七五感覚と二拍子感覚〜いわゆる「歌舞伎らしさ」を打破するためのヒント・2
本稿は「息を詰むということ」の続編となっています。
1)助六の場合
別稿「息を詰むということ」において、歌舞伎の七五感覚と二拍子感覚との奇妙な折り合い、これがいわゆる「歌舞伎らしさ」の源であるということを書きました。これが二十五日興行のなかで、芝居を数日の舞台稽古で「とりあえず歌舞伎らしく」見れるものに仕上げるコツなのです。ところで、七五感覚と二拍子感覚の折り合いは、歌舞伎の至るところに見られます。これには良い面も悪い面もあります。これについてちょっと考えて見ます。
ちなみに吉之助は、別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」のなかで、黙阿弥の七五調について「七と五のユニットを同じ長さに持ち、七は早く・五はゆっくりの変拍子」という風に説明しました。本稿で七五感覚と云うのはそのことではなく、現行歌舞伎において七五を一音一音符に取って等分のリズムで刻む感覚、ダラダラ調の感覚で台詞を仕分けて行くことを言っていますので、ご注意ください。
例えば「助六」のツラネの最後で「間近く寄って面相拝み奉れ」と言います。別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える・荒事の項」で触れた通り、荒事の台詞の基調のリズムは2拍子としますが、そのリズムは次が本来の形です。 つまり、これは一気に言うべき台詞なのです。
「メン/ソウ/オガミ/タテ/マツ/レ●」
ところが現行歌舞伎の場合は、何でも七五で捉える傾向があるので、上記の台詞も、
「メンソウオガミ(七)/タテマツレ(五)」
で理解しようとします。そうすると、これをダラダラの二拍子で処理すると、息がひとつ余ってしまうわけです。
「メン/ソウ/オガ/ミ○/タテ/マツ/レ○」
まず末尾の「タテ/マツ/レ○」については、「タテ/マツ/レエ」と末尾を引っ張って高く張り上げれば荒事らしく聞こえるし、この台詞はツラネとして独立しているので(つまり対話として相手が受ける形になっていない)ので、末尾を引き伸ばしても、これはまあ良いということになります。こちらは良いですが、問題は「メン/ソウ/オガ/ミ○」の方です。まず「メン/ソウ/オガ/ミ●」と息を詰める方法が考えられます。もうひとつは、息を詰めない方法で「アッ」とか何かの音を入れて語調を整える手法です。つまり、
「メン/ソウ/オガ/ミアッ/タテ/マツ/レエ」
ということになります。昭和37年4月歌舞伎座での十一代目団十郎の襲名での「助六」の録画を見ると、十一代目は上のように言っていますね。武智鉄二は、当時の批評で「アタテマツレ」などという日本語はないと嫌味たっぷりに書いてます。これは息が詰んでいないからこうなるのです。
2)弁天小僧の場合
もひとつ例を挙げます。「浜松屋」で弁天小僧のツラネの末尾で「弁天小僧菊之助たあ俺がことだ」と言います。これは正しいリズムでは、
「ベンテンコゾウ(七)/キクノスケタア(七)/オレガコトダ●(七)」
となり、これも一気に言うべき台詞です。しかし、歌舞伎の習い性になっている一音一音符のダラダラ調でも、実は二拍子が内部感覚にあるので、多くの歌舞伎役者が黙阿弥の七五調でも、
「キク/ノス/ケタ/ア○/オレ/ガコ/トダ」
という二拍子感覚で台詞を言います。通常は七五のダラダラを二拍子で揃えた時の字余りは、息継ぎの間として使われます。ツラネの末尾では勢いが付いているから、そのようには行きません。まず末尾を歌舞伎らしくするために「トー/ダア」と引っ張ります。これはツラネの末尾だから、まあ許されます。一方、ここでも「キク/ノス/ケタ/ア○」の扱いが問題になりますが、歌舞伎役者は「マッ」と入れて台詞の調子を整えるので、
