女形舞踊としての「鏡獅子」
平成24年2月新橋演舞場:「春興鏡獅子」
六代目中村勘九郎(二代目中村勘太郎改メ)(小姓弥生後に獅子の精)
(六代目中村勘九郎襲名披露)
1)後シテは優美であるべし
初期の歌舞伎においては舞踊は女形の専売でした。どうして舞踊は女形の専売であったのでしょうか。答えは簡単。技芸がまだ確立していなかった時代の女形は・演技をさせてしゃべらせると男が見えてどうもいけない・だから綺麗な着物を着せて踊らせていれば一番無難ということであったわけです。その女形舞踊の二大出し物が道成寺物と獅子物であることはご存知の通りです。バリエーションとしていろいろな作品が作られてきました。道成寺物の代表作と言われれば、それは「京鹿子娘道成寺」です。初演したのは初代中村富十郎で、宝暦3年(1753)3月中村座「男伊達初買曽我」の三番目でのことでした。それでは獅子物の代表作は何でしょうか。多くの方は「春興鏡獅子」を挙げるだろうと思います。しかし、「春興鏡獅子」は九代目団十郎が明治26年に初演したものですよね。「春興鏡獅子」は、九代目団十郎が娘(二代目市川翠扇)が「枕獅子」を練習しているのを見て思いつき・傾城を御小姓に変えて「鏡獅子」を仕立てたものと言われています。市川翠扇の思い出話によれば、九代目団十郎はこう語ったそうです。
『お前の稽古を見てふっと思いついたので、早速福地(桜痴)さんに相談して、傾城を御守殿に作り変え・筋のないものに筋を付けてまったく生まれ変わったのであるが、自分の考えでは女が獅子の精に変わる・いわば白から黒に変わるような変化に最も興味を覚えたのであって、それには傾城の必要はない。(中略)どこまでも女らしい・しとやかさを持った・言い換えれば、しとやかさそのものであるという概念を持つ御守殿の小姓を選べば、そうした変化はより以上に認めらるるものであろうと考えたのに始まった。』(二代目市川翠扇:「「鏡獅子」・「演芸画報」・昭和5年10月号から断続的に掲載)
九代目団十郎は立役であるわけですから、美しい御小姓が一転して・後シテで勇壮な獅子に姿を変えて豪快に毛を振り回す・そのイメージの変化が「鏡獅子」の「売り」になっているわけです。変身のサプライズが「鏡獅子」の発想の原点なのです。
「鏡獅子」以前の獅子物舞踊、例えば「枕獅子」の前シテは傾城で、後シテで獅子になって毛を振り回すという構成です。六代目歌右衛門の「枕獅子」の舞台を思い出します。その後シテは何だか頼りない獅子で勇壮というイメージからは程遠く・むしろ優美という形容がふさわしいものでした。七代目梅幸の「枕獅子」であると、もう少し濃厚な味わいがしましたが、これも結構なものでしたね。どちらも勇壮という感じはしませんでした。それはそうでしょう、美しい傾城が獅子に変わるのですから、獅子もどこまでも優美でならないはずです。それが自然ではないでしょうか。そう考えると、美しい小姓が一転して・後シテで勇壮な獅子に姿を変えて豪快に毛を振り回すという「鏡獅子」の変身というのは、いささか発想が不純ではないかという疑問が湧いて来ませんか。美しい小姓が獅子になるのならば、その獅子はまず優美でなければならないはずです。勇壮・豪快のイメージが先に立つのは面妖だと思います。
よくよく考えてみれば獅子というのは百獣の王ライオンのことではなく、大陸から伝来した想像上の動物であるわけです。もちろんライオンがそのイメージの根源にあることは考えられますが・その起源は明確ではなく、性別さえも定かではなく、あくまで想像上の動物なのです。能「石橋」では仏跡を渡り歩いた寂昭法師が中国の清涼山の麓に差し掛かり・そこから山のなかへ細い石橋が掛かっており・そこから先は文殊菩薩の浄土であると聞きます。やがて獅子(後シテ)が躍り出て、法師の目の前で舞台狭しと勇壮な舞を披露します。獅子は有難い文殊菩薩の霊験なのです。
一方、「鏡獅子」の獅子の方は優美な小姓が一転して勇壮な獅子へ・その変身のサプライズが発想の原点であるわけですから、明らかにそこに百獣の王ライオンのイメージが混入しているようです。もっとも九代目団十郎が獅子はライオンだと明確に意識して「鏡獅子」を作ったのかどうかは分かりません。しかし、九代目の薫陶を受けた六代目菊五郎には、「本気かよ」と驚きますけれども、「鏡獅子」後シテの参考にということで上野動物園へライオンを観察しに行ったという逸話が残っています。有名な「鏡獅子」の映画を見ると、あるいはその観察の成果が見られるのかも知れませんねえ。しかし、六代目菊五郎の後シテは確かに勇壮ではあるけれど・優美な感覚は決して失われていなかったと思います。
