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四代目清六・山城少掾との訣別

〜芸の伝承と稽古の難しさについて考える


1)四代目清六・山城少掾との名コンビ解消

本サイト舞台の足取りについて考える」において、「丞相名残」の足取りのことで、豊竹山城少掾が「丞相さんが先を歩いてはる」と言って相方の四代目鶴澤清六の三味線に厳しい苦言を呈した話に触れました。「この人(清六)は若いし、まあ達者には弾きますけどね。」と当の清六を横にして言う山城少掾は冷たい奴という風に感じられたかも知れません。たしかに山城少掾は芸にたいへんに厳しい人でした。給金のことで相談に来た人にも「まず芸を磨くこと。芸が良くなれば給金は自然についてくるものだ」と言って取り合わなかったそうで、そのせいか「人間的に冷たい」という風評も少なくなかったようです。

四代目清六が山城少掾の楽屋を訪ね、「今月限りで合三味線を辞退させていただく」とコンビ解消を告げたのは昭和24年(1949)10月3日の夜のことでした。二十七年もの間、数々の名演を送り出してきたこの名コンビの訣別は関係者に大きな衝撃を与えました。各方面の有力者たちが説得に乗り出しましたが、清六は頑として応じず、結局、清六は文楽座を脱退し、山城少掾は引退まで鶴澤藤蔵を合三味線とすることになります。

「実は今日まで忍んで来たのですが近頃は私を無視されたような行いに思い切って分かれることにしました」という清六本人の談話が新聞に載りましたが、「(自分を)無視されたような行い」というのが具体的には何を指しているのかが分かりません。なぜこれほどまでに清六が山城少掾との訣別を思い詰めるに至ったのかはよく分からないままなのです。

有吉佐和子の小説「一の糸」は三味線弾き徳兵衛に後妻で嫁いだ茜という女房の目から見た芸道の物語です。この小説のなかで徳兵衛が宇壺大夫の合三味線を辞退するという場面が描かれています。小説の宇壺大夫という名前が古靭大夫(こうつぼだゆう・山城少掾の前名)をもじっているのは明らかで、徳兵衛のモデルは清六ということになります。この小説がどのくらい事実を取り入れているのかは分かりません。しかし、小説にあるように、清六が山城少掾の新聞談話(「当代清六は先代とは大違いだ」と言ったという)を読んで激昂したという噂がありましたし、清六夫人の発言が二人の不和を大きくしたとも世評では言われていたようです。

「(自分を)無視されたような気持ち」に清六が陥っていたというのは、想像するに、長年合三味線を勤めてきた古靭大夫が芸術院会員に選出され(昭和21年10月)、さらに山城少掾の掾位受領(昭和22年3月)、昭和天皇の文楽座行幸と天覧(昭和22年6月)と脚光を浴びていくなかで、どうも合三味線の清六は取り残されていくような寂しさを感じていたのではないか、と思えるのです。そういう風に清六が感じたのは、この世界での三味線弾きの地位の低さというのも関係しているようです。実際、文楽でスポットライトを浴びるのは大夫ばかりで、三味線は給金も比べ物にならないほど当時は低かったようです。

しかし給金のことなら清六は我慢できたのではないかと思います。(事実、清六は二十七年間我慢したわけですから。)原因は清六が「芸の上でのことならならぬ我慢もするが、舞台を下りれば俺も対等の人間だ」と思い始めたことにあったようにと思います。実際、大夫にとって合三味線はまさに女房役です。しかし山城少掾にとっては「女房」と言っても、それは男女同権の時代以前の江戸時代の女房役であり、芸に決して満足しない山城少掾にとっては「女房にいちいち礼なんぞ言えるか」という気分であったかも知れません。だが、当の女房の方は現代に生きていてそうは感じていなかったということであったようです。有吉佐和子は小説のなかで茜という女房の目を通して、こうした清六の心理を描き出したかったのかも知れません。

先に挙げました「丞相名残」の件にしましても、何かにつけて先代を引き合いに出し、芸を叱るのに頭ごなしに人格を否定するような言い方が清六にはこたえたのだろうと思います。(この「丞相名残」の件は山城少掾も新聞談話で触れていて確かに山城少掾にとっても印象深い事件であったようです。)こうした積み重なりが清六に鬱屈したかたちで蓄積していったのだろうと思います。つまり芸というもののあり方が二人の間で違っていたということだと思います。清六にとっては三味線は大夫と同等であり、互いの芸の対等なぶつかり合いで作り上げていくべきものと考えていたのだろうと思います。この名コンビの解消劇は、昔風の芸人気質の山城少掾と今風の芸術家気質の清六の意地の張り合いということであったようです。これは、戦後の民主主義と男女同権の風潮、労働争議の増加(文楽座も組合運動により後に分裂することになる)といった流れにも大きく影響された事件であったと思います。

この名コンビの訣別については「清六の芸のうえでの我慢が足りなかった・清六の芸に対する謙虚さが足りなかった・何故もう一度修行させてくださいと言えなかったのか」というように、清六に対して厳しい意見が世評では多いように思います。また山城少掾と分かれた後の清六の芸は「急速に精彩がなくなった」と評されることも多いようです。


2)芸の伝承と稽古の難しさを考える

しかし五十年後の今、この名コンビの訣別のことを考えますと、山城少掾がいろいろな場面で「自分がここまでこれたのも女房役の清六の支えがあってこそ」とでも言っていれば、このコンビ解消はなかったように思われるのです。甘いようですが、どうもそれだけのことだったように思われるのです。「それだけのこと」なのですが、五十年前に起きたこの事件は、その後の芸というもののあり方を考える時に重要な問題を含んでいるように思います。

現代ではもはや、芸がすべてで他のことは何も知らないような「芸阿呆」は存在できなくなってしまいました。「芸のためだ」という名目で、家族を泣かせたり、他のすべてを犠牲にすることなど考えられなくなってしまいました。また御曹司連中が三階役者をいじめてまわるようなことが許されるような時代でもなくなりました。そのような時代には「芸」というものありようも変化せざるを得ません。ひとり一人の人格が尊重され「芸人」である前に「人間」であることが求められる時代、「芸術家」であることが求められる時代なのです。

もちろん一方で、山城少掾が「自分が今日あるのは清六のおかげです」とスラリと言えるような人間ならば山城少掾は「山城少掾」であり得たのだろうかということも考えます。ストイックに「芸とは何か」を追求し、決して自分に妥協することのなかった山城少掾はなかったかも知れません。

さて、小説「ーの糸」結びでは、コンビを解消した宇壺大夫と徳兵衛がその後、舞台裏で互いの芸に聴き入っている、そして自分の芸を相手に聴かせようとするかのように互いに熱演するという場面があります。実際にこうした場面が山城少掾と清六にあったのかは分かりません。しかし互いの人格を認め合った上で、芸と芸のぶつかり合いが見ることができるなら、やはりそれは素晴らしいことではなかったのかな、、と思うのです。この名コンビの解消は、芸の伝承と稽古の難しさを考えさせる事件です。残念ながら山城少掾と清六が再び共演することはありませんでした。

(参考文献)

有吉佐和子:「一の糸 (新潮文庫)

小説の題名「一の糸」は、「三の糸が切れたら、二の糸で代わって弾ける。二の糸が切れても、一の糸で二の音を出せば出せる。そやけども、一の糸が切れたときには、三味線はその場で舌噛んで死ななならんのやで」という主人公の夫徳兵衛の科白から来ています。

(H13・2・26)


 

 

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