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リサイタルのその先〜アリス=紗良・オット・プロジェクト・2023


本稿は多分別稿「五代目玉三郎のこれから」(玉三郎プレミアム・ショー)、それと(アンドラーシュ・シフのリサイタルについて触れた)リサイタルのこれから」の続編ということになるかも知れません。先日(11月30日)にすみだトリフォニーホールでのアリス=紗良・オットの「エコーズ・オブ・ライフ」のプロジェクトを聴いてきました。これは"リサイタル"と呼ぶよりも"プロジェクト"と呼ぶ方が相応しいもので、ご本人もトークのなかで"プロジェクト"と呼んでいましたので、本稿でもそう記することにします。アリス=紗良・オットはこれまでも「古典」(いわゆるクラシック音楽とされる馴染みある作品)と現代曲を組み合わせたCDをいくつか出しています。だから別に驚きはしないのですが、今回来日公演の「エコーズ・オブ・ライフ」のプロジェクトは、なかなかユニークなスタイルでありました。フレデリック・ショパンの24の前奏曲・作品28の間に、7曲の現代作曲家の小品を挟み込んだ、まったく新しく構成し直した「エコーズ・オブ・ライフ〜31の小品集」とでも呼ぶべきものを休憩なしの約70分で演奏し、さらにトルコの建築家ハカン・ダミルが制作した映像をオットの生演奏にシンクロする形で舞台上のスクリーンに映写するというやり方でありました。

「前奏曲」という形式は、もともとは本編に対する導入部を意味しました。だから本編なしでは成立しなかったのです。しかし、19世紀半ば頃にひとつの楽曲形式として独立することになった時、「前奏曲」は一見完結した形を見せながらも、形式的と云うよりも気分的にと云うことでしょうが、やはりどこかに解決しない要素を孕むものなのです。つまり「然り、だけれど・・」と云うことです。破綻と云うか・疑問と云うか・余白と云うか・余韻と云うか、いずれにせよその後に更なる展開や転生を予感させるものです。この点まことに浪漫的な形式であると云えます。

「24の前奏曲・作品28」は、1839年1月ショパンがマジョルカ島に滞在していた時に作曲されました。この時期ショパンは既に健康状態が悪化していました。ちなみに1839年とは日本で云うと天保10年ですから、ショパンは江戸時代の人なのです。(ちなみに天保11年が「勧進帳」初演の年です。)「24の前奏曲」作曲中ショパンはピアノの上にいつもバッハの平均律クラーヴィア曲集の楽譜を置いていたそうです。また一説には、ショパンは24の曲(欠片・ピース)を数年掛けてバラバラに作曲した後に、これらを或るインスピレーションで配列し直したものと考えられています。このことは吉之助のなかで常に引っかかっていることで、「24の前奏曲」全体を聴く時にはこれをいつもバッハを念頭に「古典的な」感覚で捉えたいと思っています。ただしこれは「前奏曲」ですから24曲で完結するのではなく、24曲全体で以てさらに大きな余白が予感されることになるでしょう。

ところでいつぞやショパンの自筆原稿を見たことを書きましたけれども、その時に思ったことは、ショパンの創作がフト思いついた旋律を書き留めて・また思い直してやめるという試行錯誤がわりと軽いタッチで、流れるが如くに作曲が進められていると云うことです。髪をかきむしり・ウンウン唸りしながら「ここはこの旋律しかあり得ない」という感じで論理的に作曲を進めるのではなく(ベートーヴェンなどはそんなイメージですが)、ショパンの場合には、「この時はたまたまこうなっちゃったんだけど、別の時に作曲していたならば、また違う展開もあり得たかもね」とでも言いそうな「軽やかさ」がある。そう書くと一時の気まぐれと思い付きで書いているみたいに聞こえるかも知れませんが・そうではなくて、直感か感性か分からないが、やはり「ここはこれしかあり得ない」ものが選ばれていることは明らかなのです。そのようなことは、同じショパンでもピアノソナタよりも「24の前奏曲」の方により強くそれを感じますねえ。

例えばショパンが別々に作曲した24の欠片(ピース)を或る時点でインスピレーションで以て配列し直して「24の前奏曲」を編んだのは確かなことでしょうけど、もしかしたらその時に用意された欠片は24ではなくて・もっと沢山あったかも知れないなとも想像するのです。採用されなかった欠片は他の曲に転用されたり、或いは捨てられたものもあったかも知れませんが、まあ人生に於いても、過去を振り返ってみれば、あの時にやりたくても事情があって出来なかったことや、あの時にこうしていれば良かれ悪しかれ・その後の俺の人生も変わっていたかもなあと思うことが沢山あるものです。いろんなところで挫折や諦めや選択・決断を繰り返すものです。そうやって人生のラインが連なって行く。ショパンの「24の前奏曲」の配列プロセスにおいても、そんなことが行われていたのであろうと考えます。

