谷崎潤一郎:東京と上方と
『けだし私はいつまでたっても東京人たる本来の気質を失わないであろう。従って私の観察は、やはりどこまでも「東京から移住した者」の眼を以ってすることになるであろう。』(谷崎潤一郎:私の見た大阪及び大阪人)
1)谷崎潤一郎の「痴呆の芸術」論
谷崎潤一郎が随筆「いわゆる痴呆の芸術について」を発表したのは昭和23年8月「新文学」誌上のことでした。谷崎がこの文を書いたきっかけについては、筆者が文中に書いています。当時話題になっていた辰野隆(ゆたか)の「文楽は痴呆の芸術である」発言に対して何か反駁論を書いてもらえないかと豊竹山城少掾が谷崎に懇願したことでした。その場に居合わせた武智鉄二によれば、山城少掾は「あれ(辰野の文章)を読むと、お前は阿呆だ、阿呆なことに一生をかけてと言われているようで生きた勢(せい)がしません」と谷崎に訴えたのだそうです。もっとも谷崎の書いた文はニュアンスは違えど文楽を痴呆の芸術と認めたも同然の文章で、山城少掾をすっかり落胆させることになってしまいました。
「いわゆる痴呆の芸術について」で、谷崎は文楽の脚本、特に「合邦庵室」の馬鹿馬鹿しさ・不自然さ・その筋のあくどさを徹底的に説いています。谷崎が言うには、こういう痴呆の芸術を子供に見せても「恐らくはただグロテスクなものを感じるだけで、そこにある奇形的な美を理解することは出来ないだろうし」、「ああいうものから誤った義理人情や犠牲的精神を教え込まれても困ると思う」、「これから育っていく人々に、ああいう芸術が日本の誇りであり、国粋的であるなどと思わせてはならない」ということです。
『返す返すも互いに相警(いまし)めたいのは、これは世界的だとか国粋的だとか言って、外国人にまで吹聴すべき性質のものではないことである。三宅周太郎氏は痴呆の芸術という代わりに白痴美の芸術と言っておられたが、まことにこれは我々が生んだ白痴の子である。因果と白痴では あるが、器量よしの、愛らしい娘なのである。だから親である我々が可愛がるのはよいけれども、他人に向ってみせびらかすべきではなく、こっそり人のいないところで愛撫するのが本当だと思う。』(谷崎潤一郎:「いわゆる痴呆の芸術について」)
この文章が書かれたのが昭和23年であることから推察されるように、戦争中に民衆に叩き込まれた「忠君愛国思想」への反発・嫌悪(あるいは反省)がこの文章ではあらわで、敗戦直後の日本人の精神状況が察せられます。しかし一方でそう言いながらも、谷崎は「徳川時代の観客がこのようなカラクリに欺かれて観劇の涙を絞っていたのは怨すべしとしても、現代の我々が(私自身もふくめて)なお時として瞬間的惹き入られることがあるのは怪訝に堪えない」、あるいは「たとえば今は亡き梅玉の玉手御前のようなものは、合邦嫌いの私でさえも恍惚とさせられ、長く忘れることのできない印象を受けた」とも書いています。
大谷崎にはそこのところをこそもっと掘り下げてもらいたかったと思うのですが、「作家・谷崎潤一郎」といえば吉之助にとって、名作「細雪」などで上方の伝統的な美に通じ「日本回帰」を作風にした作家というイメージなので、この「いわゆる痴呆の芸術について」を吉之助のなかでどう位置付けたらよいのか混乱して途方に暮れてしまいました。
谷崎潤一郎の随筆の代表作といえば「陰翳礼賛」(昭和8年)ということになりましょう。「美は物體にあるのではなく、物體と物體との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える」という文章は谷崎の「日本への回帰」を表明したものとされ、太平洋戦争へのめりこんでいく当時の時局にとって「日本回帰」というのはまた格好のキャッチ・フレーズになったのでした。しかし、作家篠田一士氏はこれについて「その後、谷崎文学に親しむにつれ、日本への回帰といった、軽薄な殺し文句は上っ面もいいところ、作者の真意を損なうこと甚だしいものと確信するに至ったのである」と書いています。
『作者は日本の生活様式だけを尊しとし、これを守りつづけるべしとは一言も口にしていないのである。伝統的な生活様式のなかに、どんな知恵、どんな美が見出されるにしても、それらは日一日と、くずおれ、消え去りつつあることを、なににもまして、レアリストの谷崎潤一郎が知らないはずはない。ただ彼は、そうして滅びゆくものを嘆く抒情には無縁で、むしろ滅びゆくものをいとおしみながらも、滅びゆくものは滅びるままにするしか仕方あるまい、それより来るべき新しき事態に対して、われわれ日本人はどのように対峙し、これに適応すべきかを明快に解き明かしたのが、「陰翳礼賛」の逆説的な真意なのである。』(篠田一士:岩波文庫「谷崎潤一郎随筆集」解説)
また作家の伊藤整氏は谷崎の随筆についてこのように言っています。
