リサイタルのこれから〜アンドラーシュ・シフ・ピアノ・リサイタル・2023
1)トーク形式のリサイタル
本稿は多分別稿「五代目玉三郎のこれから」の続編ということになるかも知れません。先日(10月1日)にミューザ川崎でのアンドラーシュ・シフのピアノ・リサイタルを聴いてきました。このリサイタルはユニークな形式で、事前にプログラム(曲目)を発表することはせず、シフ本人が当日のリサイタルでトークをしながら曲を紹介し・その曲を弾くという形式を取りました。シフはこれを、「コロナ以後の時代の・新しいリサイタルの形」と云うようなことを語ったそうです。
事前にプログラム(曲目)を発表しないと云う形式自体は昔もなかったわけでなく、例えば晩年のスビャトスラフ・リヒテルがそうでした。(もっともリヒテルはトークはしませんでしたが。)これはご本人の神経質な性格も起因したと思います。吉之助はリヒテルでショパンを聴きたかったのだが、当夜行ってみたら発表された曲は吉之助にまったく馴染みのない曲で、ひどくガッカリした記憶があります。シマノフスキのピアノ・ソナタであったかなあ・・今考えれば貴重な体験ではありましたが。まあ事前に曲目が分かっている方が切符を買う側(聴衆)としては安心である。曲目が知れないと・ちょっと躊躇う・と云うか何が飛び出るか緊張してしまう・・しかし、まあそんなところもシフの意図にはあったのかも知れませんねえ。リサイタル直前には・どんな場合もピアニストは緊張するものです。聴衆の方だってちょっとは緊張してもらいたいね・・そんなところはあったかも知れません。
実はこの形式はシフの来日公演では初めてのことではなく、昨年(2022)来日の時にもそうだったのです。しかし、曲目が何になるか分からなかったので、昨年は吉之助はシフのリサイタルに行かなかったのです。(リヒテルでの経験がトラウマになって尾を引いているのです。)その時のリサイタルでは、シフはトークを交えながら10曲ほどを弾き、時間は休息を含めて3時間半掛かり、夜7時開演で終演は10時半を過ぎたそうです。初台の東京オペラシティのリサイタルでこうだと、吉之助は帰りの電車が心配になって・最後の方は途中で席を立ったかもしれません。
それじゃあ本年(2023)シフ来日公演はどうして行ったのかと云うと、10月1日のミューザ川崎でのリサイタルは5時開演予定であったので、3時間半掛かっても帰りの電車は大丈夫だということだったので、安心して切符を買うことにしたのです。曲目が何になるかは依然として不安でしたが、結果的には、ロマン派中心のラインナップで、ブラームスの晩年の間奏曲、シューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」、メンデルスゾーンの「厳格な変奏曲」が並ぶということで、吉之助にとってはラッキーなことでした。(この稿つづく)
(R5・10・21)
2)コロナ以後のリサイタルの形
このトーク形式についてシフ自身は次のようなことを語ったそうです。
『コロナ・パンデミックの辛い時期にいろいろなことを考えました。クラシック音楽にはどんな未来が待っているのでしょう?予測可能なコンサートは良いことなのか?私たち演奏家にとっても、その日その会場、楽器によって条件が変わることすから、曲目の選択もそれによって自発的であるべきです。トークを交えることで聴衆と演奏者との壁を取り払えるのではないか。』(アンドラーシュ・シフ:2022年来日公演プログラム掲載のインタビュー)
事前にプログラム(曲目)を発表せず・演奏者が当日のリサイタルでトークをしながら曲を紹介し・その曲を弾く形式をシフが「コロナ以後の時代の・新しいリサイタルの形」と呼ぶ意味は、なるほどそう云うことかと気付かされます。
日本でコロナ・パンデミックが騒がれ始めたのは、2000年(令和2年)初めのことでした。2月の歌舞伎座での公演はどうにか行われましたが、各地の音楽会や演劇で関係者や観客の罹患のため中止が続発しました。2月26日には政府がスポーツ・文化イベントの開催自粛を要請する事態となり、3月の歌舞伎座の公演も全日程が中止になってしまいました。それでもみんなこの騒ぎも夏くらいには収まると考えていたと思います。世界的なパンデミック騒ぎがこれから3年近くも続くことになろう(今もまだ続いている)とは誰も想像しなかったと思います。
このような大変な時期にシフはちょうど来日中で、一部のリサイタルを中止せざるを得ませんでした。そこでシフは、残念ながらリサイタルを聴けなかった人のために、急遽インターネットのライヴストリーミングで無料のトークと演奏を行なうと発表して、3月14日午後8時にそれが行われました。時間は1時間ほどでしたが、シフの朴訥で暖かい人柄が伝わるいいイベントでありました。おそらくこの時の経験が元になって、現在の「新しいリサイタルの形」が生まれたのでしょうねえ。(この稿つづく)
*吉之助は当夜のイベントをライヴで聴きましたが、今調べたら、当夜の模様がYoutubeにアップされて聴けるのを見付けました。興味ある方は是非覧ください。通訳はシフ夫人である(ヴァイオリニストの)塩川悠子さん。曲目はバッハ・バルトーク・ブラームスの小品と、ベートーヴェンの告別ソナタ。(2000年・令和2年・3月14日・東京KAJIMOTOスタジオ。) なおシフのトークと演奏は映像20分頃からです。