そんなことなど考えるのは、普段吉之助が「24の前奏曲」を聴く時にはどちらかと云えば努めて文学的イメージを排除するようにしているのですが、今回のオットの「エコーズ・オブ・ライフ」ではむしろそれが奨励されていると云うか、それともオットの生演奏と映像に触発されたと云うべきか、そんな文学的イメージが思いがけず吉之助のなかに自然に湧いて来たからでした。「エコーズ・オブ・ライフ」の始めの方ですが、前奏曲第3番ヴィヴァーチェの軽やかな音楽の動きが、前奏曲第4番ラルゴでちょっと哀しみを含んだ静かな歩みに変わる、この後に挿入されたジョルジュ・リゲティの現代曲「インファント・レべリオン」(”幼い反乱”の意)第1曲のたった一つの音を鋭く叩きつけるように(幼児が鋭く”No”を叫ぶかのように)いろんなリズムで構成された小品に繋がり、さらにそれが前奏曲第5番アレグロモルトの流れるように爽やかな調べに変わる、その連なりのなかに表情が刻々と変化して・興味がひとつに定まることがない幼児の行動が浮かんで来たりして、ホウなるほどなあ・・と思いました。私事でありますが、現在3歳になる孫娘のことなどちょっと思い浮かべました。人それぞれの思いのなかでそんなことを思い浮かべるのを、この「エコーズ・オブ・ライフ」はごく自然に促していたと思いますねえ。そうしてみるとハカン・ダミル制作の映像も人気(ひとけ)のない建築群を延々と映し出して具体的なメッセージ性は意識的に排除していたようですが、何となく人生の誕生から幼少期・少年期・思春期・青年期・壮年期・老年期・そして死という過程を追っていた感じがしました。もちろんそれ以外のイメージを受けても・それはその人なりのことで・それでよろしいわけです。

不思議だなあと思うのは、ショパンによって完璧な配列に並べられたはずの「24の前奏曲」に7曲の現代作曲家の小品を組み合わせる、全体の最初と最後と・それと五か所に現代曲を挿入して計7曲、これによってショパンの「完璧さ」が破壊されたはずなのだが・結果そうならずに、新たな「エコーズ・オブ・ライフ〜31の小品集」に見事に再構成されたことです。古典と現代とが組み合わせることの違和感みたいなものはもちろんあります。それがなければそもそもコラボレーションは意味を為さないわけで、互いが互いを主張し合うことがほど良い具合で行っていたということです。と云うか、ショパンの音楽の先進性ということを改めて思いますね。例えば前奏曲第9番ラルゴと第10番アレグロモルトとの間に挟まった、ニーノ・ロータのワルツ(草原がどこまでも青かった頃)などは「これはショパンの曲だ」と言われれば「そうか」と納得しそうな優美な曲で、それが中間部辺り(第9番と第10番の間)に置かれたから有効だということです。

吉之助は「24の前奏曲」を折に触れていろいろな演奏家で聞くことが多いので曲の流れが大体頭のなかに入っていますから、「エコーズ・オブ・ライフ」のなかで曲が現代曲からショパンに変わると、何だか「元に戻って行く」という感覚がしました。「エコーズ・オブ・ライフ」のなかで「24の前奏曲」が基盤になっているのでしょうねえ。そのせいかオットのピアノもショパンの「24の前奏曲」の部分に関しては抑制された・内省的で古典的な趣であったと思います。彼女の「ワルツ集」(2009年8月録音)の時の伸び伸びしたピアノとは多少趣が異なっていたのではないでしょうか。そこに彼女の2009年から2023年の歳月の経過があるのかも知れませんね。

アリス=紗良・オットが「エコーズ・オブ・ライフ」プロジェクトを
語ったインタビュー映像。(日本語字幕付き)

ところで今回(2023年11月30日・すみだトリフォニーホール)の「エコーズ・オブ・ライフ」では、冒頭と最後で(主としてプロジェクトの趣旨についてでしたが)オットの短いトークがありました。吉之助はオットのインタビュー映像は彼女が最初の挨拶だけが日本語で・あとはドイツ語か英語でしゃべるものしか見たことがなかったので、今回彼女がしゃべる日本語が完璧なのを聴いてちょっとビックリしましたが、論理的にしっかりしゃべれているところはさすがに欧州育ちですね。(日本育ちの演奏家もこんな感じでしゃべれるようにならないといけないと思います。)

その時にオットが今回の「エコーズ・オブ・ライフ」を発想したのが2021年春欧州でのコロナ・パンデミックでの外出規制期間中のことであったということを語っていました。ここで玉三郎やアンドラーシュ・シフの試みを思い出すわけですが、これらもコロナと無関係ということは決してないのです。客席と隔てられた舞台の上でただ決められたプログラムを予定通りに黙々と弾くと云うのではなく、芸術家が自らのパーソナリティを押し出して聴衆との心の交流をもっと大事にしたいと云う欲求は、コロナ以後ますます強くなっているのだろうと感じますね。「エコーズ・オブ・ライフ」も本来はもう少し小さ目のスペースを志向しているのだろうとは思います。交流のやり方は人それぞれのことですけど、今回のオットの「エコーズ・オブ・ライフ」はそのようなこともいろいろ考える良い機会となりました。

(R5・12・7)





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