青果劇の台詞のリズム
平成25年5月明治座:「将軍江戸を去る」
七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(徳川慶喜)、 六代目中村勘九郎(山岡鉄太郎)
1)勘九郎の生真面目さ
吉之助は、勘九郎の舞台を見ていると、この人は如何にも長男だなあと感じることが多いのです。そういう吉之助も長男ですけどね。要するに真面目でちょっと堅いということです。長男というのは、一般的に言われることですが、おっとりタイプが多いそうです。自分で進むべき道をどんどん決めていくというよりも、大きな流れに逆らわずに生きて行こうとする傾向があるそうな。そんなところがありますかねえ。もうひとつ、よく言われるのは、長男は大人になるにつれ責任感が出てくる。子供の頃から無意識のうちに、「自分は跡継ぎである」ということを自覚していくので、幼いときにはヤンチャでも、大人になるにつれ、堅実な生き方をするようになるということだそうです。そんなところもありますかねえ。と言っても梨園にも長男がたくさんいるわけですが、舞台を見て誰もが「如何にも長男」と感じさせるというわけではないようで、吉之助が思うには、十八代目勘三郎と勘九郎の親子には、それを強く感じるのです。これには家庭教育ということがあるかも知れません。
故・勘三郎も長男でしたが、勘三郎は十七代目の三番目の子供でしたし・十七代目が歳行ってからの子供でしたから、長男と云っても末っ子みたいなところもあったと思いますが、それでも芸のことになれば、「自分は跡継ぎである」という感じがとても強かったと思います。特に型ものと云われるような演目に関しては、ここの箇所は教えられた通りにキチンと決めないと・・という感じが強くて、それが勘三郎の芸を思いのほか重い感触にしていました。梨園のサラブレッドとしての伝統の重圧であったということです。そういうことを感じました。
息子である勘九郎の場合も同じく、「ここの箇所は教えられた 通りキチンと決めないと・・という感じが、父・勘三郎とはまた違った側面において、とても強いと感じられます。例えば襲名披露の「鏡獅子」の前シテ・弥生について、吉之助はちょっと厳しいことを書きました。「勘所のポーズをしっかり決める」、それはそれで良いように思うでしょうが、全体が腰高の踊りのなかで、それが却って踊りの流れを落ち着かないものに見せるということです。変な言い方になりますが、むしろ腰高のままであっても頭の上下動を抑えた方が安定した踊りに見えるのです。そうすると身体を使わず怠けているように見えるから、踊り手としての良心が許さないでしょうが、結局、その方が安心して見られるものになるのです。しかし、そこに勘九郎の真面目さが出ているということでしょう。
平成25年5月・明治座での「実盛物語」で勘九郎が演じた斉藤実盛も、重く暗い感じがして、前述「鏡獅子」と同様の印象がしました。教えられた型(手順)をその通りにしっかり決めないと・・という感じが強過ぎる。型を手順として理解し、ここはこの形・それが終わったらこの形・その次は・・・ということに追われている。だから動きがカクカクカクと、ぎこちない。型をデジタルに理解しているようです。まあ考え方はそれでも悪くないのだが、ここには勘九郎がまだ型を習得する段階(この時の実盛は二回目ということでしたが)ということだけでは済まされないものがあるように思われます。要するに、生真面目過ぎるということです。変な言い方になりますが、もう少し好い加減なところがあっても良い。もっと動作を流れで捉えた方が良いのです。勘九郎がひとつの手順に10箇所チェックポイントを付けているところを、中抜きして3箇所くらいにする、そのくらいの感覚でやれば、動きはもっと滑らかなものに出来るでしょう。そして次やる時には、チェックの箇所をまた変えれば良いのです。そうしてやっているうちに型は自分のものになります。
ということで、勘九郎にはまだまだ課題が多いようですが、それにしても、昨年、勘九郎が体験したこと(つまり 襲名興行中の父・勘三郎の闘病と死)ということは余人には想像できない辛い試練であって、勘九郎と七之助の兄弟はこれによく耐えたと思います。四月の新・歌舞伎座柿葺落興行での勘九郎は、ひとまわり役者が大きくなったように見えました。悲壮感を帯びた感じではなく、余裕にも似た感じで、中村屋を率いる家長の覚悟が感じられる気がしたものでした。その覚悟があるならば、勘九郎の芸は必ずや伸びて行くと信じます。
