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大坂歌舞伎旧跡散策・その2

網島・大長寺跡地〜「心中天網島」の舞台

大坂歌舞伎旧跡散策・その1:夕陽丘と日想観の続きです。


1)網島・大長寺跡地(藤田邸跡公園)

近松門左衛門の「心中天網島」(享保5年(1720)12月大坂竹本座初演)は、同年10月14日に起きた、曽根崎新地の遊女紀伊国屋小春と、天満の紙屋治兵衛が、網島の大長寺境内で心中した事件を脚色したものです。実説の詳しいことは伝わっていないようです。「天網島」という外題は、心中の現場である「網島」に、「天網恢恢疎にして漏らさず」(天が悪人を捕らえるために張り巡らした網は、目が粗いが、決して悪人を取り逃がすことはない)という諺とを掛けたものだとされています。(吉之助には大長寺に伝わる鯉塚の謂われが関連すると思えるのですが、以下お読みください。)

このようにもともと大長寺は網島にあったのですが、明治18年(1885)に起きた大川(淀川の旧水路)洪水で、お寺はすっかり荒廃してしまいました。その翌年に、後に藤田財閥となる藤田組の総帥、藤田伝三郎がこの土地を買収して、ここに豪華な日本庭園を持つ広大な邸宅を構えることを計画しました。この時大長寺は、藤田から新たな土地の寄進を受けて、現在の中野町2丁目(旧地から400Mほど北に当たる)へ移転したそうです。

*写真右手の森の向こうが「藤田邸跡公園」です。

現在の藤田邸跡地は、戦後にいくつかに分割されて再開発されました。このうち本邸跡を中心とした北東部分は、現在は藤田美術館として、藤田家が所有する美術品を一般公開しています。(所蔵品の一番の目玉は「曜変天目茶碗」(ようへんてんもくちゃわん)ではないかと思いますが、吉之助が訪問した日には模様替えされていて、残念ながら見ることが出来ませんでした。)

日本庭園を中心とした北西部分は、その後大阪市が入手して、現在は大阪市指定名勝「藤田邸跡公園」(都島区網島10番地)として整備されています。JR京橋駅からゆっくり徒歩で10分弱の距離です。都会の喧噪から離れて・別世界のように静かな素敵な日本庭園です。吉之助は「心中天網島」の面影を求めて当地を訪れたわけなので・その視点から眺めることになりますが、残念ながら、藤田邸造成のため敷地が作り直されたらしくて、ここに江戸時代の大長寺の痕跡を探すことはちょっと無理なようでした。

唯一、旧大長寺の遺構を伝えるのは、公園南出入口門(旧藤田邸表門=旧大長寺山門・上の写真)のみであるそうです。ただし旧大長寺山門は、昔は場所が違っていて、もともと現在の藤田美術館の北側辺りにあったものでした。これを藤田伝三郎が現在地に移築して、本宅表門として日常的に使用したものだそうです。

残念なことに、旧大長寺の敷地の図面は残されていないそうです。このため小春と治兵衛が境内のどの辺りで心中したかも見当が付かないそうです。そのせいだか公園内に「旧大長寺」とか・「心中天網島」とか・その種の標識も一切ないのも不親切と云うか・商売っ気ないと云うか。まあ確かにここは「藤田邸跡」であって、「旧大長寺跡」ではないわけなのです。近松の「道行名残りの橋尽くし」の詞章の末尾に

『涙の玉にくりまぜて、南無あみ島の大長寺。藪の外面(そとも)のいささ川。流れみなぎる樋(ひ)の上を、最後(さいご)所(どころ)と付きにける』

とありますから、(丸本が実説と同じかどうかは分からないが)大長寺境内に大川からの水を引く水門があって、そこら辺りでまず治兵衛が小春を脇差で刺し殺して、次に治兵衛が樋に首を吊って果てたと云うことです。そこは恐らく大川に近い場所だっただろうと推測しますが、そこらに水門らしきものはなし。池はあるけれども、その当時もその場所にあったのかどうかは分かりません。仕方がないので、「この辺りで小春治兵衛が心中したんだなあ」と空想に浸ることにしましたが、そう云う(俗世の)こととは全然関係がない、静かで美しい庭園風景(下の写真)でありましたねえ。


2)中野町の現・大長寺

藤田邸跡公園(旧大長寺跡地)から400Mくらい北に位置する現・大長寺(都島区中野町2丁目)へも、もちろん訪ねました。大長寺は浄土宗のお寺です。境内の小春治兵衛の比翼塚と鯉塚は、大長寺が旧地から当地へ引っ越した時に、一緒に移転したものです。

写真上は、現・大長寺の山門です。

上の写真の左の三つが小春治兵衛の比翼塚で、一番右にあるのが鯉塚です。

鯉塚は、寛文8年(1668)に、淀川で鱗に巴紋がある珍しい鯉が網にかかって・見世物にされていましたが、その鯉が死んだので住職が葬ったところ、その晩の住職の夢のなかに巴紋をつけた甲冑姿の武士が現れて、自分は大坂の陣で戦死し・殺生の報いでこのような姿(鯉)となったが貴僧の弔いのおかげで成仏できたとお礼を述べたそうです。これが鯉塚の謂われだそうです。吉之助には何となく、この鯉塚の謂われが「心中天網島」の外題に関連するように思われるのですがねえ。これはつまり「天が仕掛けた網は、すべての人の魂を漏らすことなく救い上げ、情けで以て成仏へと導いてくれる、何と有難いことか」と云うことだと思います。

上の写真の右が鯉塚です。なお鯉塚の隣にある小さい墓は、鯉を網で生け捕った地元の漁師・誰袖音吉の墓だそうです。

上の写真ふたつは、小春治兵衛の比翼塚です。これで以前からの懸案を果たして、まずは満足。

*写真は令和5年7月5日、吉之助の撮影です。

大坂歌舞伎旧跡散策・その3:曽根崎新地・蜆川・河庄跡もご覧ください。

(R5・7・8)


 



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