江戸歌舞伎旧跡散策・その8
梅若塚と「隅田川」の世界
*江戸歌舞伎旧跡散策・その7:永代橋と「名月八幡祭」の続きです。
1)梅若伝説
平安中頃、比叡山の月林寺に梅若丸という稚児がおりました。学業に優れ評判の稚児であったそうです。梅若丸は京都の吉田の某(なにがし)の子で、梅若が5歳の時に父親が亡くなったため、7歳の時に月林寺に入ったのです。ところが同じ比叡山の東門院に松若丸という稚児がいて、これも梅若丸と学才を競うほどの秀才で、それぞれを応援する寺の僧侶たちが争いをする事態に発展してしまったのです。12歳になった梅若はこれに悩んで、こっそり寺を抜け出してしまいました。しかし、道に迷って京都に行くつもりが道に迷い、そこで梅若は陸奥の人買い商人信夫藤太(しのぶのとうだ)にかどわかされて、同じように集められた数人の少年たちとともに東国に連れて行かれました。
体の弱かった梅若は長旅の疲れが重なって病気になってしまい、武蔵国の隅田川の渡しに差し掛かった時には、もはや歩けない状態でした。信夫藤太は足出まといになる梅若をその場に打ち捨て、他の少年たちを連れて川を渡ってしまいました。土地の人たちは梅若を哀れに思い看病しましたが、梅若はまもなく息を引き取ってしまいました。
「たずねきて問はば答えよ都鳥すみだ川原の露と消えぬと」
というのが辞世の歌とされています。梅若の遺骸は土地の人たちにより手厚く葬られて、塚が作られました。それが梅若塚です。
一年後、梅若の母が我が子を探し狂女となり隅田川にまでたどり着き、そこで我が子の死を知りました。母はこの地で剃髪して妙亀尼と名乗り、梅若塚の傍に庵を建て、そこで念仏の日々を三年ほど送りましたが、或る日のこと、近くの鏡ヶ池の水に映る我が子の姿を見て、そのまま池に飛び込んで死んでしまいました。土地の人たちは哀れんで、この薄幸の母親の菩提を弔うため塚を作りました。これが妙亀塚です。
これが梅若伝説と云われるもので、後年、観世十郎元雅がこの話をもとに謡曲「隅田川」を作曲しました。(作曲年代は不詳であるようです。)一般に狂女物は求める人と再会してハッピーエンドになるものが多いのですが、この謡曲「隅田川」では母は息子を死を知り・塚の前で悲しみに暮れます。だから哀れの色がひときわ濃いわけで、人々は本作を愛し、これ以後・謡曲「隅田川」を原点として梅若伝説を取り上げた人形浄瑠璃・歌舞伎が続き、隅田川物という一大ジャンルが成立しました。近松門左衛門の「雙生隅田川(ふたごすみだがわ)」、奈河七五三助の「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」(法界坊)、鶴屋南北の「桜姫東文章」、河竹黙阿弥の「都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)」(忍ぶの惣太)など数え上げれば枚挙にいとまがありません。ただし本筋はどれも梅若伝説とあまり関係がないみたいですが。舞踊では清元の「隅田川」がよく知られています。これは謡曲に近いものです。
2)梅若塚
梅若塚は、東武スカイツリー線・鐘ヶ淵駅から歩いて数分の、都営住宅傍の「墨田区立梅若公園」内に元々はありました。しかし、現在は、東京都の防災拠点都市建設事業によって移転されたため、跡地に石碑が立てられて、それと知るのみです。
梅若塚は梅若山王権現として信仰を集め、江戸期には別当寺である木母寺(もくぼじ)は多くの参拝客を集めました。しかし、明治の廃仏毀釈で、木母寺は廃寺(その後寺院として復帰)し梅若神社となりました。現在の木母寺と梅若塚は、隅田川傍の都立東白鬚公園内に移転して同じ場所にあります。
