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五代目菊之助の「鏡獅子」

令和3年8月国立劇場:「春興鏡獅子」

五代目尾上菊之助(小姓弥生後に獅子の精)

「尾上菊之助の歌舞伎舞踊入門」、無観客上演映像)


国立劇場制作による「尾上菊之助の歌舞伎舞踊入門」シリーズとして「娘道成寺」と「鏡獅子」の2作がネット配信されました。本稿では、「鏡獅子」の映像を取り上げます。(「娘道成寺」については別稿をご覧ください。)収録時期は、共に昨年(令和3年・2021)8月国立劇場(無観客上演)とのことです。なお本企画は、東京2020オリンピック(コロナにより実施は2021年に延期)を契機として、「日本の美」を国内外に発信する日本博プロジェクトの一環であるそうです。

同時配信の「娘道成寺」映像については、無観客上演とか1時間前後に尺を収めたかったとか・いろいろ事情もあったにせよ、聞いたか坊主のカットや映像上の問題が、これが「娘道成寺」のドラマの本質に絡むところで気になりましたけれども、この「鏡獅子」映像については、カットなしでも1時間内に収まるので、胡蝶の踊りも含めて丸々収録されています。菊之助の踊りに関しては、現時点でひとつの完成形と云える域にまで達したものです。映像は余計な手を加えず・忠実に記録するスタンスに徹しており、後シテの獅子の登場での花道背景が真っ暗なのは是非もないですが、それ以外では気になるところはあまりなかったことを申し上げておきます。

菊之助の「鏡獅子」は、本興行としては令和3年5月歌舞伎座所演が直近のものでした。全体の印象としてその時と変わるところはないけれど、映像で見ると迫って来るせいか、生(なま)の舞台で見るよりも、後シテの獅子に雄々しさが増したように感じられました。まあこのことは、前シテのお小姓(女性)と後シテの獅子(男性)にイメージの落差を付けたい「鏡獅子」(九代目団十郎)の作意に叶ったものであると理解はしますが、これ以上獅子を勇壮に仕立てないように・この辺で留めていただきたいと思うところではあります。吉之助としては、女形舞踊の獅子物舞踊(石橋物)の系譜のうえに「鏡獅子」をしっかりと位置付けてもらいたい。後シテはもう少したおやかであっても良いと思うくらいですが、勇壮な獅子に慣れちゃったご見物は多分それでは満足しないでしょうが。

この件は本サイトでは何度も取り上げたので繰り返しになりますが、初期の歌舞伎では、舞踊は女形が専門的にするものでした。唐伝来の獅子はもともと男のイメージが強いものですから、このままであると女形のレパートリーには出来ません。獅子を女形舞踊のなかに取り込むためには、獅子を女のイメージに変える・或る種の合理化が必要になります。その辺を歌舞伎は、前シテで女の恋の煩悶・執着を描き・その情念を以て後シテの獅子の狂いになるという論理にして切り抜けたのです。こうして獅子物(石橋物)が、「道成寺物」と並ぶ女形舞踊の二大系譜となっていくことになります。(別稿「獅子物舞踊のはじまり」・「真女形の獅子の精」をご参照ください。)「鏡獅子」の前シテ・小姓弥生の踊りの、

「時しも今は牡丹の花の咲くや乱れて、散るわ散りくるわ。散りかかるようで面白うて寝られぬ。花見てあかす花見てあかす。」

という詞章も、元々は初期の「道成寺物」である・初代瀬川菊之丞による「百千鳥道成寺」の歌詞から発したもので、これが「執着獅子」にそのまま取り入れられて、さらに「鏡獅子」へと引き継がれたものです。従ってここから「道成寺」の鐘への恨みと重ねて読むべきとまでは云えませんが、そこに若い娘の恋の煩悶をチラッとイメージしてみても良いかなと思うのですね。その思いが小姓弥生の姿を獅子に変える(ただしこの場合は女の獅子です)と云う論理は、変身の論理としてやや弱いかも知れませんが、「道成寺物」と獅子物舞踊の関連を踏まえるならば、あながちおろそかに出来ぬものだと思うのです。吉之助が「鏡獅子」の前シテをたおやかなイメージに留めてもらいたいと考えるのは、そんな理由からです。

菊之助の前シテ・小姓弥生の踊りについては、無駄な動きがない・コンパクトな踊りで、文句はまったくありません。清楚な印象で、七代目梅幸以来の出来と申し上げて良いと思います。

(R4・4・7)



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