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役者の道程〜平成の名優3人の若き日の「七段目」

昭和55年3月歌舞伎座:「仮名手本忠臣蔵・七段目」

六代目市川染五郎(二代目松本白鸚)(大星由良助)、片岡孝夫(十五代目片岡仁左衛門)(寺岡平右衛門)、五代目坂東玉三郎(遊女お軽)


1)六代目染五郎初役の由良助

本稿で取り上げるのは、昭和55年3月歌舞伎座での、若手花形による「忠臣蔵」通しの七段目の映像で、配役は染五郎・孝夫・玉三郎(当時の名前による)という豪華組み合わせです。吉之助はこの舞台 は生で見ました。当時、染五郎37歳、孝夫36歳、玉三郎29歳で、染五郎はこの時が由良助初役でした。ちなみに翌年が染五郎の九代目幸四郎襲名の年になります。この38年後の、 同じ配役での平成30年2月歌舞伎座の舞台については別稿「充実した七段目」 で取り上げました。

歌舞伎鑑賞においては比較参考に出来る過去映像が限られますし、世間ではまだまだ生の舞台重視の風潮であるでしょう。しかし、クラシック音楽の世界では過去100年の録音が膨大に存在しますから、ひとりの演奏家の生涯を録音で辿ることが十分に可能です。最初から才能を欲しいままに順調に伸びて来た演奏家もいれば、地道な努力を続けて派手ではないが味わい深い演奏家に成長した方もいます。 芸の道程は様々で、そこに良し悪しはもちろんないわけですが、そこに一筋の線をイメージすることができます。こうして同じ演奏家の、同じ曲の、それぞれの時代の録音を複数並べて聴き比べてみることは、これはまた別種の音楽の愉しみというものです。吉之助はその演奏家の道程を承知していますから、ひとつの録音のなかにベクトルのようなものを聴き取ることが出来ます。ベクトルとは、線上 の一点の、方向性を持った或る種の勢いとでも言いましょうか。植物の先端にある生長点が伸びていく、ずっとその先にある枝ぶりまで見えて来るのです。そこから吉之助はその演奏家の人生を感じ取ることが出来ます。これも別種の音楽の愉しみです。吉之助はクラシック音楽でそういう訓練が出来ていますから、歌舞伎の映像鑑賞に全然抵抗がありません。白黒映像だろうが、録音が悪かろうが、たとえ断片であっても、見る目で見るならば真実を捉えることが出来るはずです。

昭和55年3月歌舞伎座での「七段目」映像を見ると、現在の平成の歌舞伎を支える三人の名優が歩んできた、その確かな道程を確認することが出来ます。昔の映像を改めて見直すと、記憶が呼び覚まされて色んなことが思い出されます。彼らも若かったけれど、吉之助も若かった。同じだけの時間(38年)をお付き合いしてきた吉之助にとっても、「長いような短いような歳月だったけど、ホントにお互いみんな成長してきたんだねえ」みたいな感慨が胸に来ます

まず染五郎の由良助を見ます。初役だけに力が入った演技であり、確かに前半の酔態にまだ生硬なところが見えます。例えば「九太はもう去なれたそうな」という台詞の末尾を時代に強く張っています。「去なれたそうな」は確かに時代の台詞に違いありませんが、この台詞は強く張らない方が良いのです。時代の台詞ならば末尾を強く張りたくなるのが人情でしょう。しかし、この台詞に限っては抑えた方が良いのです。なぜならば「七段目」での由良助は、表面では酒に酔い呆けたことを言いながら、本心は仇討ちに凝り固まっており、まったく九太夫を許しておらず怒りに燃えているからです。しかし、そのことはまだ表面に出してはならぬものです。それは幕切れまで取っておかねばなりません。「七段目」では、「時代=建前=非人情、世話=本音=人情」と云う、よくある公式がまったく通用しません。由良助の本音は仇討ちですが、これこそ時代の論理そのものです。「七段目」での時代の論理は、にこやかな顔をして現れます。「七段目」の世界は捻じれているのです。ですから時代の台詞を強く張らずに抑えることは、本来の時代の様式をいなしている(裏切っている)わけで、これが由良助の捻じれた心情を表すことになります。これが由良助の和事なのです。(これについては別稿「七段目の虚と実」を参照ください。)

