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谷崎潤一郎・小説「吉野葛」の世界・その3:二人静

*「谷崎潤一郎・「吉野葛」の世界・その2:釣瓶鮓」の続きです。

*団十郎菊五郎在りし日のわが母よ〜谷崎潤一郎・「吉野葛」論の関連記事です。


吉野川の流れを右に取って遡り、「私」と友人津村は、大和上市から宮滝、菜摘へとさらに歩を進めます。この辺から吉野川はクネクネと大きく蛇行してきます。菜摘の里とは、謡曲「二人静」に歌われている菜摘川の岸のことで、「菜摘川のほとりにて、いずくともなく女の来たり候て」と謡曲にあるのが、 実はこの地です。「吉野町史」に拠ると、菜摘(なつみ)の音は、 もともと「ナは魚群(なむれ)のナで、ミは平地(ひらみ)、窪地(くぼみ)のミ」ということであったそうで、本来、魚を採るのに適した窪地という意味なのです。それがいつの頃からか菜摘の表記へ転化して 行きます。「二人静」では、勝手明神の神主が女に、神事に使う若菜を摘ませる為に行かせる場所が菜摘の里になっています。 若菜を摘む女の傍に、もうひとりの女が現れます。これが静御前の亡霊です。写真は窪垣内(くぼがいと)へ向かうバスの車窓から吉之助が撮った菜摘辺りの吉野川の流れです。向こうの川岸が菜摘の里になります。

『謡曲ではそこへ静の亡霊が現じて、「あまりに罪業の程悲しく候へば、一日経書いて賜れ」と云う。後に舞いの件になって「げに耻(はづ)かしや我ながら、昔忘れぬ心とて、・・・今三吉野(みよしの)の河の名の、菜摘の女と思うなよ」などとあるから、菜摘の地が静に由縁のあることは、伝説に根拠があるらしく、まんざら出鱈目ではないかも知れない。大和名所図会(ずえ)などにも、「菜摘の里に花籠の水とて名水あり、また静御前がしばらく住みし屋敷趾(あと)あり」とあるのを見れば、その云い伝えが古くからあったことであろう。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

史実に拠れば、静御前は冬の吉野で義経と数日間過ごしたそうです。しかし、当時の大峰山は女人禁制であった為、山にそれ以上留まることが出来ず、泣く泣く義経と別れたところで 、静は鎌倉方に捕らわれて、鎌倉へ送られました。しかし、どうやらこの土地の伝承では、静御前は菜摘の里まで逃げてきて、この地で没したことになっているようです。これも興味深いことです。

この後、「私」と津村は、菜摘の里にある大谷家という旧家に所蔵されている初音の鼓を見に立ち寄りますが、吉之助は時間がなかったので、菜摘を通過して、その先にある窪垣内でバスを降りました。(初音の鼓については次回に触れることにします。)窪垣内(くぼがいと)は、吉野川が大きく蛇行してほとんどUターンする、その突端の窪地に位置する集落で、吉野紙など手漉き和紙の産地として古くから 知られている地でもあります。



「吉野葛」では、若くして亡くなった津村の母が窪垣内の出身ということになっています。津村は、母がこの地で紙漉きを営む実家から大阪へ出たらしいということを突き止めて、それで奥吉野の旅行に「私」を誘ったということを告白します。小説は、これ以降、津村の亡き母 への思慕と、そのルーツ探しの様相になって行きます。それにしても大和上市の駅からバスで30分くらいの所なのですが、ずいぶん遠くへ来ちゃったような気がしましたねえ。 下の写真は、吉野川の川岸から窪垣内の集落を望む。



窪垣内には大海人皇子にまつわる伝説もあって、この辺りは謡曲「国栖」の地でもあります。しかし、小説の筋が狐と津村の母親の線へ集約されていくので、小説「吉野葛」では大海人皇子の伝説にはあまり触れていません。吉之助は上市町の観光案内所に紹介していただいて、窪垣内の福西和紙本舗の仕事場にお邪魔して、 この地に長い伝統を持つ手漉き和紙の作業を見学させていただくことができました。寒い冬場に紙を梳く作業は、厳しいことだなあとお察しをしました。最盛期の明治末に150戸ほどあった生産者は、今では一桁にまで減少しているそうです。しかし、吉野紙は日本の貴重な文化財の修復の修復になくてはならない大事なものだそうです。いつまでも古き良き技術を守っていただきたいと思います。 (福西和紙本舗については、国栖の里観光協会のサイトをご覧ください。こちら。)



ところで「吉野葛」発表前年(昭和5年)に谷崎は、当時のことなのでもう徒歩ではなく、T型フォードの自動車に乗って奥吉野へ取材旅行に出かけたようです。谷崎が窪垣内 の地を訪れたのは、多分、その年の11月のこと だったと思われます。県道から国栖小学校への道へ入ると、坂道の途中の高台に、谷崎の文学碑がひっそりと建っていました。谷崎はここら辺りから、窪垣内の集落を眺めたのでありましょうか。(この稿つづく)



*写真は吉之助が、平成29年2月6日に撮ったものです。

*続編:谷崎潤一郎・「吉野葛」の世界・その4:狐忠信もご覧ください。

平山城児:考証『吉野葛』―谷崎潤一郎の虚と実を求めて

谷崎潤一郎:吉野葛・盲目物語 (新潮文庫)


(H29・2・19)


 

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