2)二拍子のリズム
そこで平成25年5月・明治座での「将軍江戸を去る」での・勘九郎の山岡鉄太郎ですが、これはとても良い出来で、感心しました。これは恐らく、ここ数年かそれ以上、吉之助が見た青果劇の役者のなかでも、青果劇の台詞のリズムを最も正しく表現できています。そのキーワードは「生真面目さ」かも知れません。青果劇の主人公たちも、生真面目だからです。ちょっと青臭くて・見ているこちらが気恥ずかしくなりそうなところもあるけれど、しかし、彼らはみんな真っ直ぐで・ひたむきで・生真面目なのです。そんなところが、勘九郎の行き方と重なるのかなあと思います。
別稿「左団次劇の様式〜二代目左団次の芸」において、二代目左団次の創始した新歌舞伎の基本はノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)、その台詞のリズムはタンタンタン・・という頭打ちの二拍子であることを論じました。二代目左団次の芸風が、そのまま様式となっているのです。真山青果は、左団次の新歌舞伎のなかでも重要な作家であるにとどまらず、新歌舞伎の様式ということを考えた時、青果と左団次というのは、新歌舞伎様式の完成期の最強コンビです。青果の「将軍江戸を去る」は、昭和9年(1934)1月東京劇場での初演。将軍・徳川慶喜を演じたのが二代目左団次で、山岡鉄太郎を演じたのが左団次劇団の副将格であった二代目猿之助(初代猿翁)でした。青果の芝居を貫くリズムこそ、タンタンタン・・という頭打ちの二拍子です。それは主人公の背中を後ろから押す急き立てるリズムなのです。(以下本文中に左団次劇と青果劇と云う語が交錯しますが、どちらも同じことを言っています。)
山岡鉄太郎は「戦争は絶対あってはならんのです」と言い切ります。現代の観客はこれを当然と受け取るかも知れませんが、本作の初演が昭和9年であることを考えてみれば、青果がどういう思いでその台詞が書いたのかは歴然としています。昭和8年が満州事変、昭和11年が二・二六事件です。そういう時代に書かれた芝居です。これは幕末を描いたお芝居ですというところに託(かこつ)けていますが、あの時代によくこんな台詞が書けたと思います。上演する役者だって、相応の覚悟が必要だったはずです。それを見る観客も、またそういう覚悟を迫られたのです。切迫した時代に生まれた、切迫した時代を描いたドラマなのです。だから、タンタンタン・・という頭打ちの・急き立てる二拍子なのです。勘九郎の台詞は、急き立てる二拍子がきちんと入っていて、言葉が明瞭でよく聞き取れます。これが青果劇の様式です。例えば、慶喜に対し鉄太郎は「幽霊勤皇と申し上げずにはいられなくなりました」と言います。この鉄太郎の台詞ですが、その基本リズムは「ユウ/レイ/キン/ノウ/ト●/モウシ/アゲ/ズニハ/イラ/レナク/ナリ/マシ/タ●」と考えて良いと思います。勘九郎は、この末尾を、感情が激する余り言葉が言い尽くせないという感じで「イ・/ラ・/レ・/ナ・/ク・/ナ・/リ・/マ・/シ・/タ」と区切って言っていますが、これは二拍子の変形で、台詞を伸ばしているように聞こえますが、実はそこまでの二拍子の基本リズムをしっかり踏まえているのです。これは、勘九郎のなかに、二拍子の基本リズムが入っているから出来ることです。吉之助は、ホホウ巧いものだねえと感心して聞きました。昨今の新歌舞伎では、このような二拍子のリズムが入った役者を滅多に見掛けません。唾を飛ばすほど熱く怒鳴るのが、青果だと思い込んでいる役者ばかりです。そうでなければ詠嘆調に末尾を引き伸ばす役者ばかりです。それにしても、父・勘三郎は青果の芝居に縁遠かったと思いますから、この勘九郎の二拍子の様式はどこから来るものでしょうかね。きっと教えた方が良かったか、あるいは本人の感性の良さか、それは兎も角、これでこそ鉄太郎の熱い思いが慶喜に届きます。
ただし注文がないわけではない。慶喜に対し鉄太郎がその心情を申し上げる時、鉄太郎は平伏して慶喜の方を見ず・下に目線を置いてしゃべるのではなく、背筋を伸ばして・慶喜の方を見やり・しっかりと相手に正対してしゃべらなければなりません。これだけのことを言うのだから、上様に斬られても仕方がない、例えそうなったとしてもこの思いで上様の決心を変えずには置くものかという気持ちを、その姿勢で示さねばなりません。そういうことは大事なことなのです。そういうことがこの芝居を歌舞伎にします。
