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「熊谷陣屋」のモドリの構造〜芝翫型による熊谷

令和3年11月国立劇場:「一谷嫩軍記」〜御影浜・熊谷陣屋

八代目中村芝翫(熊谷直実)、初代片岡孝太郎(女房相模)、四代目中村鴈治郎(弥陀六実は弥平兵衛宗清)、六代目中村児太郎(藤の方)、二代目中村錦之助(源義経)


1)芝翫型のカブキっぽさ

「熊谷陣屋」には四代目芝翫型と九代目団十郎型があるとは、どの歌舞伎の型の解説本にも書いてあることです。実際、歌舞伎の演技の重要な概念である「型」を考える時、2つの型を比較することは、とても役に立ちます。しかし、制札の見得で芝翫型は制札を上に掲げて持ち・団十郎型はこれを逆さにして三段に突くとか、そういう知識はもちろん大切なことですが、それよりもっと大事なことは、「型の心」と云うことです。これは演出コンセプトと言い換えることも出来ます。制札の見得の形は、そこから来るのです。別稿「型とは何か」では、団十郎型から見た芝翫型(九代目団十郎は芝翫型のどこを変え・何を加えたか)と云う視点で考察しました。本稿では、芝翫型を別視点から考えてみることにします。

芝翫型は、明治期に出来て・現在標準となっている団十郎型よりも以前の、歌舞伎の古い型であり、概ね文楽の型に近いものだと言われます。九代目団十郎が強引に詞章を入れ替えた幕切れの改変がないので、確かにテキスト的に、本行に近いものです。しかし、芝翫型の熊谷を見ると、(熊谷以外の役は兎も角、主役の熊谷に関しては)本行に忠実と云うよりも、むしろ、如何にもカブキ的と云うか・大時代で古風な感触がしないでしょうか。「カブキらしい感触がする」と云うことは、これは「文楽からちょっと離れた感触がある」と云うことなのです。そこが大事なことであると思います。

どうしてそんな印象がするかと云うと、それはまず芝翫型の熊谷の化粧の印象から来ます。黒天鵞絨(びろーど)の着付に赤地錦の裃袴(かみしもはかま)と云うのも確かに大時代な成りですが、これは文楽も同様の衣装です。やはり芝翫型の熊谷の「カブキっぽさ」は、その化粧から来るのです。芝翫型の熊谷は赤っ面で、疳筋を濃く引いた・いわゆる芝翫筋の化粧をします。これが如何にもカブキ的な・大時代の印象を呈するのです。

一方、本行である文楽の熊谷の首(かしら)は、口アキ文七というものを使用します。顔の色としては肌色(または白)が普通で、赤色ではありません。これは主役級に使用される首で、線が太い男性的な顔立ち。太い眉と、カッと見開いた意志的な目、大きな鼻が特徴です。それよりも大事なのは、眉間に深く刻まれた皺と、ぐっと「へ」の字に食いしばった口元。そこにこの人物の内面の深い苦悩と、これに耐え抜く不屈の精神を感じます。時代・世話とも幅広く使用され、敵役にも使われます。口アキ文七を使う役は、熊谷の他に代表的なものとして、「寺子屋」の松王丸、「絵本太功記」の光秀などがあります。

*文楽の熊谷(吉田玉男)。上のチラシの芝翫の熊谷と較べて見てください。

「熊谷陣屋」を歌舞伎に取り入れた時、熊谷の・口アキ文七の首を赤っ面に変えたところが、如何にもカブキらしい発想と云うか、興味深いところではないかと思うのです。それにしても、どうして歌舞伎の・芝翫型の熊谷は、同じ歌舞伎でも松王丸や光秀のように肌色(または白)にしないで、荒事風の・古風な赤っ面となったのかということをじっくり考えてみたいのです。このことは、もしかしたら、歌舞伎の「熊谷陣屋」解釈に深く係わって来ることかも知れません。(この稿つづく)

注:肌色とは、日本人として平均的な肌の色をイメージした薄いオレンジ色のこと。近年は「肌色」という表記は、差別的な意味合いから適切でないということで使用を控える流れですが、本稿では「薄オレンジ」と表記すると・どうも実感が伴いませんので、やむを得ず使用しております。

(R3・11・4)


2)芝翫型のモドリの構図

武士というのは戦(いくさ)をするのが仕事で、人を殺すのをためらっていたら自分の方が殺されてしまいます。情け容赦はならぬわけです。だから「日本一の豪の者」と云われたほどの武者熊谷直実が、花のような優美な若武者を殺してしまったと云って・はらはらと涙し・出家を決意したと「平家物語」が伝えるところは、そこにイメージのギャップがあるわけなのです。このことを「平家物語」は、このように書いています。

