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かぶき的ではないが、詩的ではある「二人静」

令和元年10月歌舞伎座:舞踊「二人静」

五代目坂東玉三郎(静御前の霊)、六代目中村児太郎(若菜摘)、九代目坂東彦三郎(神職)


今回(令和元年10月歌舞伎座)で上演された舞踊「二人静」は、世阿弥作と伝えられる謡曲「二人静」を玉三郎が補綴して歌舞伎舞踊に仕立てたものです。補綴と云っても加筆はなく、原作詞章を多少カットして流れをシンプルに仕立てた程度のものだそうです。ほぼ原作に近い台本のようです。

謡曲「二人静」と云うと、二人のそっくりの静御前が登場して舞うと解説している文章を時折見掛けますが、正確にはそうではありません。吉野勝手神社の正月七日の神事のために若菜を摘みに出た乙女が、菜摘の里で或る不思議な人物に出会います。この体験を神職に語るうちに、静御前の亡霊が乙女に乗り移ります。神職は乙女の様子の変化に驚きますが、憑依したのが静御前だと見定めて、舞衣を与えて舞いを所望します。この場で舞っているのは乙女一人なのですが、神職には乙女が舞う姿が眼前に静御前が舞っているかのように思われるのです。次第に乙女と静御前の面影とが二重写しになって見えて来る、それで二人が踊っているように感じられて来るわけで、だから「二人静」なのです。能の舞台でシテ(静御前の亡霊)とツレ(若菜を摘みの乙女)が同じ衣装を着けて同じ舞いを見せる(相舞)のは、そのような心霊現象を視覚的に観客に実感させるためにそうしているのです。それにしても世阿弥は人間心理の不思議な作用を細やかに描いて現代心理学にも通じるような考察を見せて、世阿弥は冷静なリアリストであるなあと感嘆してしまいます。

ところで「吾妻鑑」を見ると、史実の静御前は、源義経が京を落ちて後、各地を転々としましたが、吉野山(大峯山)までは同行し、吉水院で義経と数日を過ごしました。しかし、当時の吉野山は女人禁制であった為それ以上先へ行くことが出来ず、泣く泣くそこで分かれてウロウロしている間に吉野の僧兵に捕まって、静は鎌倉に送られました。頼朝に鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを命じられ、「しずやしず しずのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」と謡って頼朝を激怒させたというのは、有名な話です。当時静は義経の子を身ごもっていました。生まれた子は男子であったので無情にも殺されて、その後、静御前は母磯禅師とともに京に戻されました。その後の静の消息は不明ですが、静の終焉の地は全国各地に数多く伝承されているようです。

*写真は、静御前が吉野で数日を過ごした吉水院((現在の吉水神社)。写真下は潜居の間。つまり「義経千本桜」の河連法眼館のモデルが、ここです。(別稿「谷崎潤一郎・「吉野葛」の世界・その4:狐忠信」を参照ください。)

能には、亡霊が登場する夢幻能というジャンルがあります。例えば旅の僧(ワキ)が名所旧跡を訪れると、ある人物(前シテ)が現れて、その土地に伝わる逸話を語り始めます。その後その不思議な人物は姿を消しますが、実はその人物はその逸話に関わるとても重要な霊的存在が姿を変えて現れたものです。後半では先ほどの人物がその本来の姿を現し再び登場して(後シテ)、クライマックスでは舞いを舞って供養を頼んで消えていきます。

「二人静」では後シテとツレとが重なるので、これが夢幻能か現在能かよく分からぬ仕立てになっていますが、前半の舞台である菜摘の里が、静御前に何か深い関わりを持つ土地であることは明白です。二年前に吉之助は吉野周辺を旅行しましたが、菜摘の里には、静御前が吉野のから菜摘の里に逃げ落ちて・この地で没したという伝承があるそうです。この地には静御前が残したと云う「初音の鼓」も伝わっています。(別稿「谷崎潤一郎・「吉野葛」の世界・その3:二人静」を参照ください。谷崎の小説「吉野葛」のなかにも言及があります。)世阿弥はこの伝承を知っていて、菜摘の里を「二人静」の舞台に選んだに違いありません。

