玉手御前の恋
〜「摂州合邦辻」
1)玉手の恋は真か偽りか
本稿では「摂州合邦辻」の玉手御前の恋について考えますが、まず結論から先に申し上げたいと思います。玉手御前の義理の息子・俊徳丸への恋はあくまで計略のための偽りの恋であり、彼女が本当に愛していたのは夫・高安左衛門尉道俊であったということです。本稿ではそのことを検証していきたいと思います。
玉手御前の恋は真なのか偽りなのか、これは役者にとっても解釈の分かれるところで、また工夫の為所ですから、さまざまな芸談が残されています。研究者の間では、古くは 吉之助が師と仰ぐ武智鉄二がフロイト流深層心理学的観点から、玉手御前は(芝居のなかでは「建前の恋」とされてはいるが)心の底では俊徳丸を愛しているのであるとしていました。その影響で現代においてはその視点から玉手御前の行動を読む傾向が強いようです。玉手御前の犠牲的行為は「心の底で」実は俊徳丸を愛していたからこそできることだというのです。これについては否定する気は毛頭ありません。「そういう見方もあるね」と申し上げます。しかし、正直に申し上げると、もしそのフロイト的解釈が正しいならば吉之助はこの「合邦」を好きになるわけにいかないと思っています。吉之助は「合邦」という作品が好きですので、吉之助にとっての玉手御前は清い女性でなければならないと 思います。そこで玉手の無実を証明すべくその行動を考えたいというのが本稿の根本動機であります。
まず玉手御前の父親である合邦道心について見てみたいと思います。合邦は自分のことを次のように言っています。
「もとおれが親は青砥左衛門藤綱といってな、鎌倉の最明寺時頼公の見出しに逢うて、天下の政道をあずかり武士の鑑と言われた人・・・」
青砥左衛門藤綱というのは、「弁天小僧」(「青砥稿花紅彩画」)の最後で弁天小僧が立ち腹を切る極楽寺山門の場面にも登場してくるお役人です。当然ながら、地位も 高く・人格も優れた「武士の鑑」と言われた ほどの人物です。合邦はそのような人物の息子であり、玉手はその孫娘であります。まず、このことを頭に入れて おいて欲しいと思います。それにしても、どうして合邦はこんな辺鄙な地に住んでいるのでしょうか。さらに合邦の述懐は続きます。
「俺が代になっても親の蔭大名の数にも入ったれど、今の相模入道殿の世になって侫人(ねいじん)共に讒言しられ、浪人して二十余年、世を見限っての捨坊主、このなりになってもな、おやの譲りの廉直を立て直した合邦」
つまり讒言によって鎌倉を追われ、今は捨坊主をしているけれども、今でも武士のこころは捨てていないと合邦は言っています。だとすれば、その信念のもと、合邦は娘を育て上げたに違いありません。そのような頑固一徹の合邦が、娘・お辻(玉手)のあまりの乱れように激怒して、ついに娘を刀で刺してしまいます。
やがて、玉手の告白によりその行動の秘密が明かされます。玉手は、高安殿の妾の子である次郎丸が、家督相続を狙って嫡子・俊徳丸を殺そうとしているのを知ります。後妻の玉手にとっては俊徳丸も大事だが・次郎丸もまた大事 な息子には違いない。そこで思案の末に「心にもない不義いたずら」を仕掛けて、一時的に俊徳丸を家の外に出したのだと言うのです。
しかし、合邦はこれを信ぜず、「それほど知れた次郎丸が悪事、なぜ道俊様へ告げぬぞい、たった一口言いさえすれば、癩病にする事も不義者にもならぬわい」とあざ笑います。
玉手は言います。「イエイエそりゃ父さんのご了見違い」、そのことを夫に知らせれば必ず夫は次郎丸を手討ちにするであろう、玉手のとっては俊徳丸も次郎丸も同じ義理の息子、自分が訴人して手討ちにさせては世間も立たないことになる。こうなれば「継子ふたりの命をわが身ひとつに引き受けて、不義者と言われ、悪人になって身を果たすが、継子大切・夫のご恩、せめて報ずる百分一」と玉手は言います。
この言葉についに合邦は心を開きます。そして、さらなる玉手の告白あり、「コレ申し父さまいな、何と疑いは晴れましてござんすかえ」と言われて、ついに合邦はすべてを納得して叫びます。「ヲイヤイ・ヲイヤイ」