「狂言綺語の理とはいひながら、遂に讃仏乗の因となることこそ哀れなれ。」
(現代語訳:まるで作り話のように思われるであろうが、(敦盛を討ったことが)後に熊谷が出家する原因になろうとは、あわれなことであった。)「平家物語」・巻九・「敦盛最後」末尾

「もののあはれ」を知らぬはずの、もしそれを知っていたら戦が出来なくなるはずの、むくつけき関東武士の熊谷が、実は「もののあはれ」を感じる心を持っていた。だからそれは「まるで作り話のように思われるだろう」けれど、これは真実なのだと「平家物語」は言うのです。「一谷嫩軍記」は、このイメージのギャップを謎として取り上げて、なぜ熊谷は敦盛を殺したことで出家するに至ったのかを解明した物語なのです。

吉之助は、芝翫型の熊谷が、赤っ面で疳筋を濃く引いた、如何にもカブキ的な・大時代の化粧をするのは、そこに意図があると考えています。これは単に「日本一の豪の者」の勇壮なイメージを表現したものではない。これは、明らかに敵役(かたきやく)のイメージを背負っています。つまり花のように優美な若武者敦盛を情け容赦もなく殺した無慈悲な男、血も涙もない冷血漢、「もののあはれ」を知らぬ奴と云う、憎まれ者のイメージです。

「熊谷陣屋」では、最初熊谷は、そのような世間からの憎まれ者のイメージを纏って登場します。女房相模も藤の方も、「どうしてあなたはそんなひどいことをしたの・・」という冷たい視線を熊谷に送っています。しかし、首実検で、実は熊谷が殺したのが我が子小次郎だったことが明らかとなります。熊谷は我が子を身替わりにして・主筋の敦盛を助けたのです。ここに至って観客は、「ああそれならば熊谷が出家を決意した気持ちは分かる」と云うことになります。「熊谷陣屋」はそのようなドンデン返しの構図になっているわけです。つまり何のことはない、熊谷についてはそういうことがあまり云われませんが、これは「寺子屋」の松王丸とまったく同じモドリのパターンだと云うことになるのです。

今回(令和3年11月国立劇場)の「一谷嫩軍記」半通しでは、このモドリの構図がはっきりと見えました。まず前幕に「御影浜(宝引)」の場を置き、「熊谷陣屋」では熊谷の登場の前に、普段はやらない「熊谷桜」の端場を付けて、相模・藤の方と、梶原・弥陀六の陣屋への入りを見せる丁寧な上演になっています。さらに今回は芝翫型ですから、最後は主要登場人物全員の引っ張りの絵面で芝居を締める、このことで熊谷のモドリの構図が視覚的にもはっきり確認が出来ました。なるほどそういう解釈で昔の歌舞伎は熊谷の憎まれ者のイメージを強調するために赤っ面にしたのだと云うことが、まことによく分かります。

「熊谷陣屋」を、普段の熊谷の入りからやるやり方で・幕外で熊谷一人が花道を引っ込む団十郎型でやったのでは、熊谷のモドリの構図が明確に浮かび上がって来ないきらいがあります。イヤもちろん目を凝らせば・団十郎型でもそれは舞台に見えるのですが、主人公熊谷の気持ちばかりに焦点が行ってしまう為に、そこのところが観客に見えにくい。ところが、今回の「一谷嫩軍記」半通し(芝翫型)では、作品のモドリの構図が、ホントに素直に立ち現れました。これが今回上演の最大の成果でしたね。(この稿つづく)

(R3・11・6)


3)孝太郎の相模・児太郎の藤の方・鴈治郎の弥陀六

「熊谷陣屋」がモドリの構図を呈する為には、熊谷の妻相模と、敦盛の母であり主筋に当たる藤の方という、二人の女性の役割を、いつもより重めにする必要があります。二人はドラマのなかで熊谷に対立する役です。今回の上演では、前幕「御影浜」で藤の方が陣屋に転がり込む経緯、「熊谷桜」の端場ではるばる東国から相模が陣屋をたずね・さらに思いがけなく藤の方と再会する経緯が描かれますから、この役割が明確になりました。熊谷をめぐって二人の女性がオロオロ取り乱し・嘆き悲しみ・すすり泣く、状況は場面によって立場が入れ替わり・色合いも刻々と変化しますが、そのいずれもが、熊谷が取った行為の無慈悲・不実を訴えているのです。須磨浦(今回は上演されません)で熊谷が敦盛を討ったことが、それがどれほど熊谷夫婦にとって・取り返しの付かない重い行為であったか、これで明らかとなります。「熊谷桜」の端場があるから、観客はこの後熊谷が陣屋に戻ったら一体何が起こるのだろうと不安に思うのです。いつもの「陣屋」の・熊谷の帰着から始まるやり方であると、そこのところが曖昧にされてしまいます。