「二人静」では、勝手明神の神主が女に神事に使う若菜を摘ませる為に行かせる場所が、菜摘の里です。「吉野町史」に拠ると、菜摘(なつみ)の音は、 もともと「ナは魚群(なむれ)のナで、ミは平地(ひらみ)、窪地(くぼみ)のミ」ということであったそうで、本来、ナツミとは魚を採るのに適した窪地という意味なのです。それがいつの頃からか菜摘の表記へ転化しました。

*写真は、窪垣内に向かうバスの車窓から見た菜摘の里辺り。手前の流れが、吉野川です。「二人静」では菜摘川という名前で出てきます。

後半の吉野勝手神社で静御前の霊が述懐するいくつかの思い出話は、ブツブツ途切れた断片的なものです。それは走馬灯のように静御前の霊魂のなかに去来する幻影なのです。

地謡「むかし清見原の天皇、大伴の皇子に襲はれて。彼の山に踏み迷ひ。雪の木陰を。頼み給ひける桜木の宮。神の宮瀧。西河の瀧。我こそ落ちゆけ。落ちても波は帰るなり。」

現代語訳:その昔天武天皇が(壬申の乱で)大伴の皇子に襲われて、この吉野山にお隠れになった桜木の宮、また宮滝や西川の滝の当たりを私は逃げて行きました。あの滝と同じように私も落ちて行くけれども、滝の浪は元へ跳ね返るもの。私も義経公の元に帰ることが出来るのだろうか。しかし、それは叶わぬことなのです。

この辺り、静御前の逃避行の、恐ろしさ・不安さがよく出ていますねえ。静の霊の述懐に、宮滝など菜摘周辺の名勝が読み込まれています。「二人静」の静御前は吉野の吉水院を出て・山を下りて吉野川をさか上り、さほど遠くない菜摘の里に逃げ落ちたのでしょう。

地謡「騒がしき三吉野の。山風に散る花までも。追手の声やらんと。跡をのみ三吉野の奥深く急ぐ山路かな。」

現代語訳:吉野の山風に散る花までも騒がしく感じられ、追手の声かとただ恐ろしく、後ろを振り返っては奥深い山路を急いだのでした。

ここで突然、静御前の霊は、源頼朝の前に召しだされて白拍子の舞を踊らされた悔しい思い出を語り始めます。しかし、その前に静が追手に捕まって鎌倉に送られた経緯の述懐が見当たりません。「二人静」の静御前は鎌倉方から開放された後、再び菜摘の里に落ち着いてここで没したと云うことでしょうかねえ。まあ細かいことを考えても仕方ないことで、能の後シテの述懐には時系列の矛盾はよくあることです。ただし、史実の静御前を調べると、吉水院を落ちた静は吉野の僧兵に捕まった後、彼らに強要されて吉野勝手神社の境内で舞を舞ったことが記録されています。世阿弥が「二人静」の後半でシテとツレが連舞する場所を勝手神社にしたのは、ここに根拠があるわけです。したがって、「二人静」の静の霊の白拍子の舞の述懐は、勝手神社の思い出なのか、それとも鎌倉鶴岡八幡宮の思い出か(頼朝の面前であるならばこちらと云うことだろうが)、或いはふたつの別箇の記憶が静御前のなかで混ざり合っていると考えて良いかも知れませんねえ。

勝手神社は吉水院からほど近い吉野山中腹に位置します。昔は山口神社とも呼ばれて、霊場吉野山(大峯山)の入り口とされていた神社でした。勝手神社から先の、吉野山の上千本・奥千本が、女人禁制の聖地とされていたわけです。(なお勝手神社の本殿は平成13年(2001)に不審火で焼失して未だ再建されておらず、現在は跡地のみです。勝手神社の御神体は現在吉水神社に預けられています。二年前の吉之助の吉野旅行のレポートに勝手神社の写真がないのは、そのせいです。)

