近松門左衛門の墓参り・尼崎市広済寺
近松門左衛門の菩提寺・尼崎の日蓮宗広済寺に行ってきました。 広済寺は阪急神戸線塚口駅の南東にあり、駅から歩いて10分くらいのところにあります
近松が亡くなったのは、享保9 年(1724)11月22日(72歳)のことでした。辞世の歌が二首あって、ひとつは
「それぞ辞世 さるほどにさても そののちに 残る桜が 花し匂はば」
浄瑠璃本は桜の木の版木に刷ったので、「桜が匂う」は作品が後世に残るという意味で、私の死後に残る作品があれば、それこそが私の辞世だということ。もうひとつは
「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間あだなる 朽木書きして」
残り火が消えるような人生の短い間に書いた作品が後世に残ってくれと思うのも愚かなことであるなあということ。作品に対する近松の愛着がしみじみ感じられますねえ。
下の写真は広済寺の門前。周辺は近松の町として整備されていて、近松記念館や近松公園があります。広済寺では、毎年11月22日前後の休日に近松祭を開催し、本堂にて追善法要をしてから、その後墓前で読経をするそうです。
どうして近松のお墓が尼崎の広済寺にあるのかと云うと、広済寺開山の日昌上人は広済寺を開山する前に大坂寶泉寺の住職をしていて、この寶泉寺から道頓堀までは約1キロくらいの近さなのです。つまり、近松が京都から大坂に移住し道頓堀の竹本座の座付作者となった保元2年(1705)から、日昌上人が広済寺へ移る正徳4年(1714)までの9年間、ふたりは大坂のすぐ傍で生活していたということです。日昌上人は、近松と親しかった尼崎屋吉右衛門の子で、その縁でふたりは親しくしていたということだそうです。近松は広済寺の開山にあたり「広済寺開山講中列名縁起」(享保元年九月)に名前を記しています。
近松のお墓として伝わっているのは 、この広済寺の墓の他に、もうひとつ大阪市中央区谷町の日蓮宗法妙寺跡地の墓があります。(跡地と云うのは後に法妙寺が別のところへ移転した為。)その後の研究に拠れば、どうやら広済寺の方が本墓で、法妙寺跡地の方は大阪の人たちが墓参に不便だというので、死後数年経って大坂の法妙寺に、広済寺とそっくりのお墓を別に建てたということのようです。(ただし異説もあります。)
近くには近松記念館・近松公園があり、広済寺周辺は近松の町として整備がされています。左の写真は広済寺の本堂で、その右手奥に近松のお墓があります。
当時、広済寺本堂裏には「近松部屋」と呼ばれた、六畳二間、奥座敷四畳半の建物があったそうで、近松はここで著作をしたと伝えられています。したがって日昌上人が広済寺に移った正徳4年(1714)以降の近松晩年の作品、例えば「国姓爺合戦」(正徳5年・1715)、「心中天網島」(享保5年・1720)、「女殺油地獄」(享保6年・1721)などは、広済寺の近松部屋で執筆されたのかも知れません。
下の写真は近松の墓石のアップ。比翼墓(夫婦の戒名を、一つの墓石に並べて彫る形式)です。近松の戒名「阿耨院穆矣日一具足居士(あのくいんぼくいにちいちぐそくこじ)と妻(俗名は不詳)の戒名「一珠院妙中日事信女(いちじゅいんみょうちゅうにちじしんにょ)」が並んで刻まれています。全然話題に出て来ないようだけど、近松には奥さんがいたのだなあ。何となく独り者みたいなイメージがあるのだが。そんなことに今更ながら気が付きました。
*弘済寺のサイトはこちら。*写真は、2014年11月28日、吉之助の撮影です。
(H26・11・29)