これは演劇的論理として非常に大事なことであると思いますが、ある人物Aが後に変身して別の人物Bとして登場する場合、Bはどこかに前のAの本質と重なる要素を持たなければならないのです。そのような連関がなければ、AがBに変身することの必然が見出せなくなるわけです。説明をしなくても「ああそうなることは納得だね・・」と観客が感じるための、そのような連関性が芝居では必ず必要です。「枕獅子」の前シテ城前が後シテで獅子に変わることは、多少連関が弱いところがあるにしても、「優美」というイメージのなかでその必然が保たれているのです。一方、「鏡獅子」の小姓弥生が勇壮な獅子に変わることはイメージ的にその連関性に無理があってスンナリ来ないと吉之助には思います。九代目はそこのところを、弥生が持った獅子頭から獅子の霊が乗り移って・美しい娘が獅子に変身し・・という風に説明付けているわけですが、女から男への変身は無理矢理という感じが否めません。九代目が「枕獅子」を踊れるならばそれで行けば良かったわけですから、「鏡獅子」で自分のサイズに無理に合わせたということでしょう。九代目の発想はいささか不純ではないかというのはそこのところです。
まあ確かに獅子物での前シテと後シテの連関というのはもともとそれほど強いものではないのです。道成寺物でのように、前シテの白拍子は実は清姫の霊であって・後シテでその本性を顕し・・・というような強い連関性を持ってはおらぬのです。別稿「獅子物舞踊のはじまり」でも触れましたが、獅子物舞踊というのはもともと道成寺物に石橋のエピソードをこじつけて分派したもので、例えば「執着獅子」の歌詞は大部分を「百千鳥道成寺」から取ったものなのです。道成寺物と獅子物は今日ではまったく別系統のように思われていますが、実はその起源をひとつにしたものです。その昔は道成寺の所作事で獅子の狂いを見せる趣向があったのです。ですから獅子物での前シテと後シテの連関というのはもともとそう強いものではなかったので・これは作品としての弱点であるのですが、弱点であるからこそ前シテと後シテの間に優美のキーワードでその連関を補強することを忘れてはならないと思うわけです。そうでなければ獅子物が女形舞踊の系譜であるということは見失われると思います。
ですから「獅子物の代表作は何か」という問いの答えは、本来は「枕獅子」となるような状況が望ましいと考えます。それならば獅子物が女形舞踊の系譜であることは想起されます。しかし、最近「枕獅子」はあまり取り上げられぬようです。獅子物の代表作といえば真っ先に「鏡獅子」となる現状においてはそれはなかなか難しいことで、そうであるならば「鏡獅子」を女形舞踊としての獅子物の系譜につなぎとめるために、後シテに優美のキーワードを見失ってはならないと吉之助は考えます。
六代目歌右衛門は昭和26年から昭和31年にかけて6興行ほど「鏡獅子」を踊りましたが、結局、「鏡獅子」をレパートリーにはしませんでした。歌右衛門と言えば、これは確かに「枕獅子」の人でした。吉之助は歌右衛門の「鏡獅子」は見ていません(その時はまだ生まれていなかった)が、ちょっと見てみたかった気がしますねえ。七代目梅幸は「枕獅子」と同じく「鏡獅子」も得意としました。七代目梅幸の「鏡獅子」の後シテは吉之助もよく覚えていますが、優美ななかにどっしりとした威厳があるもので、そこに女形舞踊としての獅子物の系譜としての縁(よすが)がしっかりと感じられたと思います。前述しましたが、映画での六代目菊五郎(六代目は立役ではありますが)の後シテも確かに勇壮ではあるけれど・優美な感覚も決して失われていなかったと感じます。
「鏡獅子」がまるで立役舞踊の如くとなり、前シテがまるで加役の踊りで、後シテになるとさあこれからが本役だという感じで、それまでの鬱憤を晴らすが如くに威勢良く毛を振り回すという印象になってしまったのは、いつ頃からのことでありましょうか。この数十年掛けて変化していろんな役者が踊って・そうなってきたことで・一気に変わったわけではないのですが、そう遠い昔のことではないように思います。ハッと気が付いてみれば、後シテ獅子の化粧はむき隈の如くに濃く太く線を引き、前シテの曽我五郎が後シテで獅子に変身したかのような・まるで荒事の「鏡獅子」が横行しています。劇評もそれを勇壮な獅子の毛の振りだといって褒めたりする状況になってしまいました。昨年(平成23年)7月新橋演舞場での海老蔵の「鏡獅子」の後シテは確かに凄いものでした。「凄い」と言っても、褒めているのではありません。幕が閉まってハアと息してしまうほど迫力ありましたけれど、やればやるほど女形舞踊としての獅子物から離れて行く気がしました。そして今回(平成24年2月)新橋演舞場での新・勘九郎襲名の「鏡獅子」の後シテもまったく同様です。前シテと後シテとの連関が全然見い出せません。小姓弥生が持った獅子頭から獅子の霊が乗り移って・可愛い娘が獅子に変身し・・ってそういうことを理屈で説明されても納得できないのだな。そういうことは踊りで感覚的に示して欲しいのです。