地謡「それのみならず憂かりしは。頼朝に召し出され。静は舞の上手なり。疾々と有りしかば。心もとけぬ舞の袖。返すがへすも怨めしく。昔恋しき時の和歌。賎やしづ。賎やしづ。賎の苧環。くりかへし。昔を今に。なすよしもがな。思ひ返せば古へも。思ひ返せば古へも。恋しくもなき憂き事の。今も恨みの衣川。身こそは沈め。名をば・しづめぬ。武士の。」

現代語訳:「それよりも辛かったことは、頼朝に召しだされて、静は舞の名手であろう、早く舞えと云われて、心ならずも舞わねばならなくなったことでした。返す返すも恨めしく、昔恋しい義経公への気持ちを詠んだ歌を謡いました。「しずやしず しずのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」 思い直してみれば、過ぎ去ってしまった昔を恋しがることももはやなく、残念ながら義経公が奥州衣川で自害なされたが、武士としての名声は揺るがぬに違いない。

ところで別稿「本行に対するリスペクト」でも触れましたが、明治から大正期の松羽目舞踊には、能狂言に対する歌舞伎の若干のコンプレックスが入り混じった憧れから来る、独特のフォルムがそこに見えます。これを一言でいえば、本行の品格・品位と云うべきです。これはこの時代の歌舞伎が是非とも手に入れたかった要素でした。当時の歌舞伎には下賤な芸能だという自意識がまだ根強くありました。だから能狂言の品格を借りて歌舞伎も高尚化しようという意図・と云うか下心なのです。しかし、能狂言そっくりそのままの舞台では歌舞伎化の意味はないわけです。かと云ってあまり写実化・具象化が過ぎると、今度は舞台が俗っぽく下卑て来る。そこの兼ね合いが難しいのですが、そこで縛りとなる大事なことが本行に対するリスペクトと云うことです。しかし、現代の歌舞伎役者には能狂言に対するコンプレックスなんて言っても「エッ?」かも知れないので、だから現代での能取り物はなかなか難しいことになります。

 そこで今回(令和元年10月歌舞伎座)の新作舞踊「二人静」のことですが、玉三郎は本行に対するリスペクトはもちろんのことですが、感覚的に親和性も持ち合わせている役者だと思います。しかし、ハイブロウな役者ですから、歌舞伎の美学にすんなり収まり切れないところがあります。だから「二人静」が歌舞伎らしいものにならないことは、当然予想出来たことですが、さすがに玉三郎(静御前の霊)と児太郎(若菜摘)の連舞は透明感があって美しく、詩的な趣きがしますねえ。生きていた頃の、悩みも苦しみも生(なま)なものはすべて、時の流れのなかで浄化されてしまうと云う、そこに玉三郎のセンスが生きています。

ハイセンスな美しい舞台面ですが、それにしても歌舞伎なのですから、「娘道成寺」ほど世話に砕く必要はないにしても(出来ればそのくらいやってもらいたいものだが)、もう少し工夫があっても良かったかも知れませんね。静御前の霊が花道スッポンから登場するからこれは歌舞伎ですと云う感じに見えます。これでは「二人静」が歌舞伎舞踊であることの必然がいまいち見えて来ません。能の場合は後シテとツレの連舞がまったく同じ振りですが、歌舞伎の場合は静御前の霊と若菜摘の振りは必ずしも同じ振りでなくて良いのではないでしょうか。玉三郎には「京鹿子娘二人道成寺」の例もあることですし、同じ発想で思い切って二人の振りを違えてみた方が、変化が出て面白さが増したように思いますが。

*吉野の写真は平成29年2月、吉之助の撮影です。
「二人静」の現代語訳は吉之助の意訳です。

(R1・10・14)


 

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