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江戸歌舞伎旧跡散策・その9

向島・三囲神社と長命寺

*江戸歌舞伎旧跡散策・その8:梅若塚と「隅田川」の世界の続きです。


1)三囲神社

向島(むこうじま)の地名由来は諸説あるみたいですが、浅草から見て・隅田川の向こうに島のように見えたからだそうです。一般的には現行町名の向島だけでなく・その周辺も含めた総称として使われることが多いようです。「墨東」と云うと、もう少し広い範囲を指すようです。

浅草から言問橋を渡って隅田川土手(墨堤)に沿って北に歩いていくと、三囲神社(みめぐりじんじゃ、墨田区向島2−5−1)が見えて来ます。創建年代は不詳ですが、伝えられるところでは、三囲神社が向島に社を構えたのは、遠く平安時代の初期のことであったそうです。元々はもう少し北に位置しました。洪水で一度流されて、河岸に堤防が築かれることになった時に、現在の場所に移動したそうです。このため、対岸の浅草から眺めると、鳥居の上部が堤からひょっこり頭を出しているような奇妙なことになってしまって、それがかえって面白いということで浮世絵などに好んで描かれました。歌舞伎では、南北の「桜姫東文章」(文化14年・1817・3月・河原崎座)、黙阿弥の「都鳥廓白浪」(安政元年・1854・3月河原崎座)などに三囲神社が登場します。

上は「都鳥廓白浪」序幕・三囲神社の場の舞台面。下の写真は、墨堤から見た三囲神社の大鳥居です。はるか向こうに東京スカイツリーが見えますが、ちょうど上の舞台面と同じになると思います。ただし現在は入り口が閉まっており、こちらの参道からは境内へ入ることが出来ないので、本殿へ参拝するには大廻りをせねばなりません。

下の写真は墨堤を見上げる形で、三囲神社の大鳥居を逆方向から見る。これが「桜姫東文章」の三囲の場の舞台面になります。赤子を抱いて桜姫を探し求める清玄が、暗闇のなかで桜姫とすれ違う場面を想像してみてください。前方に立ちふさがる首都高速道路がいささか目障りではありますが。

表に回って、三囲神社を正門から参拝します。

上の写真は珍しい石造りの三柱鳥居で、原型は京都太秦の木嶋神社にあるそうです。

2)長命寺と桜餅

三囲神社から墨堤をさらに北へ歩いて行くと、長命寺(墨田区向島5−4−4)が見えて来ます。長命寺は天台宗のお寺で、創建年代は不詳ですが、平安時代円仁の開山ともいわれているそうです。現在は幼稚園を併設しています。

上は「都鳥廓白浪」序幕・長命寺堤の場の舞台面です。下の写真は、墨堤から長命寺を裏手から見たもので、ちょうど上の舞台面と同じ構図になりますかねえ。つまり、ここが芝居のなかで忍ぶの惣太が誤って主筋に当たる梅若を殺してしまう現場と云うことになります。

墨堤の桜は、当初は水神社(現在の隅田川神社、墨田区堤通2丁目)付近を中心に植えられていましたが、地元の有志たちによって桜が植えられて、墨堤の桜が長命寺・三囲神社へと、次第に南へ伸びて行きました。1880年代(明治13年頃)には、桜の植樹は枕橋(北十間川が隅田川に合流するところに架かる橋)辺りにまで達し、墨堤は桜の名所として広く知られるようになっていました。

下の写真は長命寺堤を別角度から見たものです。写真中央の白い建物が「長命寺桜もち」のお店です。桜もちは、長命寺の門番をしていた山本真六が享保2年(1717)に土手の桜の葉を樽のなかに塩付けにして試みに桜もちというものを考案し、長命寺の門前にて売り出して評判になったのが、その始まりであるそうです。黙阿弥の「都鳥廓白浪」(安政元年・1854初演)が俗に「桜もち」と通称される由来は、そこから来ています。

*写真は令和3年12月23日、吉之助の撮影です。

(R3・12・26)


 

 

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