「キク/ノス/ケタ/アマッ/オレ/ガコ/ト-/ダア」
ということになるのです。平成16年4月歌舞伎座での十八代目勘三郎(当時は五代目勘九郎)の 弁天小僧の映像を見れば、十八代目は上のように言っています。ちなみに、吉之助の持っている映像で、十八代目が初役で弁天小僧を演じた時に十七代目が舞台稽古を見ている場面がありましたが、この台詞を聞いて十七代目が「マッなんて言うなよ」と不愉快そうに呟いてました。ここも本当は息を詰んだ方が良いのです。十八代目は最後まで「マッ」が直りませんでした。これも息が詰んでいないから、こうなるのです。
以上、歌舞伎役者が七五感覚と二拍子感覚に、どのように折り合いを付けるか、ふたつの悪い例を挙げました。しかし、逆にこれを利用することも可能であるので、次は良い例をご紹介しましょう。この手法を使えば、良い意味で「歌舞伎らしく」 聞かせることも出来ます。
3)三代目寿海の青山播磨
新歌舞伎の台詞というのは「タタタタ・・」という二拍子感覚ですが、これは機関銃のリズムにも似て、これは或るところで現代の非人間的な様相を捉えているのです。しかし、あまり二拍子が前面に出過ぎると、無表情な台詞回しに聞こえることもあります。二代目左団次が「棒に言う台詞」と云われたのはそのせいですが、 それは左団次の台詞が下手だったのではありません。始祖というのは、常にそのような風当たりを受けつつ・二拍子の旗を掲げて進まねばならないのです。弟子である三代目寿海は、そこのところを逆に二拍子の台詞に七五感覚を入れて折り合いを付け て中和することで、新歌舞伎を歌舞伎のなかに定着させました。
例えば「番町皿屋敷」での青山播磨の有名な「伯母様は苦手じゃ」という台詞ですが、これは二拍子の頭打ちが基調のリズムで、
「オバ/サマ/ハ●/ニガ/テジャ」
が本来のリズムです。(赤字がアクセントです。)これを「オバサマハ(五)/二ガテジヤ(五)」という七五の擬似感覚に台詞を置いて、
「オバ/サマ/ハ●/ニガ/テジャ」
で処理したのが、三代目寿海なのです。七五調風に台詞を言っているように聞こえますが、実は基調が二拍子に処理されているのです。 寿海はそこのところは頑固に変えていません。しかし、アクセントの位置を変えることで、台詞を柔らかく処理して、二拍子を強く感じさせないのです。三代目寿海の実際の舞台をご覧になった方で、その緩急付いた音楽的な節回し だと云って褒める方は多いと思います。しかし、これを見て「新歌舞伎の魅力は台詞を転がして歌うもの」なんてことを云う方は、寿海が実は師匠左団次の二拍子をしっかり守っていることにお気付きではないのです。寿海の決め球が、最後の胸元の直球だということが分か っていないのです。(これについては別稿「左団次劇の様式、四あるいは十三」をご参照ください。)
4)染五郎の安倍晴明
ところで、今月(9月)歌舞伎座夜の部で上演中の新作歌舞伎「陰陽師」(夢枕漠原作・今井豊茂脚本)の生の舞台を吉之助はまだ見ていませんが、先日(9月18日)NHKで染五郎のドキュメンタリーを放送していたなかに、断片ですがその場面がありましたので、ちょっと見だけで申しますが、染五郎の安倍晴明の台詞は淡々として聞き易く・感触は悪くないけれど、キーワードが心に強く残りませんね。もう少し台詞に工夫が必要だと思われます。例えば、安倍晴明が、悪役の平将門(海老蔵)と対決する場面で言う台詞に
「人が人として成り立つのに一番大事なもの、それは心。」
