大坂歌舞伎旧跡散策・その3
曽根崎新地・蜆川・河庄跡〜「心中天網島」の舞台
*大坂歌舞伎旧跡散策・その2:網島・大長寺跡地の続きです。
1)曽根崎新地・蜆川・河庄跡
近松門左衛門の「心中天網島」(享保5年(1720)12月大坂竹本座初演)は、同年10月14日に起きた、曽根崎新地の遊女紀伊国屋小春と、天満の紙屋治兵衛が、網島の大長寺境内で心中した事件を脚色したものです。実説の詳しいことは伝わっていないようです。「心中天網島」・下の巻に拠れば、小春治兵衛のふたりは堂島・蜆川(しじみがわ)南岸にあったらしい大和屋伝兵衛を抜け出して、いくつかの橋を伝って、網島の大長寺境内に辿り付くことになっています。このことは「道行名残の橋尽し」の詞章に読み込まれています。
同じく「天網島」・上の巻の舞台はご存じ河庄ですが、「河庄」とは河内屋庄兵衛の略。河内屋は屋号、庄兵衛は主人の名前。昔はお店を主人の名前で呼びました。蜆川は正しくは「曽根崎川」と云いますが、一般に「蜆川」で通っていました。「天網島」・中の巻のなかで、小春のことを諦め切れぬ夫治兵衛を詰っておさんが云う台詞に、
『さほど心残らば泣かしゃんせ。その涙が蜆川へ流れて、小春の汲んで飲みやらうぞ。エエ曲もない、恨めしや』
とあります。河庄は蜆川の北岸に位置し、蜆川を境目にして、北岸を曽根崎新地・俗に北の新地と言いました。他方、蜆川南岸が堂島になります。蜆川は、大正期頃に埋め立てられました。現在では現地に行っても境目が判然としませんが、古地図と現在の地図を見比べてみて下さい。
下の写真は、曽根崎川(蜆川)跡の碑です。(大阪市北区曽根崎新地1丁目5−29) 飲み屋街の通りにひっそりとあります。享保の昔を想像させるものは、周囲にまるでありません。しかし、様相は変われども、あの昔からずっと続いている飲み屋街なのです。こんなところで感慨深げに周囲を見回している吉之助は、他人様からすると変わった人に見えたでしょうねえ。
曽根崎川跡の碑に10Mほど離れて並んで建てられているのが、近松研究家・木谷蓬吟の書による「蜆橋銅板標」です。(下の写真) ただし蜆橋があったのは、正確にはこの場所ではありません。(続きをご覧ください。)ところで「蜆橋銅板標」の後ろのお店に自動販売機が並んでいるのが見えますが、この一角が、河庄跡地になるそうです。
下の写真は、かつての蜆川の川傍になる道路から、北方向を眺めた構図です。左手が蜆川跡の碑があった場所、通りの右手が河庄跡地になります。かつては自動販売機の脇に「河庄跡地」の石標があったそうですが、現在は撤去されているようです。「ここが河庄かあ・・」とウロウロしているのは吉之助くらいのものです。行ってみればこんなものかと云うところですが、こんなものだと分かったことで何となく満足。
2)曽根崎新地・蜆橋跡
上の写真の手前の通りを右方向へ真っ直ぐ進むと御堂筋通りに出ます。滋賀銀行・梅田支店のビルの角に、史跡「しじみばし」の石標があります。ここが蜆橋のあったところです。(大阪市北区曽根崎新地1丁目1−49) つまり小春治兵衛の「道行名残の橋尽し」の出発点が、ここになります。
ここから御堂筋通りを南方向へ目を転じると、大江橋になります。下に流れるのは、堂島川です。
*写真は令和5年7月3日、吉之助の撮影です。
*大坂歌舞伎旧跡散策・その4:谷町筋沿いの寺町もご覧ください。
(R5・7・15)