染五郎初役の由良助は、この台詞の末尾を張っています。これだと未だしと云うことになるかも知れませんが、吉之助が思うには、恐らく最初は誰でもこういう段階を経て成長していくものなのです。逆に云うならば、この段階を正しく踏まないところにその後の成長はないということにもなるのです。もしかしたら吉之助が染五郎初役の由良助の出来が良くないと云っているように聞こえたかも知れませんが、吉之助はこの映像を見直しながら懐かしくて仕方がありませんでした。このように若さが漲り力一杯演じている由良助が、吉之助は好きなのです。ここからすべてが始まるからです。(或る意味、吉之助も同じだった・・ということです。)一方、それから38年後になる、平成30年2月歌舞伎座での二代目白鸚の由良助は当然のことですが、そこのところはちゃんと出来ています。頑なな仇討ちの本心を柔らかい酔態のなかに押し隠した見事な由良助に仕上がっています。あの白鸚も最初はこういうところから出発したんだなあという感慨が胸に来ます。(この稿つづく)

(H30・3・5)


2)六代目染五郎初役の由良助・その2

染五郎の由良助の特徴は、例えば二階にいるお軽に「ようまあ(風に)吹かれていやったのう」と笑いながら懐紙を持ったまま床にベッタリ座る件、或いは「あの嬉しそうな顔やいわい」でお軽の背中を突いて扇子をパッと開いて 顔を隠して決まる件などによく出ています。ちょっと 型臭い印象がするかも知れません。芝居の巧い人なのだからもっとスムーズに流れのなかで決められそうに思いますが、何となく段取りめいて、型が浮き上がってくる感じがします。由良助が言っていることは実は本心ではそう思っていない(可哀想にお軽は運が悪かった、悪気はないのに遊び心で手紙を盗み見してしまったために、俺はお軽を殺さねばならなくなってしまった)ということを強く意識しているので、染五郎の演技がどこかぎこちなく、アンビバレントになってくるのです。吉之助はこのことを とても興味深い現象であると思って、染五郎を見て続けて来ました。

ここで酔ってにこやかな演技を見せることは、どの由良助役者もやることです。しかし、多くの役者がそこまでです。と云うかここを酔態の柔らさで見せるのが見せどころだと云うところに留まっています。「七段目」での時代の論理は、にこやかな顔をして現れます。にこやかな顔をしているけれども、実はそこが怖いのです。柔和な表情のなかに隠れたギラリとした殺意が秘められています。同時に、 このことに由良助本人が一番恐れ慄いています。つまり由良助という人は、決して遊興三昧の人でもなく、仇討ちの信念に凝り固まった人でもない。二面性だけで 理解できるほど由良助の人間性は単純ではありません。由良助にはもっともっと奥深く、簡単に描けないものが秘められているのです。

このように考えるならば、由良助の型・段取りと云うものは、役の外にあって役を強制するものだと云えるのです。それは主人判官に命令された通りのことを遂行しなければお前は塩治家の家老ではないぞと由良助を強制するものであり、同時に段取り通りに演じなければ正しい由良助にならないぞと役者を強制するものでもあるのです。型・段取りが表徴するものは、そう云うものです。 この時代の型が持つ本質的な要素、引き裂かれた・乖離した要素を、染五郎ほど明確に視覚化させる役者は少ないと思います。演技を「型臭い」と感じさせるところに 、染五郎という役者の現代的な感性があると、この点を吉之助は積極的に評価したいのです。 ただ昭和55年の時点であると、それはまだ後年のようには熟れた感じに至っていないかも知れません。

このような特徴は由良助だけに限ることではありません。染五郎が演じる役すべてに、多かれ少なかれ言えることです。もちろん由良助のようにその行き方がしっくり来る役もあれば、理想のバランスを見出すのに未だ難儀して試行錯誤しているなあと感じる役も あります。例えば「熊谷陣屋」の直実はどちらかと云えば後者かなと思いますが、これは直実が高麗屋の家にとって特別大きな意味を持つ役であることから来るのでしょう。

染五郎のこのような歌舞伎の型への懐疑と云う主題は、恐らくこれが八代目幸四郎(初代白鸚)から連なる高麗屋の芸風として在るものだと、吉之助は考えています。(別稿「ラ・マンチャの男、1200回」をご参照ください。)染五郎初役の由良助に、38年後の現在 (平成30年2月歌舞伎座)の二代目白鸚の由良助を重ねると、染五郎が ここまで辿って来た道程がはっきり見えて来ます。ここで二代目白鸚は、頑なな仇討ちの本心を柔らかい酔態のなかに押し隠した理想のバランスを見出しています。先代白鸚の由良助は、史実の大石内蔵助もこんな人物だったのであろうかと思わせる由良助でした 。二代目白鸚の由良助もまたそのような由良助です。最初の段階をしっかり踏まえたからこそこの道程があると、これは今になってみて言えることかも知れませんが、その確信が持てないのならば芸の修行は決して続かないでしょう。この間に、平成20年2月歌舞伎座ので九代目幸四郎の由良助を重ねて見れば、さらに興味深いものが見えて来ると思います。この時期辺りが六代目染五郎の芸のひとつの転機であったかも知れないなあと、今にしてみれば思うところがあります。