3)寸切れの幕切れ
染五郎の慶喜のことを考えます。そう言えば染五郎も、お姉さんが二人いますが、長男ですね。この慶喜の演技を見る限りでは、確かに長男の・おっとりタイプと言えるかも知れませんね。練れた感じの台詞回しで、緩急付いて・抑揚を以って台詞を転がすところもあり、まあそのことだけとればなかなか研究して巧いものだということが言えるでしょう。だから、この台詞回しを良いと褒める劇評家がいるだろうと思います。しかし、これはまるで左団次劇の様式ではありませんね。
例えば 「将軍とて裸にならずにいられぬことがあるのだ」という台詞ですが、染五郎は「イラレヌコトガ/アールーノーダーアーー」と節回しを付けて詠嘆調で言っています。語調を七に揃えて引っ張る感じがある。慶喜の焦燥感、どんなに苛立っても今の自分は行動を起こすことが出来ない。このことを慶喜ははっきり自覚しています。居ても立ってもいられぬ慶喜の気持ちを表現する時、この引き伸ばして詠嘆する台詞回しが適当なものでしょうか。可哀想な自分の状況に酔っているかのようです。「ああ可哀想なボクちゃん・・・」というような感じです。こういう台詞廻しは、吉之助は青果劇に最も遠いものだと思います。ここは詠嘆で完結されてはならない箇所です。慶喜の気持ちは未解決でなければなりません。結論が出てはいないのです。ですから、ここは「イラ/レヌ/コトガ/アル/ノダ」の二拍子なのです。青果の台詞は音楽的に歌うものだなんて言う人がいますが、そういう思い込みは止めにしたいと思います。
残念ながら吉之助は三代目寿海を見ていませんが、寿海ならばこの台詞は多分こういう処理をしたと想像します。「イラ/レヌ/コトガ/アル/ノダ」の二拍子のリズムを踏まえて、「イラ/レヌ/コトガ/アー/ルー/ノー/ダ ー」という風に発声するのです。テンポをゆったりと保ち・適度な抑揚を加えて、リズムの打ちをあまり前面に出さないようにします。末尾を伸ばしているように見せながら、その実、二拍子のテンポ感覚をキチンと守っています。ただそうしていると見せないだけのことです。(別稿「左団次劇の様式」その 4・5、13辺りをご覧下さい。)幕切れにおいても、染五郎は「江戸の地よ、江戸の人よ、さらば」の末尾を「サアーラアーバア〜」と詠嘆調に引き伸ばして、悲壮感に酔っています。それと、これは染五郎の慶喜に限ったことではないですが、千住大橋をゆっくりと歩んで江戸の街から去って行く・その足取りが、まるで橋掛かりを行く能役者が半歩半歩摺り足で行くが如くです。慶喜の後ろ髪を引かれる思いを表現しているつもりなのでしょう。幕が完全に下り切るまで舞台から姿を消してなるものかという感じにも見える。これがまるで左団次劇の様式ではありません。
吉之助はもちろん二代目左団次を見ていない(左団次は昭和15年に没)し、初演当時の証言でこの箇所を確認出来ていませんが、二代目左団次がこういう幕切れをやったとは到底思えません ね。二代目左団次ならば「江戸の街よ、さらば」を思い入れを入れずに言い、踵を返すように後ろを向くや、サッサと橋を渡って舞台奥へ消えたに違いないと想像します。幕が下り切る寸前には慶喜の姿はもう舞台になかったでしょう。幕切れの余韻を断ち切る、これが左団次劇の様式です。例えば同じ青果の「頼朝の死」の寸切れの幕切れを見れば分かります。あるいは綺堂の「番町皿屋敷」の寸切れの幕切れを見ればわかります。そういうことから類推するならば、二代目左団次がこの場面でどのような幕切れにしたかということは、容易く想像が付くものです。掛け声が掛かるような・いわゆる歌舞伎らしい・たっぷりした幕切れ、左団次劇はそのような幕切れを拒否するのです。
真山美保演出は、青果劇の様式を正しく理解できていないと感じるところがしばしばあります。がなり立てるのを 、さも青果劇の様式であるかのようにしちゃったように思えることも、そうです。昭和32年5月「演劇界」の座談会(三島由紀夫の実験歌舞伎)のなかで、杉山誠が「美保さんは困るね」と言い、三島由紀夫が「不肖な子か 」(笑)と返してます。二人が何のことを言っているか定かでないところがあるが、青果劇に関しては、もうそろそろ真山美保演出から決別した方が良い頃かも知れませんね。田辺明雄:「真山青果―大いなる魂 (作家論叢書)(沖積舎)