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十代目幸四郎と六代目勘九郎の「佃夜嵐」

令和4年8月歌舞伎座:「安政奇聞佃夜嵐」

十代目松本幸四郎(青木貞次郎)、六代目中村勘九郎(神谷玄蔵)、五代目中村米吉(おさよ)、初代坂東弥十郎(おさよの父義兵衛)、初代中村隼人(木鼠清次)他


1)六代目菊五郎と初代吉右衛門

「安政奇聞佃夜嵐」(あんせいきぶんつくだのよあらし)は大正3年・1914・6月・二長町市村座での初演。六代目菊五郎と初代吉右衛門・いわゆる「菊吉」の、息の合った芝居で沸かせた、伝説の名舞台の一つとして良く知られています。しかし、評判の割りに上演頻度は高かったわけではなく、戦後の上演であると、昭和23年・1948・5月東京劇場(六代目菊五郎と初代吉右衛門)、昭和48年・1973・4月歌舞伎座(二代目松緑と十七代目勘三郎)、昭和62年・1987・5月歌舞伎座(七代目菊五郎と二代目吉右衛門)の三回切りです。だから今回(令和4年・2022・8月歌舞伎座)が、35年振りの4回目と云うことです。

昭和62年の、宇野信夫改訂による上演は吉之助も生(なま)の舞台を見ましたが、事前に菊吉の舞台写真など見て過大に期待を膨らませていたせいもあって、「何だ・こんなものか」というガッカリ感が結構大きかったことを覚えています。島抜けの場面はアッサリで拍子抜けだったし、結局、上作とは言いかねるのが正直なところで、まあこれならば上演されないのも頷ける。所詮「菊吉」あっての芝居だなあと云うことかと思います。今回(今井豊茂補綴による)もそれを再確認したようなものだったかも知れませんが、まあそれもこれも実際にやって見ないことには分からぬことです。

ところで、佃島構外島抜けの場で六代目菊五郎(青木)が初代吉右衛門(神谷)を背負って海を泳ぐ場面は有名なもので、写真を見るとスティーヴ・マックイーン主演の映画「大脱走」みたいで面白そうだなあと思ってしまいますが、この写真は大正15年・1926・6月歌舞伎座での再演の時のものでした。実は、初演(大正3年・1914・6月・二長町市村座)の時には、菊五郎だけが海に入り、吉右衛門が片足を恐る恐る海につけてみるところで幕になったようで、菊吉が一緒に泳ぐ場面はなかったそうです。(初演の写真を参照ください。)

大正15年の再演では、菊五郎が吉右衛門を背負って泳ぎ始めると、観客席から大喝采が巻き起こったそうです。この辺のことは、当時の「菊吉」の関係が分かっていないと、雰囲気の本当のところは分からないと思います。そもそも日本のファン気質のいけないところは、江戸の昔からいつの時代も、自分の贔屓役者を褒めるために、ライバル関係にある役者を無用に貶すことでそれを果たそうとし勝ちなところです。クラシック音楽でも、フルトヴェングラーを持ち上げるのにトスカニー二やカラヤンを貶す風があるのも、そんなところです。二長町市村座時代の「菊吉」人気は、凄いものでした。幕が開く前から、音羽屋!播磨屋!の連呼が凄まじく、菊五郎贔屓と吉右衛門贔屓が互いを罵り合い、喧嘩になりかねない雰囲気さえ漂っていました。それが大いに影響して、菊五郎と吉右衛門の周囲にもギクシャクしたところがあって、両者の関係は必ずしも良好と言えませんでした。大正10年・1921・2月の吉右衛門の市村座脱退の遠因は、そんなところにあったわけです。

ですから、再演で菊五郎が吉右衛門を背負って泳ぎ始めると、観客にはそれが、「いがみ合っていた菊吉が遂に和解した」が如くに見えたことでしょう。大喝采には、そんな背景があったわけです。(この稿つづく)

(R4・9・1)


