親子の仲。それを思ヘば今ここで討ち奉らば、さぞや御父経盛卿の、歎きを思ひ過されて」と、さしもに猛き武士も、そぞろ涙にくれゐたる。』

の箇所において、山城少掾が「倅小次郎直家と申す者」の部分を「倅(せがれ)」と呼びかけるように語り、ちょっと間を置いて「小次郎直家と申す者」と打ち消すようにちょっと照れて語ったと武智氏が書いている部分です。

これはいくらなんでも山城少掾がそんな語りをするはずは無いでしょという人もいたりするので本当のところは分かりません。この部分に関して山城少掾が自らの解釈を語った聞書もないようなので確認 もできません。しかし「組討論」での武智鉄二の執筆の動機が山城少掾の語りのこの部分の感動にあったことは明らかであるのだし、武智氏は山城少掾をそう聴いたということでよろしいのかと思います。

ここで大事な点はふたつあります。まずひとつは熊谷がその厳しい封建的虚構のなかから人間的な感情を思わず吐露してしまったということ。もうひとつは、思わず感情をほとぼらせてしまった熊谷は・しかしすぐに再び虚構のなかに戻ってしまうということです。

なぜそうなのかを考えてみたいと思います。思わず「倅」と呼びかけてしまった熊谷はどうして刀を捨ててそのまま泣き崩れてしまわずに・虚飾のトリックのなかに戻ってしまうのでしょうか。もしそうならば、どうして「・・小次郎直家と申す者」などと言わねばならないのでしょうか。


3)観客も目撃者である

「組討」の舞台を見ますと、舞台には敦盛(じつは小次郎)と熊谷直実以外に人はおりません。(他に瀕死の玉織姫がいますがこれは例外とします。)しかし、平山武者所ほか数多の軍兵が須磨の浜辺にひしめいているのです。ここは戦場なのです。誰がその場にやってきてもおかしくない状況です。敦盛を斬るのを躊躇する熊谷に「ヤアヤア熊谷。平家方の大将を組敷きながら助くるは二心に紛れなし。きゃつめ共に遁すな」と声々に罵る声が飛びます。熊谷はこのような衆人環視のもとで敦盛の身替りとして我が子を斬るのです。

須磨浦での熊谷と敦盛の一件を百姓与次郎が山の上から見ていて、「三段目・宝引の場」においてその状況を仲間にこう語っています。(「宝引の場」は文楽では代表的なチャリ場です。 以下は文楽床本からの引用です。入れ事の台詞なので、丸本とはかなり異なります。)

「ヲヽおりゃ柴しに往て山の原で弁当喰うて見てた。熊次郎めが馬に乗って、大きな風呂敷せたらうて、黒い扇をチャイと上へ差し上げて、ヲヽイあつぼあつぼというて招いたら敦盛さんが遊ぼうと聞かしゃったかして、馬のすこたんチョイとこっちゃ向けて、ヤシャンゴラヤシャンゴラ砂場へ上らしゃった。そしたら熊次郎めが脇差の長いのをずらと抜いた。敦盛さんもすっと抜いた。ヤ丁ンヤ丁丁ンが丁ンこ丁ンこしてこい、してこいというて馬の上から二人ながら飛んで下りた。そしたら敦盛さんもいやになったかしてちんと坐らしゃった。熊公めがニャンマンダニャンマンダと言いおって、人違えしたらどもならんと思いよったかして、コダこっちゃ向いて顔見せいとこない言いおる。こちら向けというたら敦盛さんがインヤそちらは無官の太夫ぢゃと言わしゃった、ムヽマアええわと弁当喰ひかけたりゃ首がころりと落ちた。おりゃ恟りして弁当踏みくだいて小便ちびったフハハハ」

余談ですが、昔は合戦というと戦場付近の百姓たちは山の上にあらかじめ避難して・そこで家族して弁当をひろげて合戦をのんびり見物していたものだそうです。終ると戦場に下りていって、死んだ兵士の身につけた甲冑など金目のものを漁ったりしました。百姓与次郎もそうしたものかもしれませんが、熊谷と敦盛の件は遠くから見ると与次郎にはこう見えたようです。

「熊公めがニャンマンダニャンマンダと言いおって、人違えしたらどもならんと思いよったかして、コダこっちゃ向いて顔見せいとこない言いおる。こちら向けというたら敦盛さんがインヤそちらは無官の太夫ぢゃと言わしゃった」