この「ヲイヤイ・ヲイヤイ」は、浄瑠璃でも至難の箇所だと言われています。昔、三代目大隅大夫が初役で「合邦」を語った時のことです 。名人の二代目豊沢団平(大隈を徹底的に仕込んだ鬼の師匠であった)が三味線を弾いていたのですが、大隅が「ヲイヤイ」と言っても全然受けてくれなかったそうです。そこで続けてまた「ヲイヤイ」を言ったが、まだ受けてくれない。そこで「ヲイヤイ・ヲイヤイ・ヲイヤイ・ヲイヤイ」と立て続けに言って、しまいに気が遠くなってしまって、見台に頭をぶつけて五行本の上にゲロを吐いてしまいました。ここで大隅はふっと気がついて、あまりの情けなさに「ヲイヤイ」と叫ぶと団平がやっと受けを弾いてくれたと言います。
この話は山ほどある大隅大夫の芸談のひとつなのですが、この時の合邦の心理について大事な示唆を与えてくれます。この合邦の「ヲイヤイ・ヲイヤイ」という叫びは、娘の行動の秘密をついに理解した合邦が無実の娘を手にかけてしまった 自らの過ちを悟って・悲しさと情けなさであげる叫び声なのです。
この芸談でもわかるように、あの頑固一徹の合邦道心がついに心を開いて・血を吐くような思いで「ヲイヤイ」と叫ぶ以上は、娘お辻・すなわち玉手御前の無実は疑いようがないというのが 吉之助の確信です。それでも「深層心理・心の底では玉手御前は俊徳丸に惚れていた」というのならば、玉手御前は親を騙したことになります。そういうことは絶対にないと吉之助は信じます。
2)玉手御前の生い立ち
父・合邦に刺された玉手御前は、苦しい息の下で次のように言います。
「恋でないとの言い訳は、身をも放さぬコレこの盃、母の心子は知らず片思いという心の誓い、継子継母の義は立っても、さぞやわが夫(つま)通俊さま、根が賤しい女ゆえ見損うた淫奔(いたずら)者とおさげしみを受けるのが黄泉(よみじ)の障りになるわいの」
河内の国主高安左衛門通俊は年老いて妻を亡くしましたが、しばらくたって亡き妻の侍女お辻を後妻としました。これが後の玉手御前です。二人の息子とあまり年の違わない後妻でした。通俊がお辻を妻とする経緯はよく分かりませんが、たまたまお殿様の目にとまって後妻にしてもらえたお辻の側からすればこれは「この身に余る 光栄をどのようにしてお返しすべきだろうか」と考えるものだろうと思います。合邦の述懐(前述)で分かるとおり、合邦の家の血筋は立派なものですが、今の身分は浪人の捨坊主・つまり賤しい身分であって、その娘であるお辻が大名の後妻に納まるというのは、大変に名誉なことだからです。
次に、町人が武士に取り立てられるケースはままあったことですが、こうした場合、その人間はむしろ生まれながらの武士よりも「武士はかくあるべし」という倫理観が強いケースが多いと思われることです。彼はそれにより武士に取り立てられた訳ですし、そこに彼の武士としてのアイデンティティーが掛かっているからです。後妻の場合もそうで、子供を産んだことのない女性が結婚して母親を演じなければならなくなる場合、彼女は「母親はこうあるべし」という強い意識で子供に対して振舞うことになると考えられます。
このことは、「女忠臣蔵」の異名を持つ「加賀見山旧錦絵」で岩藤に辱められた恥を潔くとせず自害する尾上のケースであるとか、「忠臣蔵・九段目」での加古川本蔵の後妻・戸無瀬の娘・小浪に対する愛情のケースを考えてみれば分かります。尾上は町家出身であることが作品に書かれています。戸無瀬に関してはその出目は明らかではありませんが、饒舌でややざっくばらんな性格が「二段目」あたりで描かれていることから戸無瀬は町人出身であり・侍女としてお勤めしていたのが本蔵の目にとまり後妻に迎えられたのであろうという有力な説があります。
つまり、「武家の奥方はこうあるべし」・「武士の母親はこうあるべし」という人一倍強い倫理 観のもとに戸無瀬も玉手御前も行動していると考えるべきであろうと思います。
このような玉手御前の状況を考えますと、息子・俊徳丸に邪恋を仕掛けて毒酒を勧めて業病にしてしまうという行為は玉手御前にとってはこれしか考え付かな くて・切羽詰ってとった手段であったということ、これは素直に信じて良いことだと思います。それが夫・通俊のためを思った時の「最善の方法」であったのか・他に「もっといい方法」はなかったのかということは考えてみても芝居においてはあまり意味がないと思います。どう考えても、玉手御前の夫・通俊に対する思いは疑いようがないと吉之助は思います。