2)作者・古河新水のこと

ところで本作「佃夜嵐」の作者は「古河新水(こがしんすい)」とクレジットされていますが、これは十二代目勘弥の筆名です。勘弥は江戸三座から続く守田座の座元でもあり、明治5年(1872)9月に猿若町から新富町に新劇場を移転、後にこれは明治8年(1875)1月に新富座と改称、プロデューサーとして明治歌舞伎の頂点に君臨しました。また文才もあって、明治19年(1886)に黙阿弥の弟子格となって、「新水」を号しました。時代は演劇改良運動の真っ最中でもあり、例えば明治21年・1888・2月新富座で初演の「名大島巧誉弓勢」(なにおおしまほまれのゆんぜい)は、吉之助も外題しか知りませんが、通称を「凧の為朝」と云って、九代目団十郎の肚芸が大いに話題となった「活歴」の代表作でした。勘弥が亡くなったのは、明治30年・1897・8月のことでした。

そうすると「佃夜嵐」初演は大正3年・1914・6月・二長町市村座のことですから、何かの事情でずっとお蔵になっていた勘弥の旧作を引っ張り出してきたと云うことなのです。そこら辺の事情が気になるので調べてみると、初演(大正3年)の時に六代目菊五郎がこんな興味深い証言をしています。

『「安政奇聞佃夜嵐」は明治25年に新富座が深野座と改まった時、亡父(五代目菊五郎)と先代(初代)左団次さんとで演るために、黙阿弥翁が筆を執った狂言で、その時は「新舞台安政奇聞」と云ったのです。ところが少し事情があって中止になったまま今日まで上場されなかったのです。翁の作で板にかからずにあった狂言はこれ一つで、今度二十何年目かで初めて上場されたわけです。』(六代目尾上菊五郎・「演芸画報」・大正3年10月号)

つまり六代目菊五郎は本作の真の作者は黙阿弥であるとする説なのですが、もともと五代目菊五郎の青木・初代左団次の神谷を想定して書かれたものであったわけです。明治〜大正の名興行師で、二長町市村座で「菊吉」の売り出しを仕掛けていた田村成義がこのことを覚えていて、土蔵から古い脚本を引っ張り出して来たと云うことであるようです。

真相はよく分かりませんが、明治25年の本作上演がボツになってしまったのは、勘弥が案を持っていったところ、初代左団次がこれを断ったからだそうです。原因としては、当時、左団次と勘弥の間にややこしい金銭トラブルがあったとか、いろいろ事情があったようです。なお黙阿弥研究の河竹繁俊先生は、脚本の成立について、「新水(勘弥)が案を立て、田村が時代考証など資料を提供し、黙阿弥もこれに参与して、幾場かを執筆したものだろう」としていますが、大筋としては本作を新水の作であると判断しているようです。(この稿つづく)

(R4・9・3)


3)脱獄事件の真相

江戸期の芝居では、同時代の事件をそのまま脚色することは許されませんでした。景清の牢破りみたいな時代物は別として、舞台で牢獄の場面を描くことは出来なかったのです。歌舞伎で牢獄を写実に描いたものは、「四千両小判梅葉」(しせんりょうこばんのうめのは、黙阿弥作・明治18年・1885・11月千歳座初演)と、本作「佃夜嵐」の二作しかないようです。もちろんどちらも明治になってからの作品です。

「佃夜嵐」のもとになったのは、明治17年・1884・3月に石川島監獄から服役中の政治犯松田克之と赤井景韶の二人が脱獄したと云う、実際に起こった事件でした。松田克之は石川県の士族で、大久保利通暗殺事件の連係者として逮捕されて終身懲役の判決を受けました。赤井景韶は新潟県の士族で自由党員でしたが、政府要人を暗殺する目的で天誅組なる組織を作ろうとして趣意書を書いたのが発覚して逮捕されて(これを「高田事件」と云う)、重禁獄9年の刑に処せられました。二人は共に石川島監獄に服役しました。当時の石川島監獄の食事事情は劣悪で、獄中で病死する者も少なくなかったそうです。松田ら政治犯は強制労働をしなくてよかったので、余計な体力消耗をせぬように一日中ゴロゴロしていたようです。

松田・赤井の二人は、明治17年3月26日夜に、看守の隙を見て抜け出して、干潮に乗じて浅瀬を佃島へ渡り、佃島から小舟を使って対岸の築地明石町へ逃げたそうです。(芝居のように、対岸まで泳いで逃げたわけではなかったようですね。) この後、路銀を調達しようと、二人乗りの人力車に乗って本郷に止宿している赤井の弟を尋ねましたが、様子が変なのを車夫に不審がられたため、生かしておいてはマズいと云うことになって車夫を殴殺してしまいました。さらに、獄中の知り合いを尋ねて・お金を借りて、これを分配して、二人は別れて別行動になりました。赤井はこの翌日に板橋宿で捕らえられてしまいましたが、松田はさらに山梨県へ逃れて・そこのお寺で剃髪をしました。約半年後に、松田は静岡県浜松市へ向かおうとして大井川に架かる橋の辺りで捕まりました。捕まった両名は、発覚した車夫殺しの罪で死刑の判決を受けて、翌年・明治18年・1885・7月26日に両名の刑が執行されました。