今回上演では二人の女性が、劇中で芝翫の熊谷に拮抗した印象があって、「陣屋」のモドリの構図が正しく実感できたと思います。特に孝太郎の相模が良い出来です。孝太郎の相模は、これが三回目になります。吉之助は前回(本年・令和3年3月歌舞伎座)の相模に関し若干の注文を付けましたが、今回の相模はその点が修正されて、申し分ない出来です。彫りが深い陰影がある相模に仕上がって、これならば第1級の相模であるといって差し支えありません。児太郎の藤の方も気品があって、ひと廻り上の世代のなかにいて見劣りしない立派な出来で感心しました。いつもの上演ではダレ場になりやすい「青葉の笛」も引き締まったいい場面になりました。二人の女形の健闘は、頼もしいですねえ。

もうひとり、直接的に熊谷と対立する役ではありませんが、モドリの構図を元に戻すために(身替わりの小次郎を歴史のなかに収めるために)劇中で大きな役割を果たすのが、弥陀六(実は弥平兵衛宗清)です。弥陀六は老人なれど気骨ある人物に描かれることが多いと思います。これはいつもの「陣屋」の・前半で弥陀六が陣屋に連れて来られる経緯を出さないやり方であるならば、そのように描かなければ、後半の義経に詰め寄る長台詞のスケール感が出せません。しかし、今回のようにチャリ場の「御影浜」から出すならば、弥陀六を飄々とした味を出す老人として描くことは、あり得ることだと思いますね。そこで鴈治郎の弥陀六ということになるわけですが、柔い印象もしなくはないけれど、肝心の・長台詞のタテ言葉は頑張って熱いところを見せてくれました。なかなか良い弥陀六に仕上がったと思います。(この稿つづく)

(R3・11・7)


4)錦之助の義経

錦之助の義経について、前回(本年・令和3年3月歌舞伎座)の舞台に関して、吉之助は苦言を呈しました。今回も陣屋奥から義経が現れた時には、やはり武張った印象がして如何なものかと思いました。これが団十郎型であるならば吉之助としてはなお是とするわけに行きませんが、今回の錦之助の義経は、首実検を終えた後、ホッとしたように硬い表情を解く様子が見えて、今回の芝翫型の、敵役・憎まれ役を装ったモドリの熊谷を相手にするのであれば、ナルホドこういう義経もあり得るなと思ったことでした。そこまで錦之助が考えたのであれば、これを是としたいと思います。義経は、

「ヤア直実首実検延引 といひ、軍中にて暇を願ふ汝が心底いぶかしく密かに来りて最前より、始終の様子は奥にて聞く。急ぎ敦盛の首実検せん

と言っています。ここで若武者敦盛を情け容赦なく殺した無慈悲な男と云う、世間の憎まれ者の熊谷のイメージがリフレインされています。熊谷が敦盛を討ったという報はとっくの昔に義経に届いている、それなのに熊谷はいつまでたっても義経の元に首を届けに来ない、さらに熊谷から暇願いが提出される、ここに至って義経は熊谷の心底に疑念を抱いて、密(ひそか)に熊谷の陣屋に確認にやってきたのです。そういうことならば、陣屋奥から現れた義経が、不審いっぱいの硬い表情で「急ぎ敦盛の首実検せん」と急かすのは、これは理解できます。もし熊谷が本当に敦盛を討ったのであれば、これは義経にとっても一大事です。熊谷を信じてはいるが、一抹の疑念が義経の脳裏をよぎります。しかし、首実検で・間違いなくこれが小次郎の首であることを確認した義経はすべてを悟って、熊谷に対する疑念を捨て、ホッと息を付いたというのは、確かにあり得る解釈です。まあこれは吉之助がいつもの「熊谷陣屋」論で述べる義経=菩薩論とはまったく異なりますが、生身の人間として見た義経解釈とでも云いましょうか。しかし、解釈としてはあり得るだろうと思いますね。もちろんこれは熊谷が憎まれ者のモドリ(芝翫型)であることが前提です。(団十郎型での首実検の意味については、別稿「熊谷陣屋の時代物の構造」を参照ください。)