本題からちょっとはずれて、先月(平成30年2月)歌舞伎座での、息子である十代目幸四郎襲名の「熊谷陣屋」の直実について触れておきますが、十代目幸四郎にもやはり高麗屋として同じ主題が課せられているということなのです。十代目幸四郎の熊谷も、力が入っていることもありますが、 若い頃の父と同じようにちょっと型臭い感じがします。これは良いことです。今はまだ型をその通り踏襲する段階であるから、今はこれで良いのです。これから型への懐疑と云う主題を胸に刻みつつ、受け継いだ型を自分の仁においてじっくり消化してもらいたいと思いますね。(本章では高麗屋三代が交錯しましたから、ちょっと読み難いかったかも知れません。)(この稿つづく)

(H30・3・8)


3)孝夫の平右衛門と玉三郎のお軽

孝夫の平右衛門・玉三郎のお軽の兄妹については、染五郎とはまた違った意味での、役者の道程を考えさせます。38年後の、平成30年2月歌舞伎座での「七段目」の兄妹の、じゃらじゃらとした遊び心、万華鏡のようにぐるぐる回る華やかさの感覚が、不思議なほどに同じです。もちろん年齢を経たことから来る熟れた巧さが加わったには違いないにしても本質的なものは、驚くほど変わっていません。平右衛門・お軽の兄妹に関しては、当時のファンからT&Tと呼ばれていたあの頃から、孝玉の表現は「七段目」のドラマでの兄妹の本質を適格に捉えていたということなのです。これについては別稿「誠から出た・みんな嘘」をご参照ください。これは平成19年2月歌舞伎座での、同じ「七段目」の二人の兄妹の観劇随想ですが、今の吉之助 にはこの論考に付け加えることは何もありません。

このように昭和55年・平成19年・平成30年と、この三つの時点の映像を重ねて、孝玉の芸の道程がまっすぐ見えて来ることに、吉之助は驚嘆してしまいます。38年経過してまったく変わらないと云うと、吉之助の感覚からすると、普通は「成長していない」ということになりそうです。38年経ったら経ったなりの芸の変容を見たいと普通は思うものです。例えば加齢による容色の衰えが見られても、それを補う芸の魅力が何かしら増してくる。普通はそういうもので、これを芸が辿る成熟の過程だと考えるものです。しかし、(ここでは話を「七段目」の兄妹に限定したいと思いますが)孝夫・玉三郎に関しては次元がまったく別もので、二人は容色の美しさを今も変わらず維持出来ているので、代わりに何も付け加える必要がないということなのか。もし他の役者がこんな感じだったら、吉之助も「このじゃらじゃらはちょっと過ぎるのじゃないの」と書いてしまうかも知れません。しかし、孝玉に限ってはそこが良いというか、これが歌舞伎の愉しさだと思わせるのは、 時分の花の限界を超越した、お二人の徳とでも云うべきものなのか。実は平成30年2月歌舞伎座の彼らの舞台を見ていて、こういう芸境もあり得るのだなあと、吉之助は考え込んでしまいましたよ。これは或る意味で奇蹟のように思われます。ああ、たった一人だけ似たような例を思い出しました。それはマルタ・アルゲリッチです。髪はすっかり白髪になってしまったけれど、彼女も自由奔放な芸風、パワフルな打鍵は、デビューからちっとも変わりません。

もしかしたら上記が孝夫・玉三郎が何の苦労もなく順調に芸を成長させてきたように読めたかも知れませんが、もしそうならば、それは吉之助の筆が至らないからです。それならばご本人たちからすれば心外なことです。例えば孝夫は死に瀕する大病を経験したところに今日があるわけであるし、お二人とも裏に人に知られぬ努力と苦労があったに違いありません。そういうことを含んだ上で、吉之助は「奇蹟のよう」と書いたつもりです。

それにしても芝居も長く見ていると、役者の道程とか、この間に起こった様々なことなど浮かんでくることがあるものです。38年か・・俺もずいぶん歳をとったものだなあと思いますが、まあこういうことを考える愉しみを見出すのも、長く芝居を見続けた余得というものです 。これでまた芝居を観たいという気にさせられます。

『われわれ園芸家は未来に生きているのだ。バラが咲くと、来年はもっときれいに咲くだろうと考える。10年たったら、この小さな唐檜(とうひ)が一本の木になるだろう、と。早くこの10年がたってくれたら!50年後にはこのシラカンバがどんなになるか、見たい。本物、いちばん肝心のものは、わたしたちの未来にある。新しい年を迎えるごとに高さと美しさが増していく。ありがたいことに、わたしたちはまた一年歳をとる。』(カレル・チャペック:「園芸家12ヶ月」)

(H30・3・10)




  
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