『生活人としての手堅さが、ああいうところでちょいちょい顔を出すのじゃないかね。まじめさというか、真心みたいなもの・・・。(中略)それは生活批評であって芸術批評じゃないよ。日本の文芸批判は、みな生活批評なんだな。それは生活批評になるのは必然だけれども、芸術作品が、それ自体として存在するためには、いかなる構造が必要だとか、いかなる効果が必要だとかということを、あの人(谷崎)くらい考えた人はないと思う。』(座談会「谷崎潤一郎論ー思想性と無思想性」:1953年10月「中央公論」文芸特集号)
「あれは生活批評であって芸術批評じゃない」というのは鋭い指摘です。このように考えると、谷崎が「いわゆる痴呆の芸術について」で書こうとした真意も少しは理解できるような気がしてきます。敗戦の混乱のなかで自信を喪失した日本人に対し、谷崎は「滅びるものは滅びてしまえ・滅びるものに涙する気持ちはあるが・しかし、我々日本人は生きなければならないのである」と言いたいのかも知れません。だとすると、谷崎の「陰翳礼賛」も「いわゆる痴呆の芸術について」も、坂口安吾の 「堕落論」や「日本文化私観」などと精神土壌が案外近いものらしいことに気が付いて驚きます。
2)「上方なるもの」のイメージ
それにしてもこの随筆に見える谷崎の文楽観には対象を突き放したような冷たさが感じられるようです。文楽を賞賛しつつも、賞賛する自分を冷静に分析し、文楽の肌触りを撫でるように観察する冷たい眼差しです。これは谷崎が東京生まれで、上方育ちではないことがあるようです。本稿は谷崎文学論のような大げさなものにするつもりは毛頭ありませんが、ちょっとその辺りを考えてみたいと思います。
谷崎潤一郎は明治19年東京・日本橋の生まれです。その谷崎が関西へ定住するきっかけは大正12年の関東大震災でした。谷崎は一時逃れのつもりで関西に避難したのですが、そのまま関西に居つくことになります。関西定住によって作家谷崎はそれまでの西洋的・近代的なものを好んだその作風を一変させて、日本的・古典的なものに変容させていったと言われています。そのきっかけは、文楽体験と根津松子(後の谷崎夫人)との出会いであ ったとは文学研究者の指摘するところです。
「蓼喰ふ虫」(昭和3年12月から昭和4年6月まで大阪毎日新聞に連載)には次のような文章が見られます。
『梅幸(六代目)や福助(五代目)のはいくら巧くとも「梅幸だな」「福助だね」という気がするのに、この小春は純粋に小春以外の何者でもない。俳優のような表情のないのが物足りないといえばいうものの、思うに昔の遊里の女は芝居でやるような著しい喜怒哀楽を色に出したりはしなかったであろう。元禄の時代に生きていた小春は恐らく「人形のような女」であったろう。事実はそうでないとしても、とにかく浄瑠璃を聴きに来る人たちの夢見る小春は梅幸や福助のそれではなくて、この人形のような姿である。昔の人の理想とする美人は、容易に個性をあらわさない、慎み深い女であったのに違いないから、この人形でいい訳なので、これ以上に特長があってはむしろ妨げになるかも知れない。昔の人は小春も梅川も三勝もお俊も皆同じ顔に考えていたかも知れない。』(「蓼喰う蟲」第二章)
梅幸も福助も東京の役者です。東京に住んでいる時代に、谷崎は梅幸や福助の舞台をよく見たのでしょう。しかし、谷崎にとっては、元禄の時代に生きていた小春も梅川も三勝もお俊も「梅幸や福助のように」生きていた人間ではなくて同じ顔の「人形」で良かったということなのでしょう。つまり、それは「概念としての女」であって肉体を持っている必要はないということなのです。
『ふと要は、ああいう暗い家の暖の簾のかげで日を暮らしていた昔の人の面ざしを偲んだ。そういえばああいう所にこそ、文楽の人形のような顔立ちを持った人たちが住み、あの人形芝居のような生活をしていたのであろう。どんどろの芝居に出てくるお弓、阿波の十郎兵衛、順礼のお鶴などというのが生きていた世界はきっとこういう町だったのであろう。現に今ここを歩いているお久なんかもその一人ではないか。今から五十年も百年も前に、ちょうどお久のような女が、あの着物であの帯で、春の日なかを弁当包みを提げながら、やっぱりこの路を河原の芝居へ通ったかも知れない。それとも又あの格子のなかで「ゆき」を弾いていたかも知れない。まことにお久こそは封建の世から抜け出してきた幻影であった。』(「蓼喰 ふ虫」第十章)
「蓼喰ふ虫」の主人公斯波要は、そのような「概念としての昔の女の面差し」を懐かしみ、そしてその幻影を現実の女性に照射しようとします。その繊細な筆致のなかに、「上方生まれの作家」にはとても書けない分析的な眼が感じられるような気がします。谷崎は理性で上方の感性を「理解」しようとしており、自身の生来の感性とはちょっと色合いが違うことを十分に意識しています。そして、その違いを楽しみ・味わおうとしているような気がします。谷崎の愛したのは、上方ではなくて概念(イメージ)としての「上方なるもの」だっだのかも知れません。