実は既に奥で義経は敦盛と対面しており・熊谷が息子を身替わりにしたことは義経は分かっているのです(このことは「始終の様子は奥にて聞く」の台詞で暗示されています)が、とりあえず・このことは置くことにします。なぜならば首実検に臨む熊谷の方は必死だからです。熊谷は、

「花によそヘし制札の面。察し申して討ったるこの首。御賢慮に叶ひしか。但し、直実過りしかサ御批判いかに」

と言っています。ここで息子の首を義経に受け入れてもらえなければ、熊谷の行為は水泡に帰するのですから、首実検に臨む熊谷は必死です。実検の首を見てすがりつこうとする相模を睨みつけて止めるのも、ここは当然です。したがって、

「ホヽヲ花を惜む義経が心を察し、アよくも討ったりな。敦盛に紛れなきその首。・・」

という義経の声を聞くまでは、熊谷は憎まれ者のポーズを解くわけに行きません。モドリという役どころは、「この人だけは自分の本心を分かってもらいたい」と心底思う相手から、「そうか分かったぞ、お前の本心はそう云うことだったのだな」という言葉を掛けてもらうことで、初めて敵役・憎まれ者のポーズを解くことが出来るのです。と云うわけで吉之助は、今回の錦之助の義経は、芝翫型の・憎まれ者の熊谷のモドリの段取りに照応したものであると受け取りたいと思います。(この稿つづく)

(R3・11・7)


5)芝翫の熊谷

熊谷についてはモドリということがあまり云われませんが、それは熊谷という人物が持つ葛藤がひとつのパターンにはめるには余りに大きく複雑に過ぎるためです。それならば近代演劇思想によって奥行きを持った心理表現を追求する方が相応しいわけで、明治期に団十郎型が生まれた背景がそこにあるのです。しかし、ドラマが熊谷個人の思いにいささか寄り過ぎたかも知れませんね。そこで改めて「熊谷陣屋」をモドリの構図で見直してみると、現代から見れば大雑把なパターン思考に思うかも知れませんが、これであると相模・藤の方・弥陀六・義経といった周囲の人物がみんなドラマの太い骨格にぴったり沿ってくるように思えるのです。芝翫型においては、作品が持つ歴史の律の重みは、これを登場人物たちが等しく背負います。幕切れの・引っ張りの絵面の舞台が、このことを示しています。江戸期の人々は「陣屋」のドラマをそのように受け取めたのです。

そこで今回(令和3年11月国立劇場)の芝翫型の熊谷をモドリの構図で見ることにします。芝翫の熊谷は3回目で、襲名(平成28年10月歌舞伎座)以来、5年振りのことです。今回の・久しぶりの熊谷は「自分の型だ」ということで一段と気合いが入っていますし、今回の脚本は前幕に「御影浜」の場を置き・「熊谷陣屋」も普段はやらない「熊谷桜」の端場を付ける丁寧な上演で、バランスが取れた共演陣と相まって、これが芝翫型の良さを一段と引き出す結果になったと思います。

それにしても、芝翫の熊谷の熱演振りを見ると、あまり細かい心理描写に固執せず・役の大きさを大まかに掴んで演じた方が、芝翫の良さが出ると改めて感じます。太い演技で押し通した箇所は、多少荒っぽいようでも芝翫の良さが生きています。褒めているのか・貶しているのかと思うかも知れませんが、今回の熊谷にさほど不満があるわけではないのだけれど、首実検を終えるまでのところ・つまり憎まれ者のポーズを取る前半において、熊谷の葛藤を細やかに見せようとして、熱演の余り、芝翫型の熊谷の良さ(演技の骨太さ)を損なうところがあったやに思います。心理描写の細かいところにこだわらず、前半は・モドリの性根で太く押し通した方が、芝翫型の意図がもっと明確に浮かび上がると思います。

心理の綾を細やかに表現することは、役の深みを増す効果がもちろんあります。ただし、モドリの場合であると、これが過ぎると「実は私は敵役のフリしてるんです」というネタ晴らしになってしまう、敵役の性根を軽く見せることになるので、そこは注意せねばなりません。事実、今回の芝翫の熊谷の所作を見ると、熊谷の葛藤を意識した箇所は、自然と団十郎型に似てくる感じで、そこが中途半端に思えるのです。団十郎型との差異をより際立たせるために、そこはモドリの性根で太く押し通した方が良いと云う印象を吉之助は持ちますがねえ。(この稿つづく)

(R3・11・11)


