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盛綱は智の人である〜八代目芝翫襲名の盛綱

平成28年10月歌舞伎座:「近江源氏先陣館・盛綱陣屋

八代目中村芝翫(三代目中村橋之助改メ)(佐々木盛綱)、九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(和田兵衛)

(八代目中村芝翫襲名披露)


1)盛綱は情において偽証をしたのか

「盛綱陣屋」については、別稿「「盛綱陣屋」の音楽的な見方」など、何本か論考を書きましたが、まだまだ書き足らないことがありそうです。多分それが名作である所以なのでしょうねえ。「盛綱陣屋」の大筋を見ると、捕えられた小四郎が心の中で「この首を父の首だと偽証してくれ」と叔父に訴えながら腹を切り、盛綱はこれが弟高綱の計略の偽首であることが分かっていながら、小四郎の健気さに感じ入って、これを犬死にさせることに忍びず、高綱の首だと偽証するということになるかと思います。これは小四郎の行為に対して、盛綱は情で反応して偽証を決意したということなのでしょうか。まずこのことを考えたいと思います。盛綱はこう言っています。

『父が為に命を捨つる幼少の小四郎が、あんまり神妙健気さに不忠と知って大将を欺きしは弟への志。』

盛綱が小四郎の行為に心を打たれたことは疑いがありません。ならば「この首が高綱の首だと偽証してくれ」と叔父に無言で訴えて腹を切った小四郎の健気さにほだされて、情に反応して偽証を決意したということでしょうか。しかし、盛綱は「不忠と知って大将を欺きしは弟への志」と言っています。 「小四郎への志」とは言っていない。もちろん「教えも教えたり、覚えも覚えし親子が才智」とありますから、そのなかに小四郎のことも含まれていると考えるべきです。しかし、盛綱の心にあるのは、弟高綱のことです。弟高綱の為に盛綱は偽証をしたのです。

吉之助が言いたいことは、盛綱は情で反応して動いたわけではないということです。そのなかに熱いけれども、盛綱なりの冷静な判断があるのです。ひと目見て盛綱には偽首であることは分かったのです。本来ならば、盛綱は高笑いして「この首は偽首でござる、この盛綱、その手は食わぬ」と言わねばならぬところです。 当然それが鎌倉方の武将としての盛綱の仕事です。しかし、予想外の小四郎の切腹で盛綱は考えを転換するわけですが、 これは「情に感じて理を非に曲げて通した」ということではありません。それはつまりその時、盛綱の頭のなかで本来通るはずのない論理が通ったということなのです。盛綱は優秀な武将なのですから、そのような判断が研ぎ澄まされた理性の下で行われたと考えるべきです。盛綱は智の人である。そこのところを考えないと「盛綱陣屋」はとても柔いドラマになってしまいます。

別稿「近松半二の作劇術を考える」でも書きましたが、近松半二は儒学者穂積以貫の息子です。作劇者としての半二が考えるところは、人の道ということです。この状況下で、私は人としての道をどう行くべきかということです。だから半二は、とんでもない極端な設定を主人公に課します。半二の芝居はみんなそうなのです。「盛綱陣屋」の場合には、「自分の気持ちに対して忠、同時に武士である自分の本分に照らして義」という論理(ロジック)はあるかということです。盛綱は優秀な武将なのですから、そういう論理がないのならば、不忠と知りつつ大将を欺くなどということが、到底できるはずはないのです。

話が変わるようですが、「勧進帳」の場合を考えてみます。富樫が弁慶一行に関所通行を許すのは、無礼覚悟で主人義経を杖打つ弁慶の心に感じ入ってこれを許すというけれど、確かに筋を表面的になぞればそういうことですが、ホントにそうなのかということです。情にほだされて富樫は通行を許したということなのでしょうか。これについては別稿「「勧進帳」についての対話」を参照ください。富樫はもちろん弁慶の行為に感動していますが、富樫が感動するのは打擲される強力が義経であることが分かっているからです。義経は、弁慶にとっても富樫にとっても、舞台を見ている観客にとっても「神」です。弁慶が義経を打擲する時、「義経が神である」という認識が、富樫のなかに突然この場で共有されます。富樫は「神が打たれることはあってはならぬ」という思いに駆られて、弁慶を止めます。富樫は情において通行を許すのではありません。「義経が神である」という認識においてこれを許すのです。これはまったく理性的な判断なのだと富樫は答えるはずです。盛綱の場合も、同じであると吉之助は思いますねえ。(この稿つづく)

(H28・11・13)