「さぞやわが夫(つま)通俊さま、根が賤しい女ゆえ見損うた淫奔(いたずら)者とおさげしみを受けるのが黄泉(よみじ)の障りになるわいの」、玉手御前がこう言う時、やはり玉手御前の愛しているのは夫・通俊であるということは素直に信じられることだと思います。それでもなお「深層心理では息子・俊徳丸が好きだっだんじゃない?」と疑うのはご自由ですけれど。
3)玉手御前の聖女のイメージ
以上の考察から、「合邦庵室」での玉手御前のイメージを整理していきたいと思います。別稿「玉手御前のもうひとつのイメージ」において、玉手御前の女武道と非人のイメージを考えました。また、別稿「哀れみていたわるという声」において、自らを犠牲にして愛するものを救い導く観音さまのイメージを考えました。 これらのことから考えられるのは、玉手御前はあえて邪恋・不義の汚名を着ることによって、愛する義理の息子・俊徳丸(あくまで「母親として息子を愛する」ということです)の危機を救い・苦難のなかから導きあげたということです。玉手御前にここまでのことができるのは、夫・通俊を愛しているからに他なりません。
玉手御前が邪恋・不義の汚名を着ることは人一倍倫理観が強い彼女にとっては耐え難いほどの恥辱だったでしょう。「根が賤しい女ゆえ見損うた淫奔(いたずら)者」と思われたままでは死んで も死に切れないと思うほどのものであったでしょう。しかし、「武家の妻として・母親として」息子を守り抜くためにはこの苦難・屈辱は耐え忍ばなければならないものでした。この「 苦難を耐え忍ぶ」という行為に、「花上野誉碑」の坊太郎の大願成就を願う侍女・お辻の女武道・水垢離のイメージが重なります。「邪恋・不義」の汚名を着ることは、玉手御前にとっては「非人」に墜ちるのと同然のものであったでしょう。また、説経「さんせう太夫」での厨子王のために水責め・火責めに合う姉・安寿のイメージが重なります。
このようなヒロイン・玉手御前の苦悩があるからこそ、愛する者が救われるという奇跡が起きるのです。これは、「しんとく丸」の乙姫・「おぐり」の照手姫の奇跡でもそうです。これが浄瑠璃説経の根底に流れる仏教的民衆信仰です。
業病にかかった俊徳丸の姿がついに再び元のさわやかな姿にかえる時、そこに浄瑠璃説経の奇跡・愛する者の奇跡が現出するわけです。しかし、その奇跡は時代を経て・どちらかと言えば儒教的な倫理観が強 くなっていた大坂の民衆には、本来の宗教的な生命力が感じられなくなっていて、グロテスクで・異教的なものにしか映らなかったかも知れません。浄瑠璃説経の思想は、安永の世(「合邦」の初演は安永2年)においては、そのような衰退した・疲弊した形でしか とらえられなかったのかも知れません。(まして現代においては!)
説経「しんとく丸」の世界では俊徳丸が放逐される理由は「邪恋」ではなくて、ある者の讒言がその原因であるとされているだけです。作者・菅専助は説経「しんとく丸」の世界には本来 はない・「邪恋」という仕掛けを持ち込んで、さらにグロテスクなものに筋を改変してしまいました。しかし、作者は最後の一線においてかろうじて踏みとどまって説経「しんとく丸」の根本思想を守り抜いています。その最後の一線において「合邦庵室」の感動はもたらされるのではないでしょうか。
谷崎潤一郎は随筆「いわゆる痴呆の芸術について」において、「合邦」の趣向のあざとさを非難する傍らで、しかし、「徳川時代の観客がこのようなカラクリに欺かれて観劇の涙を絞っていたのは怨すべしとしても、現代の我々が(私自身もふくめて)なお時として瞬間的惹き入られることがあるのは怪訝に堪えない」、あるいは「たとえば今は亡き梅玉の玉手御前のようなものは、合邦嫌いの私でさえも恍惚とさせられ、長く忘れることのできない印象を受けた」と正直に書いています。(別稿「谷崎潤一郎:東京と上方と」をご参照ください。)
「合邦」嫌いの谷崎でさえもそう書かざるを得なかったのは、まさに日本人のこころの奥底に流れている浄瑠璃説経の精神的な流れが、「合邦」の最後の場面において現出されるからに他なりません。その感動の源泉は玉手御前の「身を犠牲にして、愛する者を救い導く観音様」・聖女のイメージなのです。
(後記)
別稿「女武道としての玉手御前〜菊之助初役の玉手御前」もご参考にしてください。
*折口信夫:「玉手御前の恋」(折口信夫全集 第18巻 藝能史篇2)に収録。)
(H14・8・4)