3)東京人・谷崎潤一郎
『が、そうはいっても、これらのいわゆる痴呆の芸術は、ある一部の人が予期するようにそんなに訳なく滅び去ることはないかも知れない。歌舞伎の場合は、何と言っても我々日本人でなければ現せない官能美の世界を持っているので、なお暫くは我々に対して魅力を失わないであろう。例えば今は亡き梅玉の、京都での最後の舞台であった去年の顔見世の玉手御前のようなものは、合邦嫌いの私でさえも恍惚とさせられ、長く忘れることの出来ない印象を受けたが ・・(後略)』(谷崎潤一郎:「いわゆる痴呆の芸術について」)
谷崎には「それでも日本人惹き付けてやまない「痴呆の芸術」の魔力とは何か」という所を突っ込んで欲しい・そこにこそ問題を解く鍵があるはずだと思うのですが、谷崎はそこまでは突っ込みません。いや「突っ込もうとしなかった」のです。
この随筆「いわゆる痴呆の芸術について」に見える谷崎の姿には、自分の愛する物を斬り捨てるような「つらさ」・自己否定の苦しみがあまり読み取れません。谷崎は「斬り捨てるのは惜しい」とは思っているようですが、斬り捨てて自分の本質が否定されることになるとは考えていないようです。恐らくは谷崎はそうした自分の態度に気が付いていたのではないでしょうか。だから谷崎は意識して「突っ込もうとしなかった」ように感じられ ます。
それは谷崎が自分が「上方の人間」ではないことを知っていたからだと感じます。ここにあるのは、「上方における客人・東京から移住して来た人間」の目です。そうである以上、「東京人」である谷崎が「痴呆の芸術」にとりつかれていく自分を冷静に分析していけば、それは自己矛盾を起していくことになります。それを避けるためには客人「東京人」のままで距離を置いていたほうがいい・そこまで大阪人の感情を分かりたくはない、そんな現実的な感覚が働いているよう です。
誤解していただきたくないので付け加えますと、「東京人・谷崎潤一郎には文楽の本当の魅力が分からない」と書いているわけではありません。しかし、「東京」と「上方」の 感性の違いというのは、やはり「生まれながら」の壁があるのは事実で、これを乗り越え・理解するには「理性の介在(頭で理解する部分)」も多少は必要になってくるというのはやはり確かなことなので す。
大変興味深い事実ですが、谷崎に「痴呆の芸術についての反論を書いてくれ」と頼んだ豊竹山城少掾 も東京の生まれでありました。山城少掾は、明治11年(1878)東京・浅草の生まれです。ただし、母親が大坂の生まれで、その縁から山城少掾にとって幼い頃から「上方」は親しいものであったのでしょう。山城少掾の芸風は理知的であり、徹底した丸本読みに基づいた原典主義でした。観客の受けを狙うような派手で技巧的な芸風ではありませんでした。義太夫の好きな人には山城少掾の芸風を「理詰めで地味で面白くない」と言って嫌う人もおります。その当否はともかく山城少掾が「東京生まれ」という事実とその理知的な芸風は無関係ではない と思います。
逆に大阪生まれである批評家武智鉄二が山城少掾を尊敬して・津太夫を否定する、東京の役者である六代目菊五郎を尊敬して・大阪の名優初代鴈治郎を否定するのも、逆説的な意味で理解が出来るような気が します。つまり、大阪に「ないものを求める」というか「憧れる」ということであり、その反動として大阪的なものを嫌悪し攻撃しようとします。それと逆なことが谷崎潤一郎にも言えるように思われます。谷崎が「上方に惹かれていく」自分を若干おぞましく感じていることを告白していることは、とても興味深いと思います。
谷崎は、『京阪人の欠点について辛辣な悪口を飛ばすことがあるとしても、それは長年厄介になっている土地の人への老婆心であり、忠告である』(「私の見た大阪及び大阪人』)と書いています。谷崎は京阪人に嫌われるのも承知で、東京人としての自分の感覚を正直に吐露したのでありましょう。
(H14・7・14)
(追記)
今回の文章は、東京の人には義太夫は分からんと書いているのではございませんので、くれぐれも誤解ないようにお願いします。ただ吉之助も関西生まれでありまして、わが師・武智鉄二同様に吉之助もどちらかと言えば上方臭いのは嫌いで、歌舞伎でも音楽でも理詰めの芸風が好きなのは、恐らく関西生まれの「ないものに憧れる」ということなのかも知れないと思っています。逆説的な意味で吉之助の感覚も谷崎に似たところがある訳なのです 。
なお、本稿と合わせて別稿「玉手御前のもうひとつのイメージ」をお読みいただければ、「摂州合邦辻」への理解の助けになるかと思います。