2)盛綱の論理性

盛綱は鎌倉方の智将です。つまり読みが人一倍深い武将です。相手が何を考えているか・どのような行動に出るか徹底的に読んで、その対策を練ります。相手がそう来るならば、こちらはこう出ると、次の次の手までも読むのです。ましてや弟高綱が相手ならば、その性格を知り尽くしている盛綱にとって、弟が何を考えているか、心を読むことなど造作もないことです。盛綱が心配するのは、息子の小四郎が生け捕りにされたことで、高綱の心が迷い戦う意欲が失われれば、高綱は不忠の汚名を着ることになるということでした。「盛綱陣屋」の舞台を見れば、戦さの情勢は、途中までまさに盛綱の読み通りに進行して行きます。そこへ高綱討ち死にの報。盛綱は「ハハア南無三宝死なしたり、さしも抜からぬ弟高綱子ゆえの闇に心くらみ、謀に陥たるな・・」と嘆息しますが、ここは偽首ということもあり得るぞということは、盛綱の頭のなかに当然あります。そこまでは盛綱の読み通りです。ただし盛綱にとっても、小四郎が「父様さそ口惜しかろ、わしも後から追いつく」と叫んで腹を切るというところは、まったくの予想外でした。そこからドラマは急転換します。

ここが大事なところですが、盛綱の頭のなかは今ここで何が起こっているか・この事態を正しく理解しようと物凄い勢いで回転しています。そして盛綱は偽首を弟高綱の首に相違ないと証言するのですが、それは盛綱が小四郎の行動に感動し情に反応して一時的な激情に駆られて、偽証に走ったということではないのです。盛綱の性格からして、そういうことはあり得ません。盛綱がここは偽証してでも弟高綱の気持ちを通さねばならぬと考えるに足る、筋が一本通ったロジック(論理)が絶対に必要です。それがなければ、盛綱は決して偽証など出来ません。偽証をしても盛綱が「俺は不忠ではない」と自分が納得できるロジックが必要です。つまり盛綱が忠を尽くすべき対象は時政ではなく、本当に忠を尽くすべきことが他にあるということです。

れは「俺たち佐々木兄弟は京方だ・鎌倉方だとそんなことで戦っているのじゃないよ。俺たちは武士なんだ。相手が兄弟だろうが武士である以上死力を尽くして戦うのは当然じゃないか。それでどちらかが勝つならば・勝った方が佐々木の家を継ぐだろう。それでいいじゃないか」ということです。(別稿「京鎌倉の運定め」を参照ください。)
これがロジックかと仰るお方がいるかも知れませんが、これは立派なロジックですよ。これこそ死を覚悟した男のロジック です。ホントに澄み切るほどに・まっすぐなロジックだと思います。

『イヽヤいっかな心は変ぜねど、高綱夫婦がこれ程まで仕込んだ計略。父が為に命を捨つる幼少の小四郎が、あんまり神妙健気さに不忠と知って大将を欺きしは弟への志。彼が心を察するに、高綱生きてある中は鎌倉方に油断せず、一旦討死せしと偽って山奥にも姿を隠し不意を討たんず謀。しかれども底深き北條殿、一応の身替りは中々喰はぬ大将、そこを計って一子小四郎を、うまうまとこの方へ生捕らせしが術の根組、最前の首実験、贋首を見て父上よ誠しやかの愁嘆の有様に、大地も見抜く時政の眼力をくらませしは教へも教へたり、覚えも覚えし親子が才智、みすみす贋首とは思へども、かほど思ひ込んだ小四郎に何と犬死がさせらう。主人を欺く不調法、申し訳は腹一つと極めた覚悟も、負うた子に教へられ浅瀬を渡るこの佐々木、甥が忠義にくらべては、伯父がこの腹百千切っても掛け合ひがたき最期の大功。そちが命は京鎌倉の運定め、出かいたな出かした』

この盛綱の長台詞を読んでどうお感じでしょうか。盛綱とは、自分が偽証に踏み切った心理的経緯を、これほどまでに精緻に自己分析して論理的に語ることが出来る男です。これは熱いけれども、決して激情に駆られた台詞ではありません。冷静に見えるほど、筋が通った台詞です。この台詞は、盛綱の決断が理性的なものであったことを示しています。この台詞は、熱く・ しかし冷静に語られなければなりません。盛綱は智の人であるからです。その意味で吉之助にとっての理想的な盛綱は、映画(昭和28年歌舞伎座)で見た初代吉右衛門の盛綱ですねえ。(この稿つづく)

(H28・11・18)


