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十代目幸四郎の左衛門と孝太郎の薄雪姫

令和2年3月歌舞伎座:通し上演「新薄雪物語」〜「花見」

十代目松本幸四郎(園部左衛門)、初代片岡孝太郎(幸崎息女薄雪姫)、八代目中村芝翫(奴妻平)、三代目中村扇雀(腰元籬)、三代目中村又五郎(団九郎)、五代目中村歌六(秋月大膳)

(新型肺炎コロナウイルス防止対策による無観客上演映像)


本稿で取り上げるのは、令和2年(2020)3月歌舞伎座での通し上演「新薄雪物語」から「花見」の無観客上演舞台の映像です。まず舞台総体としては、配役バランスもまずまず取れていて、この顔触れでこのくらい出来ればと思うレベルには十分達しているので安心しました。このことを認めたうえで、感じたところを綴ってみたいと思います。

まず幸四郎の左衛門は、幸四郎ならばさもありなんと思える優男です。悪くない左衛門ではありますが、歌舞伎での左衛門はこんな感じに優男に仕立てる傾向があって、どうも印象が柔くて頼りない。もうちょっと芯のある男の強さがあっても良いのではないかと思いますねえ。こう云うことを書くのは、別稿「十代目幸四郎が進む道」で触れた通り、これから線の太い時代物の役々をものにしていかなければならぬ「幸四郎」にとって、こういう柔い印象の左衛門は決して良いと思えないという考えから来ます。だからこれ自体は悪くない左衛門ではあるにしても、「幸四郎」がやる左衛門としてはどうかなと云うことを問いたいのです。

左衛門は、清水寺の花見の場で薄雪姫から熱烈な求愛を受けて・相思相愛の関係になるわけですが、実は最初は左衛門の方に強いためらいが見られます。「覚えなき身に浮名を立てられ、互ひの難儀になるまいとはいはれぬ」と左衛門は一旦は拒否しているのです。薄雪姫が自害するポーズを見せたところで、これを制止した左衛門が「こうなったら仕方がない」と覚悟を決めて結局求愛を受けるわけですが、左衛門は決してなし崩し的によろめいたわけではないのです。ちなみに「よろめく」とは昭和30年代の三島由紀夫による古い流行語で・誘惑に負けて倫理的に持ち崩すというような意味合いですが、左衛門にそう云う感じはありません。このことはとても大事な点です。ところが歌舞伎の左衛門の印象は、他動的で頼りない。薄雪姫からの不意の求愛を受けてフラッとよろめいたように見えかねません。同じような役柄に「妹背山」の久我之助がありますが、久我之助や左衛門をこのような優男(金と力はなかりけり)の類型的パターンで読もうとするのは、歌舞伎の悪い癖だと思います。

別稿「久我之助から見た吉野川で論じた通り、雛鳥が女の道(婦女庭訓)に死すのと同じで、久我之助も男の道に殉じて自害するわけです。そう云う男の強さを歌舞伎の「吉野川」の久我之助にあまり感じないかも知れませんが、本来の久我之助はもっと凛とした男の強さを備えています。久我之助のそこに雛鳥は惚れると考えた方が良いのです。男の道をしっかり持っているのは「新薄雪」の左衛門も同じことで、今回の通しでは出ませんけれど「鍛冶屋の段」で左衛門は大膳の非道の証拠をつかみ・後に六波羅へ訴え出ることになるわけなので、左衛門だってやる時にはやる男なのです。ところが、丸本と違って歌舞伎の「鍛冶屋」には左衛門が登場しませんから、やっぱり歌舞伎には左衛門を頼りない優男のイメージに留め置きたい意図があるのでしょう。まあそこに歌舞伎の美学があるのかも知れませんが、しかし、このままだと後の「園部館(合腹)」で陰腹まで切って子供たちを護ろうとする二人の父親の行為まで何だか柔くセンチメンタルに映りはしませんかねえ。そう云うわけで幸四郎の左衛門は確かに歌舞伎の美学に沿ったものかも知れませんが、優美な印象が先立ち過ぎで、もうちょっと線を太く取った方が義太夫狂言の骨法にはしっくり来ると思います。

ところで本年2月歌舞伎座の「菅原・加茂堤」の観劇随想で、「穏やかな春の日差しは暖かいけれど、顔を撫でる風はまだ冬の冷気を残してひんやり冷たい。そして春は、天候がコロコロ変りやすい。あんなに暖かだったのが一天にわかにかき曇り、急に雨が降り出したりするものだ」と書きましたが、この春のイメージは芝居ではとても大事です。「新薄雪・花見」の春もまた、そんな日なのです。若い男女が健康的な恋の喜びに浸っている傍らで、邪悪な陰謀が着々と進行しており、突然牙を剥いて彼らに襲い掛かります。陰謀は彼らとまったく無関係なものなのですが、世に「月に叢雲(むらくも)華(はな)に風」と云う通り、まるで彼らが陰謀を引き寄せたかのように見えて来るのです。大膳たち悪人どもは、薄雪姫の甘い花の香りに引き寄せられた毒虫のようなものです。その危険な甘い香りを振り撒いたのが薄雪姫です。

別稿「宿命の恋の予感」で触れましたが、薄雪姫が「刃の画の下に心の字」を色紙に書いて左衛門に渡します。薄雪姫は「忍べ」のつもりで書いたのですが、大膳はこれを「刃に下心あり、天下調伏の企てだ」と断じました。これは大膳の読み方が曲解とは必ずしも言えません。健康的な恋する乙女から「刃」の発想が出ると思えません。この恋が拒否されるなら私は死んでしまいそうだ・あるいは自分が自分でなくなってしまいそうだという危うい気持ちがあるから「刃」の発想が出て来るのです。薄雪姫のなかに恋の懼(おそ)れ・慄(おのの)きがあるから、彼女は「刃」の画を描いてしまうのです。だから薄雪姫の恋は、決しておぼこい恋ではないのです。大膳はそこを付け込んだのです。薄雪姫の心のなかの危険な香りを嗅ぎつけたのです。だから親たちは大膳に抗弁出来ないことになります。

そこで孝太郎の薄雪姫ですが、技量はしっかりしているので・勤めるところは神妙に勤めて・良い薄雪姫であるけれども、欲を云えば危険な妖しい匂いがもっと欲しい。薄雪姫のなかの恋の懼れ・慄きを感じさせて欲しいのです。実はこれが「新薄雪・花見」に最も必要なものです。或る部分において腰元籬と分担する感覚ですが、薄雪姫にこれがないのでは始まりません。こう云う要素は女形がただ内輪に・恥じらいを以て演じていたのでは決して出せませんから、これは背反する要素なのだけれども、立女形と呼ばれるような名女形はみんなこの要素を兼ね備えているものなのです。孝太郎もそろそろその段階を狙ってもらいたいですね。

歌六の大膳は、国崩しの大きさに於いてどうかなと観る前は思ったけれど、立派なものです。悪の凄みは十分で、これにほんのり色気が加われば更に良しです。芝翫(奴妻平)と扇雀(腰元籬)・又五郎(団九郎)もそれぞれの役を手堅く勤めてバランス良く、まずは「新薄雪・花見」は安心して見ていられる出来でありました。

*令和2年3月歌舞伎座:通し上演「新薄雪物語」〜「詮議・園部館(合腹)」の観劇随想もご覧ください。

(R2・4・28)




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