(R5・10・24)
3)リサイタルのこれから
今回(2023年来日リサイタル)のトーク形式は、概ね好評のようでした。吉之助もシフ個人の「おもてなし」感覚が伝わってくるアット・ホーム的な感触を好ましく思いましたが、一部の方からは・音楽をよく知っている方からも、「ちょっと長過ぎた」とか「いささか疲れた」という声がないわけでもなかったようです。まあリサイタルは音楽を聴きに行くもの・拝聴するものと云うスタンスであるとトークは不要であろうし、シフの語り口(英語でしたが)は訥々ボソボソで・軽妙とは言えないものなので(加えて通訳の方はシフのご友人ということで専門の方ではなかったようで)、聞いていて疲れたというご感想も分からないことはないです。ともあれシフ自身は今回来日プログラムのなかで次のように語っています。
『近い将来、多くの演奏者たちが、この新しい形のリサイタルを行うことになると思います。何にもとらわれない自由な音楽表現が可能になりますし、演奏会が、より予測の難しい自発的な催しになるからです。(中略)今回も聴衆の皆様へ語り掛け、舞台と会場の間にある壁や柵を壊します。そうすることによって、お互いが、より親密になれるのです。』(アンドラーシュ・シフ:2023年来日リサイタル冊子)
ここでシフが強調することは、トーク形式によるリサイタルで、聴衆との心の交流を強く求めていると云うことです。これはコロナ以後の、将来の予測がまったく難しく、人と人との心の繋がりが希薄になっている時代であるからこそ、そうなるのです。シフがこれを「コロナ以後の時代の・新しいリサイタルの形」と云うのは、そのような意味です。そういう意味ではまあシフの「おもてなし」に向かない人が出ることも多分織り込み済でしょう。
このようなシフの試みは、先日(9月)南青山BAROOMで玉三郎が試みた「坂東玉三郎 PRESENTS PREMIUM SHOW」と似たようなものであろうと察せられます。ミューザ川崎は1,997席です。恐らくシフの意図を徹底しようとすれば、会場はもっと規模が小さいホールで行うことが望ましいでしょう。しかし、採算性という問題が裏腹に付きまといますが。BAROOM公演で玉三郎も「BAROOMは100席、ここで20日間公演して・これでやっと歌舞伎座の昼の部1回分の人数です」と言っていました。しかし、「おもてなし」感覚を大事にしようとすれば、こういう試みはやはり小規模の会場の方が望ましい。或いはいっそのこと・やり方によっては・時間も場所も飛び越えて・ネット空間の方が相応しいようにも思われます。
吉之助は思うのですが、もともと往来や広場みたいなオープンな空間で行われていた芸能が、箱のなかの額縁(舞台)に収まって・客席との間に境界を設けて・大人数で鑑賞するなんてことになったのは、そうそう昔のことでないわけです。歌舞伎で云えば概ね江戸中期以降、西洋のクラシック音楽でも大ホールで演奏会を行うのは産業革命以降のことだと思います。次第に箱のサイズが大きくなって・それがピークに達したのが現在。芸能が元々行われていたサイズへ回帰しようとするのは、或る意味必然のことかも知れませんね。
現代アングラ演劇は小空間での開催が主流です。これは採算性(役者さんの生活がかかっている)という問題が付きまとうから妥協点を見出すのは容易なことではありません。やはり観客動員というのは興行では大事なことではあるのですが、それにしても、大劇場に大勢の観客を一か所に集めてイベント的に興行を行う形態は、もしかしたらどこかに綻びが生じ始めているのかも知れません。空席が目立つ昨今の状況を見ると、歌舞伎座(1、964席)での興行も微妙な段階に入っているのかなとも思えるのです。箱の大きさが、今後の歌舞伎の足枷になってくる不安がある。このような時期にBAROOMでの玉三郎の試みは示唆あることだと思います。
(追記)別稿「コロナ以後の歌舞伎〜歌舞伎は今必要とされているのか?」もご参考にしてください。
*当日の演奏曲目
J.S.バッハ:ゴールドベルク演奏曲 BWV988から「アリア」
J.S.バッハ:フランス組曲第5番 ト長調 BWV816
モーツアルト:アイネ・クライネ・ジーグ K.574
ブラームス:3つのインテルメッツォ op.117
ブラームス:インテルメッツォ イ長調 op.118-2
シューマン:ダヴィッド同盟舞曲集 op.6
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J.S.バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903
メンデルスゾーン:厳格な変奏曲 二短調 op.54
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 二短調 op.31-2 「テンペスト」
(アンコール)
J.S.バッハ:イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971から 第1楽章
モーツアルト:ピアノ・ソナタ ハ長調 K.545から 第1楽章
シューマン:「子供のためのアルバム」 op.68から「楽しき農夫」(R5・10・29)