(TOP)     (戻る)

大津・近松寺〜若き近松門左衛門の足跡


近松寺(ごんしょうじ)は、滋賀県大津市逢坂2丁目にある天台宗のお寺で、延喜4年(904)の創建。三井寺(園城寺)別所寺院に当たります。三井寺の観月舞台の出口から大津市内の方角へ歩いて10分くらいの、小高い山のなかにある本堂だけのお寺です。

吉之助が当寺を訪れたのは、近松門左衛門(承応2年・1653〜享保9年・1725)の「近松」という名の由来がこの近松寺にあると云われているからです。「音曲道智編」には

「…始めは堂上方に仕官して、其後近江のちか松寺に遊ぶゆへ、此苗字を呼けり」

という記載があって、近江国近松寺が「近松」姓の由来だとしています。伝わるところでは、寛文12年(1672)頃・20歳を過ぎたところで、近松は当寺に入り、3年間ここで修行をしたそうです。最初はお坊さんになるつもりだったのかも?当寺はかつて、近くに在る関蝉丸神社の別当寺として、説教浄瑠璃を生業(なりわい)とする芸能者を支配していたことがあって、芸能者がよく出入りしていたそうです。或いはそんなことが近松が芸能の世界に入るきっかけとなったのかも知れませんね。(関蝉丸神社についてはこちらをご覧ください。)

ただしこれには異論もあって、「嬉遊笑覧」には「…越前人、少き時肥前唐津近松寺に遊学し、後京師に住す」とあって、ここでは肥前唐津近松寺(こちらは「きんしょうじ」と読むそうです)のこととします。他にも説があるようです。と云うわけで、正確なところは分かりませんけれど、もし三井寺に行く機会があれば、歌舞伎・文楽に興味ある方は近松寺にも立ち寄ってみては如何でしょうか。

近松門左衛門は、越前国(現在の福井県)の武士杉森信義の次男として生まれ、本名を杉森信盛(すぎもりのぶもり)と云いました。ただし出生地についても他に長門国萩、肥前国唐津など諸説あって、これも正確なところが分かりませんが、近年は越前国とするのが有力になっているようです。

寛文4年(1664)頃・信盛10歳の頃に、父信義は浪人となって越前を去り、京都に移り住んだようです。若き信盛の足跡は明らかではないですが、近松の辞世文に「代々甲冑の家に生れながら武林を離れ、三槐九卿に仕へ咫尺し奉りて」とあるので、青年期に京都で有力な公家に仕えたことは確かなようです。そこで習得した教養・知識が、その後の浄瑠璃創作に生かされたということでしょうか。伝承が正しいのであれば、その後信盛は大津・近松寺に入ったことになります。

天和3年(1683)加賀掾の一座で上演された「世継曽我」が評判になりました。作者名の記載はありませんが、近松作に間違いないとされています。貞享2年(1685)に書いた「出世景清」は近世浄瑠璃の始まりと云われるほどの画期的な作品でした。その後の浄瑠璃・歌舞伎作家としての近松の活躍は、ここで改めて述べるまでもないことです。

なお三井寺五別所のうちで創建時から場所を移動していないのは近松寺のみだそうです。三井寺は比叡山宗徒との対立抗争が激しくて、焼き討ちされることが度々あったようです。近松寺は別名に高観音とも云い、これは三井寺の観音菩薩の中で一番高いところに位置しているからだそうです。

*写真は令和元年12月10日、吉之助の撮影です。

*近松門左衛門のお墓は、尼崎・広済寺にあります。こちらへどうぞ。

 (R2・5・24)


 

 

 (TOP)        (戻る)