山の上でふたりの会話が聞こえたとも思えませんが、芝居ですからまあ良いとしましょう。熊谷は確かに念仏を唱えたり・敦盛の顔と名前を確かめ・そして敦盛の首を討ったわけです。そして与次郎も熊谷が敦盛を討ったと思い込んだのです。与次郎は目撃者であったのです。

どうして熊谷は敦盛・実は我が子を前にして「早や落ちたまえ」とお辞儀をしたり・「弥陀の利剣と心に唱名」などと念仏を唱えてみたりするのか、その理由がお分かりになったと思います。衆人環視の戦場という状況で、敦盛の身替りとして我が子を斬る・という大トリックを行なうための熊谷親子の「芝居」であったということです。すなわち、ここでは観客さえも目撃者に仕立て上げられるというわけです。まさに熊谷親子は衆人環視のもとで「完全なるトリック」を敢行したのです。

そうした「大芝居」のなかにも親子の情が思わずほとばしると武智氏は言うのです。

『勝負も果てしあらざれば、「いそうれ組まん」と敦盛は打物からりと投げ給へば、「ムコハしをらし」 と熊谷も太刀投げ捨てて駒を寄せ、馬上ながらむずと組む。」

勝負がなかなか付かないのは熊谷が親としての情から我が子を討ちかねるからだと武智氏は言います。剣の切っ先が鈍ってしまうのです。父親の気後れを見て取った小次郎は、刀を捨てて「いそうれ組まん」と叫びます。そうなれば父親は最後の決心に及ばざるを得ないからです。覚悟を決めている小次郎は父親の覚悟を即すように組み掛かっていきます。「コハしをらし」は、これを受ける父親の気持ちを示すものなのです。

『 「倅小次郎直家と申す者丁度君の年恰好。今朝(こんてう)軍の先駆けして薄手少々負うたるゆゑ、陣屋に残しをきたるさへ心にかゝるは親子の仲。それを思ヘば今こゝで討ち奉らば、さぞや御父経盛卿の、歎きを思ひ過されて」と、さしもに猛き武士も、そゞろ涙にくれゐたる。「アヽ愚かや直実、悪人の友を捨て、善人の敵を招けとはこの事。早首討ってなき跡の回向を頼むさもなくば、生害せん」とすゝめられ、「アヽ是非もなし」とつっ立上り 「順縁逆縁倶に菩提、未来は必ず一蓮託生」 「南無阿弥陀仏」 「南無阿弥陀仏」首は前にぞ落ちにける』

現場での熊谷親子が本当にこうした会話をしたのかどうかは分かりませんが、多分その通りではなかっただろうと思います。例えば「陣屋」の熊谷の物語りにある「心に掛かるは母人の御事」 そのままの台詞が「組討」にはありません。「組討」の台詞には見えないけれども、しかし、この台詞を小次郎(敦盛)は必ず言ったに違いないのです。熊谷の物語りの場面では熊谷は討ったのは敦盛であると嘘の物語りをするのですが、実は熊谷は無意識のうちにこの時の情景をなぞっているのです。

熊谷親子は親子の最後の別れをしつつ・向こうに見え隠れする敵味方を気にしながら、まことしやかに「芝居」をしたのでありましょう。しかし、傍からは熊谷が花のような若武者敦盛を討ちかねつつ・無情を感じつつも遂にこれを討ったように見えたのです。観客にもそう見たのです。戦場の仲間も観客も熊谷親子の「芝居」に騙されたのです。それでいいのではないでしょうか。


(付記)

1)敦盛の首を討った熊谷が「勝ち鬨」を叫び・味方が「エイエイオウ」を叫ぶ件は歌舞伎の入れ事です。ここは二代目吉右衛門の熊谷の演技が素晴らしかったと思います。吉右衛門は「勝ち鬨」を叫び、「エイエイオウ」を聴いて平山武者所が引っ込むまで息をぐっと詰めています。そこに「大仕事」の最後の仕上げを見るようでした。ここで熊谷は平山武者所も味方の兵士たちもすべて目撃者にしてしまうのです。ここで仕遂げなければ息子の死は無駄になってしまう・ 芝居はやり遂げなければならない・そのような必死の思いがみなぎっておりました。

2)その昔の「組討」の幕切れでは熊谷は馬の轡を引いて花道を幕外で引っ込んだものでした。これは舞台中央で熊谷と馬が極まる現行の幕切れよりも、この方が風情があって断然よいと思います。この幕外の引っ込みがされなくなったのは、「陣屋」での九代目団十郎型の幕切れとダブるからでしょう。しかし、今のように「組討」が単独で出されることが定着した状況ならば花道の引っ込みは復活されてもいいのではないかと吉之助は思います。

(H15・11・19)



 

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