ところで、この梅若塚は平安期のものではなくて、もっと昔の古代に造られた古墳ではないかという説があるそうです。民族学者である鳥居龍蔵氏は著書「上代の東京と其周囲」(昭和2年・1927)のなかで、梅若塚が古墳ではないかと推測しています。隅田川流域には、同じような古墳がいくつもあるそうです。そう云われれば、このこんもりした土盛りが古墳のようにも見えてきますね。現況だと見当が付きませんが、「江戸名所記」の挿絵からすると、江戸期の梅若塚はかなり大きい塚であったようです。
上の写真が現在の木母寺(天台宗、別名「梅若寺」)で、元々の梅若塚の場所から見ると、都営住宅を挟んで、ちょうど反対側になります。(墨田区堤通2−16−1) 門の向こうに、梅若塚が見えます。下の写真が、現在の梅若塚です。その隣りのガラスの建物のなかに梅若念仏堂が収められています。
下の写真は、隅田川傍の都立隅田公園内の木母寺境内にある、現在の梅若塚を裏から見る。墓石(塚)はゴツゴツした岩で出来ており、柳の木が植わっています。この形には何か意味がありそうな。
梅若塚の隣にある梅若念仏堂は木造の古いお堂で、梅若塚に隣接して造られた拝殿であったそうです。木母寺のなかでは梅若念仏堂は、太平洋戦争で被災を免れた唯一の建物でした。この地域は防災拠点に指定されているので木造建築物が不許可だそうで、仕方なく強化ガラスの建物のなかにお堂が安置されています。
3)妙亀塚
梅若の母である妙亀尼の塚は、隅田川西岸の妙亀塚公園にあります。(台東区橋場1−28ー2) 妙亀尼が身投げしたとされる鏡ヶ池は、埋め立てられて現存していません。東岸の梅若塚から歩くとすると、隅田川沿いを下り白鬚橋を西岸へ渡って、さらに隅田川沿いを少し下ったところの住宅地になります。徒歩でゆっくり歩くと20分くらい掛かるでしょうかね。
ところで別稿「生と死の境」で触れましたが、梅若塚が隅田川の東岸にあって・妙亀尼の塚が西岸にあるというのは何だか奇妙だ、妙亀尼の塚を作るなら息子の塚の傍に作ってやりたいと思うのが自然ではないか、だから梅若が死んだのは隅田川西岸で・元々西岸にあった梅若塚が後に東岸に移されたのではないかという推測があるそうです。これについては真偽は分かりません。しかし、こういう疑問が出て来ることは、これは理解が出来る気がします。昔は、武蔵国の隅田川の渡しは京都朝廷の力が及ぶ東の果て、つまり「この世の果て、生と死の境」のイメージであったからです。ですから謡曲「隅田川」において、梅若の母が息子の行方をはるばるたずねて、梅若があの世にいることを知る、そのためにも梅若塚は象徴的に「他界」である隅田川東岸になければならなかったわけです。上述の梅若塚古墳説と重ね合わせると、そんな風にも思えてきます。
写真上は、白鬚橋上から隅田川上流を見る。右の首都高速の向こうに木母寺があります。右が隅田川東岸で、左が西岸。生と死の境。こうして見ると、隅田川はやはり大川ですねえ。
なお謡曲「隅田川」ではシテをただ梅若の母と記するのみですが、歌舞伎の「隅田川」では梅若の母を「班女(はんじょ)の前」と呼びます。これは江戸時代に、謡曲「班女」のシテ花子と、謡曲「隅田川」のシテ梅若の母を同一人物とするという伝承があったからなのだそうです。(謡曲「班女」はこれもよく知られた狂女物です。)江戸期の謡曲研究書である「謡曲拾葉抄」は、その夫が吉田少将と、吉田の某(なにがし)ということで同姓であることから同一人物であるとしています。ただし、これもあくまで伝承であって、両者を同一人物とする確固たる根拠はないと思われます。歌舞伎が班女の前とするのは、まあそれはそれです。
*写真は令和3年10月28日、吉之助の撮影です。
*江戸歌舞伎旧跡散策・その9:向島・三囲神社と長命寺もご覧ください。
(R3・11・25)