「佃夜嵐」のなかでは、実説の車夫殺しの件が形を変えて出てきます。しかし、神谷が青木の父を殺した犯人で・青木にとって仇だったとか云う件は芝居の作り話で、実説とは全然異なります。芝居の後半は、実説から離れて自由に創作がされているようです。

ところで、先に石川島監獄と書きましたが、実説の監獄は石川島にあったので、佃島にあったわけではないのです。江戸初期には、石川島と佃島は、まったく別々の島でした。石川島と佃島との間には、葦が生い茂る浅瀬があったそうです。それが後に埋め立てられて、一つの島のようになったのです。さらに現在の佃島は埋め立て拡張されて、大きな島になってしまいました。江戸期の佃島は、現在の「佃1丁目」の佃住吉神社周辺がそれに当たります。石川島監獄は、佃住吉神社の堀を挟んだ北側に位置しており、現在の「佃2丁目」になります。幕末には、ここに幕府が設置した人足寄場(にんそくよせば)がありました。これは寛政2年(1790)に火付盗賊改・長谷川平蔵の建議を受けて設置されたもので、人足寄場とは、戸籍から外された「無宿」(むしゅく)を社会復帰させるための更生施設でした。つまりこれが日本の刑務所の源流となるものでした。この人足寄場が明治になってからも、新政府によって監獄として利用されたのです。(後に明治28年(1895)に、石川島監獄は廃止されて、巣鴨へ移転しました。)

したがって、芝居を見ると外題が「安政奇聞佃夜嵐」となっているし、場名も「佃島寄場」と記されますから、誤解の元になりそうですが、歴史的には、人足寄場が佃島に在ったことはなかったのです。明治になってからの監獄も、石川島監獄と呼ばれました。これを佃と呼ぶのは、まあこれは芝居だけのことだと思えばそれで済む話かも知れませんが、初演の時の田村成義がこれを知らなかったはずがない(「四千両」や「佃夜嵐」のための考証資料はみな田村が収集して・狂言作者に提供したものである)ので、田村が敢えて外題を「安政奇聞佃夜嵐」とした背景には、多分、初演当時の・大正3年(1914)の東京の観客にとって、もはや佃島は大きな一つの島の呼び名であって、石川島と云ってももう誰もピンと来なかったという事情があったかも知れませんねえ。(この稿つづく)

(R4・9・4)


4)肚をしっかり持つべきこと

「佃夜嵐」の島抜け以後の後半部分については、吉之助が見た昭和62年・1987・5月歌舞伎座上演も宇野信夫改訂であるし、今回(令和4年・2022・8月歌舞伎座)も今井豊茂補綴であるので、定本となるべきものは存在しないと云って良いと思います。後半はほぼ自由に創作がされているようです。それにしても青木と神谷の性格が、島抜け前と後では一貫しない(島抜け前には青木の方が肚が据わった印象なのに、島抜け後には逆になる観がある)のが、気になります。神谷が青木の父親を殺した犯人で・青木がずっと探していた仇(かたき)であったと云う筋にも無理がある。二人とも捕縛されて・青木の仇討ちが貫徹されないのもカタルシスがない。幕切れが青木と神谷の罵声の応酬で終わるのも、後味がとても悪い。多分狂言作者が二人とも捕縛されて処刑された史実の脱獄事件の結末に合わせたつもりなのでしょうねえ。そこに固執する必要はなかったように思いますけどね。このため「佃夜嵐」は、作としては中途半端で、結局、「菊吉」(六代目菊五郎と初代吉右衛門)の芸を仕活かすためだけの芝居と云う評価にならざるを得ません。