というところがありました。恐らく、これはこの芝居の核心の台詞だろうと思います。台本作者が一番力を入れて書いた台詞だと思いますよ。キーワードは「心」です。台詞術の工夫は、この大事の単語をどう響かせるかなのです。まずこの台詞のリズムを見ると、まず前半部分の、
「ヒトガ/ヒトト/シテ/ナリ/タツ/ノニ/イチ/バン/ダイ/ジナ/モノ/○○/ソレハ」
は二拍子が基調となっています。「○/ソレハ」までは二拍子で良いですが、染五郎は「それは心」という末尾の台詞を、「ソレハココロ○」という風に無意識のうちに(七)に置いているように感じられますね。同じ調子で「ソレハココロ○」と続けています。一音一音符の法則(ホントは法則でも何でもないのだけどね)を守っている。だから「ココロ」が響かないのです。
二拍子のリズムを末尾の「ココロ」で破綻させねばなりません。台詞の「色」を変えなければなりません。そこまでの晴明の二拍子のリズムは或る意味で非人間的な様相を呈しています。それは敵対する将門を追い詰めて行くリズムでもあります。このリズムを核心の「ココロ」でどのように破綻させるかなのです。「ココロ」という響きに、それまでのリズムにはない・人間的な息吹きと暖かさを与えたい。それこそが将門に欠けていたものであったのです。「ココロ」という単なる三拍子ではなく、心持ちゆっくりと言葉に膨らみを持たせたい。(ココロの三文字に、それまでの四文字分の長さを持たせたいですね。 つまり、テンポ・ルバートです。)さらにトーン(声の色) を、それまでよりも若干高く明るめに取る。(半音まで上げると上げすぎで、聴き手にちょっとトーンが上がったと感知させる程度に上げる。)「ココロ」と云う響きで、将門にとどめを刺さねばなりません。台本作者は、そのように台詞を書くもの なのです。台詞のリズムのなかに意図が込められています。台本作者の今井豊茂氏が、この台詞の末尾を「それは心だ」と七に陥る書き方を避けていることで、明確に分かります。 役者の為に書くならば七に揃えてやりたいところを、意図的にそうしていない。つまり、今井氏はこの箇所で仕掛けているのです。役者は、そのような作者の意図を的確に表現出来なければなりません。
注を付けますと、このような台詞術は一歩間違えば「臭く」なりかねないものです。間違えば、いわゆる「歌舞伎らしさ」のなかにどっぷりつかった、臭い様式的な台詞回しに陥ってしま います。だから、ある意味において、これは禁じ手です。しかし、臭くなるその一歩手前で留めて・サラリ感覚に仕上げれば(これにはセンスが必要ですが。二拍子感覚を 腹に残すということです)、これは絶妙の音楽的な台詞回しとなるのです。実は、そのためには息を詰む修練が必要です。ちなみに、染五郎の父上(九代目幸四郎)はそれが出来る台詞術をお持ちだと、吉之助はその新劇の舞台を見た経験で、そのように思っています。幸四郎は、どんな新劇の台詞でも核心の単語をふっくらと膨らませて響かせていました。新劇の舞台に立つ幸四郎を見て、「うわっ、やっぱり歌舞伎役者は新劇役者とはモノが違うわ」と感嘆させられるのは、実はそこなのです。その技法は三代目寿海の新歌舞伎の工夫にも共通するものです。(なぜならば新劇の台詞も基調のリズムは二拍子だからです。)染五郎さんは、父上のそのような台詞術をもっと盗む必要がありますね。
こうすれば、良い意味において「歌舞伎らしく」響かせることが出来るはずです。そのためには、台詞を何度も何度も頭のなかで転がして、言葉から自然に出てくる内的なリズムを感じ取らねばなりません。良い台詞回しというのは 音楽的な台詞回しです。それは歌舞伎らしいと同時に、新劇においても通用するものです。良い台詞回しに、歌舞伎も新劇もありません。
(H25・9・21)