久米の仙人と「桜姫」の世界〜橿原市・久米寺
「桜姫東文章」の清玄だけでなく、歌舞伎には破戒僧を主人公にしたお芝居があります。雲絶間姫に色仕掛けで迫られて通力を失ってしまう鳴神上人もそうです。歌舞伎十八番の「鳴神」の解説で、必ず引き合いに出されるのが、久米仙人のお話です。久米仙人は実在の人物ですが、伝説によれば吉野の龍門嶽で修行し仙人となり空を飛んでいたところ、下界で洗濯をしていた若い女性の脛を見て動揺し、そのため通力を失い墜落してしまったそうです。この話は「今昔物語」 によってよく知られています。
この久米仙人に縁(ゆかり)のあるお寺が奈良県橿原(かしはら)市にある久米寺です。久米寺は現在は真言宗御室派のお寺ですが、推古天皇の勅願により聖徳太子の弟君の來目(くめ)皇子の建立と伝えられる古いお寺です。このお寺には真言密教の根本経典となる「大日経」の経典が宝塔に納められたままずっと埋もれていました。これを遣唐使として中国に渡る前の空海(弘法大師)が「発見」しました。久米寺で大日経をあらかじめ学んでいたことが、空海の長安での日々を大変有益なものにしました。そういうわけで久米寺は真言密教にとって重要なお寺とされています。
久米仙人の墜落のお話で大事なことは、お堅いお坊さんも女性の色香には迷うものだという下世話なお話ということではなく、実はこの話も、
「妙適清浄の句、是(これ)菩薩の位(くらい)なり。欲箭(よくせん)清浄の句、是菩薩の位なり。蝕(しょく)清浄の句、是菩薩の位なり。愛縛清浄の句、是菩薩の位なり。」
という密教の教えと密接に結び付いているのです。「女の色香に迷うとは修行が足らん」ということではなく、女の色香に迷ってしまう自分も有情の有様としてあるがままに受け入れよということです。もっとも久米仙人の話が民衆に親しみを感じる理由は、尊い仙人にも心の迷いや弱さがあるものなのだなあと、どこか親近感を覚えるということなのでしょうが、そういう解釈もまた良しです。
「桜姫の世界」の成立過程についても、このような密教思想がその根本にあると考えてよいと思っています。
*写真は平成29年2月5日、吉之助の撮影です。
(追記)別稿「桜姫という業(ごう)」も参照ください。
(R3・6・9)