6)団十郎型の批判型としての価値

要するに、芝翫型は団十郎型以前の古い型ではあるが、団十郎型がスタンダードとなっている現在、芝翫型を復活して出す意義は、それが古風で様式美に溢れていると云うところにはない。これが団十郎型の批判型になっているか否かという点にあるのです。団十郎型に慣れ親しんだ我々が、久しく忘れていた「熊谷陣屋」の別の側面を、芝翫型があぶり出せるかと云うことです。(結果として批判型は、団十郎型の新しさを再認識させることにもなります。)「陣屋」をモドリの構図で大掴みに捉えることで、登場人物全員が「平家物語」の諸行無常の主題を唱和して終わる、これが「陣屋」の本来の形なのです。団十郎型との差異を如何にはっきり見せるかという点に、芝翫型を復活して出すことの意味が掛かっているのです。

誤解がないように付け加えますが、吉之助は今回(令和3年11月国立劇場)上演にそれが出来ていないと言っているのではありません。成果は十分挙げられています。これから吉之助が指摘することは、恐らく今回の舞台だけ見る分にはどうでも良いことです。大したことではないのです。しかし、吉之助が指摘する箇所は団十郎型へ寄って見えるところで、つまりそれは熊谷個人の心理の綾(葛藤)を意識した箇所なのですが、どうしても表現ベクトルが団十郎型と同じ方向に向いてしまう、結果としてこれが団十郎型との差異を埋めることになってしまう。だからそこに再考の余地があると云うのです。

例えば熊谷が揚幕から登場し花道七三で立ち止まり・数珠を袖に収めて三味線のチンで決まる、この箇所は団十郎型と突きますね。もっとアッサリ処理した方がよろしい。熊谷桜と制札前で立ち止まるのも、控えめにした方が宜しい。これらは底を割る箇所だと心得て欲しいと思います。

物語りは勢いがあって、なかなか面白く出来ました。「心に掛かるは母人の御事」辺りで相模を気に掛ける様子を見せないのは、モドリの性根を維持するうえで結構なことでした。(逆に団十郎型をやる役者は、ここで相模への心遣いが足りないのが実に多い、これも困ったことなのですが。)しかし、「討ち奉ってございます・・・エエ戦場の習れエだわエ」では、泣きが強くて台詞の末尾が伸ばし過ぎで、これは困ります。

首実検は制札の見得も含めてなかなか良いですが、義経に首を差し出す時の高さが高過ぎるのではないか。このため義経(錦之助)が扇を構えて首を見る形が悪くなり、義経の視線と扇・首が一線に揃っておらぬようです。義経が良い形を取れるように、首を差し出す高さをもっと下げた方が良いです。自分(熊谷)の気持ちばかりに気が行っているように見えます。首実検が終われば、熊谷はモドリの性根を解くわけですが、熊谷が小次郎の首を抱いて・相模に直接手渡す場面は情が溢れて、なおかつ団十郎型との違いもよく出て、よく考えられた型だと思います。ここが今回の芝翫型の白眉でしたね。

有髪の僧になってからの熊谷の「十六年はひと昔、夢であったなあ」は、台詞の末尾をあまりに詠嘆調に伸ばし過ぎです。これを団十郎型で幕外花道でやるならば兎も角、それでも感覚的には二倍以上長いと思いますがね。熊谷の核心の台詞だという・団十郎型の残渣が強く残っているから、こうなってしまうのです。この後に〽ほろりとこぼす涙の露、柊に置く初雪の日影に融ける風情なりと床(義太夫)が続くことの意味を考えれば、ここで台詞の末尾を引き伸ばしてはならないことは、自ずと明らかなのです。

それから熊谷が義経に「堅固で暮らせよ」と声を掛けられて、バタンとその場に倒れるのかと思うように突っ伏すのも、如何なものかと思います。義経と熊谷との関係は、もう主従ではありません。熊谷は蓮生法師としての歩みを始めているのですから。芝翫型のクライマックスは、「花を惜めど花よりも、惜む子を捨て武士を捨て、すみ所さへ定めなき有為転変の世の中じゃなあ」と云う、義経を頂点とする全員の六重唱の割り台詞にあります。芝翫型では(団十郎型と較べると)熊谷が奥に引っ込んで他の人物たちと同じ大きさになってしまう感覚になりますが、ここが「陣屋」本来の頂点である、このことをはっきり示さなければなりません。

以上気付いたことを連ねましたが、今回の国立劇場の「熊谷陣屋」は「御影浜」も含めた丁寧な上演で、団十郎型の批判型たる芝翫型の価値を改めて認識させてくれたと思います。成果は十分挙がったと思います。芝翫にはこの型を今後も大事に守って欲しいと思います。

(R3・11・12)



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