だから青木と神谷の性格のなかに、「菊吉」の個性の違いが反映されないと、本作は面白くならないでしょう。しかし、上述通り青木と神谷の性格が、島抜け前と後では一貫していない。こうなると「菊吉」の芸の対照も、その場限りの、刹那的なものにならざるを得ません。今回の舞台を見ても、島抜け前の青木は、湯灌場吉三などを思わせて・なるほど六代目の役どころだと感じますが、島抜け後の笛吹川義兵衛住居になると、まるで「佐倉義民伝・甚兵衛渡し」の焼き直しであるせいか、一転、青木が播磨屋向きの役に見えて来ます。本作の役の性格が一貫せぬことは、昔から指摘されていたところで、再演(大正15年・1926・6月歌舞伎座)を見た井原青々園も、

『(島抜けでの初代)吉右衛門(の神谷)は此処でオジけた態度を見せたり、間の抜けた風としたりして、見物は悦ぶが、役の性根はこれがタメに矛盾する。脚本にこう指定してあるなら作が悪いのである。優が愛嬌を売るつもりでこうするなら優が悪いのである。』(井原青々園・「演芸画報」・大正3年10月号)

と書いています。今回(令和4年・2022・8月歌舞伎座)の脚本でも、その欠点は改善されていません。まあそんなところがあるので、今回の、幸四郎の青木・勘九郎の神谷も、さぞ演り難かろうとお察しします。しかし、本作を面白く見せるために、その場その場で・役として一貫せぬとしても、青木・神谷に対照を際立たせることはせねばなりません。つまり、それは見たこともない「菊吉」の芸を想像することでもあります。「菊吉」の向こうを張ってコッテリ芝居を見せる、そう云うことが出来ねばなりません。幸四郎・勘九郎のコンビがそれが出来ていたかと云うと、そこはどうかな?と云う感じではありましたね。二人とも演技のテンポが早く・アッサリした感触に過ぎました。

幸四郎・勘九郎共にテンポが早く・演技がトントンと運びます。それで良いように思うだろうけれど、芝居としてはアッサリ薄味になってしまうのです。「世話物」なのですから、もっとコッテリした味わいが欲しいのです。そこが上手くいけば、青木・神谷の差異も自然に付いてくると思うのですがねえ。このところ何度か「世話」の感触の表出の難しさについて観劇随想で言及しました。世話物「らしく」見せるために演技を「軽い」感覚で処理しようとすると、役の肚(性根)が弱くなり、却って世話のリアリティが失われてしまうことが起きやすいのです。こうなることを防ぐには、丹田に息を詰めて構えることを、時代物よりも、なお一層心掛けねばなりません。「肚」の持ち方がとても大事なのです。同じようなことを、今回の幸四郎・勘九郎クラスにも書かねばならないのは、甚だ残念です。しかし、そこが十分でないから、幸四郎・勘九郎の個性も、活きて来ないのです。

義兵衛住居での、幸四郎の青木での演技を例に取ると、死に際の清次(隼人)の口から、清次に青木を殺すよう仕向けたのは神谷であったこと・神谷が青木の父親を殺した犯人であったことを聞き、青木が怒るところの幸四郎の演技が、まったく通り一遍です。清次の告白を聞いて「エッ」と驚き、青木の脳裏にあの島抜けの時に神谷を背負って一緒に泳いだシーンが蘇る、「見事仇討ちを果たせよ」と言った神谷の笑顔が蘇る、「あれは全部ウソで、ホントはあいつは俺のことを笑っていたのか」とムラムラと怒りが湧いてくる、そのようなシーンが走馬灯のように青木の脳裏を走る。そのような心理プロセスを経て、青木の怒りがジワジワと形を成してくるのです。これを論理的に表出できなければ、いけません。昨今はこう云う演技が「クサい」と思われているかも知れませんが、それは間違いです。いきなり怒っている風を出しても、心理の裏付けが出来ません。結局、肚の裏付けが弱いから、こう云うことになってしまうのです。(このことは7月松竹座・「嫗山姥」での幸四郎演じる坂田蔵人時行で書いたこととまったく同じです。)まあ「佃夜嵐」程度の作ならばどうでも良いことかも知れないけれども、幸四郎・勘九郎ともに、「世話物」は是非ともモノにせねばならない領域なのですから、そこのところお願いしたいと思いますね。大事なことは、しっかりとした肚の持ち様なのです。

(R4・9・7)

(追記)舞台関係者に体調不良者が出たため、19日は公演を中止。幸四郎はコロナ濃厚接触者に該当したため、20・21日を休演。(青木代役は猿之助。)



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