3)盛綱の台詞のリズム

母微妙に小四郎を殺してくれと頼んだ時、盛綱は「現在の甥が命、申しなだめて助くることこそ情ともいふべけれ、殺すを却って情とは情けなの武士の有様や」と嘆いています。情にこだわる限り、盛綱はこの状況から逃れることはできません。情を超えるロジックが必要です。それがなければ、盛綱は大将を裏切って偽首を偽証することはできません。それが「自分の気持ちに対して忠、同時に武士である自分の本分に照らして義」というロジックです。

小四郎を褒める盛綱の長台詞を読めば、盛綱は小四郎の行為に感動しその気持ちを一気に吐き出そうとしていますが、紡ぎだされる言葉はあくまで論理的です。別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える・19・義太夫狂言のリズム」で触れましたが、義太夫での盛綱の長台詞は、タテ言葉です。立て板に水を流すように早口に台詞をまくし立てるものです。タテ言葉の早いリズムは、観客の耳に小気味良く・快適に感じられるかも知れません。そう感じるのは決して間違いではないですが、見方を変えれば、タテ言葉のリズムは決して自然なしゃべり言葉のリズムではないのです。それは異様な興奮に裏打ちされた・機械的なリズムです。小気味良いリズムの背後に実は人間性を押さえ込もうとする不気味で圧倒的なものが潜んでいることが見えてきます。(劇中でそれを体現する存在はもちろん北条時政です。)タテ言葉のリズムのなかで、盛綱は不気味で圧倒的な力に対抗する人間の意志を主張しています。

もちろん歌舞伎の盛綱は本行通りにしゃべるのではなく、それは歌舞伎様式において処理されなければなりません。タテ言葉の早いリズムを基調としつつく如何にこれを歌舞伎様式に持って行くかです。しかも、熱く・冷静に論理的に語るところは、絶対に守らなければなりません。遺された映画での初代吉右衛門の盛綱を研究すれば、どこをどう処理すれば良いか実感できると思います。しかし、残念ながら、昨今の歌舞伎の盛綱役者の多くは、盛綱は小四郎の行為に情で反応して大将を裏切るという解釈であるようです。だから長台詞をさも感じ入ったように熱くしゃべろうとする。だからテンポが遅くなり、さらに泣きが入って台詞の息がぶつ切れる。だから盛綱の語る論理が空回りしてしまいます。今月(平成28年11月)歌舞伎座での、新・芝翫初役の盛綱もそんな感じがしますね。興奮した気分を表現しようとして台詞が高調子になり、力んだ台詞回しになっています。

ところで、先ほど「歌舞伎の盛綱は人形浄瑠璃ではないのだから歌舞伎様式 において処理されなければならない」と書きましたが、歌舞伎様式ということをどう考えるかです。芝翫の盛綱の長台詞は、確かに「歌舞伎らしく」は聞こえますが、ホントにあれで良いのかということです。

例えば襲名披露口上での「中村芝翫の名跡を、八代目として、襲名致す運びに、相成りましてござりまする」という文句を聴くと、芝翫の口上は重ったるいですねえ。台詞が後になればなるほど段々テンポが遅くなります。だから歌舞伎らしく大きい印象に聴こえるけれども、メリハリがない伸びた感じに聴こえます。まずこの文句を読んだ時、大事な語句は何でしょうか。芝翫・八代目・襲名の三つの語句でしょう。これら三つの語句を張り上げてたっぷり強調する。他のところはサラリと流すことです。最後の「ござりまする」は、歌舞伎役者は伸ばしたいでしょうねえ。吉之助は台詞の末尾を伸ばすのが嫌いなのて採りませんがね、まあ最後は伸ばしても良いで しょう。これで歌舞伎様式においてメリハリの付いた台詞回しにすることが出来ます。大事なのは、テンポの緩急です。芝翫はこれがまだ足りません。

今回の盛綱の首実検とそれに続く場面を見れば、新・芝翫は確かに「らしく」は出来ています。しかし、メリハリが乏しいので、印象はそれなりに太く大きいけれど、引き締まった感じがいまひとつです。これは新・芝翫の、先月(10月)の熊谷直実も同じ印象です。もう少し台詞や動作に緩急が欲しい ところです。この辺が、新・芝翫がこれから本物の時代物役者として大成する為の課題となるでしょう。「いわゆる歌舞伎らしさ」という問題、これは生活感覚と切り離されたところで伝承と対峙せねばならぬ歌舞伎役者すべてに共通して課される問題だと云えますが、そこを突き抜けて、もう一段上のランクを目指してもらいたいと思いますね。

(H28・11・23)


 

 

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