これは別に新・勘九郎に限ったことではありません。しかし、勘九郎には特に強く言っておきたいと思うのです。なぜならば「鏡獅子」を後シテになるとさあこれからが本役だという如く威勢良く毛を振り回す印象にしてしまったことに大きな役割を果たしたのは、中村屋(十七代目・十八代目勘三郎)であると吉之助は考えるからです。先に書いた通り、「鏡獅子」がこのようになってしまった要因はもともと九代目団十郎の発想にあったもので、そこ(変身のサプライズ)を強調する方向性で「鏡獅子」はここまで変遷してきたのです。しかし、「鏡獅子」を女形舞踊の獅子物の系譜につなぎとめるためには、これ以上後シテが勇壮になることを阻止せねばならぬと考えます。これ以上「鏡獅子」を立役舞踊のイメージにすることは止めて、女形舞踊の獅子物の系譜に戻してもらいたい。少なくとも曽祖父ちゃん(六代目菊五郎)の水準にまで戻してもらいたいと思います。まずは曽我五郎が後シテで獅子に変身したかのような化粧を止めることです。そのために新・勘九郎は曽祖父ちゃんの映画をよく見なさいと言いたいですね。
2)勘九郎の踊りの課題
そういうわけなので吉之助は現状の「鏡獅子」においては後シテがどんなに威勢が良かろうが・毛の振りが凄かろうが、全然興味はありません。前シテ・小姓弥生がしっかり踊れるか、吉之助の目下の関心はそこのところです。しかし、今回(平成24年2月)新橋演舞場での新・勘九郎の前シテ・小姓弥生の踊りですが、どう評して良いのかちょっと困る踊りですねえ。勘九郎と言えば・若手のなかで踊りが得意だと世間では言われている役者だと思います。襲名披露狂言としての「鏡獅子」も中村屋の家の芸同然とも言える演目でもあり、また本人も踊りを得意としているという自負ゆえ選ばれた演目でしょう。それならば申し上げたいですが、勘九郎の踊りはもちろん下手ということではありませんが 、吉之助から見るとかなり矯正が必要な踊りです。例えば海老蔵であると、確かに腰高であり・決して巧いとは言えない踊りですが、ここをちょっとアドバイスしてやればずっと良くなるなと云うことがイメージできる(言い方は悪いが)素直な下手さなのです。新・勘九郎の踊りも同様に腰高の踊りですが、下手ではないのだけれど・いろんな要素が加わって複合的に悪くなっている感じです。これはどうアドバイスしたら良いかなと考えてしまいます。
別稿「踊りの身体学」でも触れましたが、背が高く・腕の長い踊り手の腰高の踊りは、脇が空いて見えることが多いものです。このような場合、踊り手は腕をもっと 大きく振る・脚をもっと高く跳ね上げるということで対処するようです。そうしないと身体を使っていないように見えるのです。こういう時に「もっと身体を大きく使いなさい」という駄目出しがよく出されますが、技術がまだ完成していない踊り手であると、腰高の踊りは脇が空いて見える・脇が空くからそれをカバーしようとして身体を大きく使おうとする・身体を無理に大きく使おうとして結果として身体の軸がブレる・それで肩が動く腰が揺れる・だから舞踊の形が崩れるという悪化のプロセスを辿ることが多いようです。新・勘九郎の踊りは、そのような悪い状態に陥っています。恐らく本人は自分が腰高であるということで・そこをカバーしようという意識が非常に強いと思いますが、その意識が悪い方に作用しています。
腰高の踊りは立役の踊りであれば、衣装のおかげもあって・多少のごまかしは効くのです。しかし、女形の衣装ではごまかしは効きません。別稿「勘太郎の関兵衛」でも指摘しましたが、勘九郎の踊りは、踊っている間の頭の上下動がかなり大きいという問題が見えます。小姓弥生の決めのポーズの時に、勘九郎はグッと腰を落として・教えられた通りに形を決めようとしています。それはそれで良いように思うでしょうが、スッと直立した時の頭の位置と比べると、極端に頭の位置が低くなる、その落差が激しすぎるのです。そのためやればやるほど踊りが落ち着かないものに見えてきます。
変な言い方になりますが、むしろ腰高のままであっても頭の上下動を抑えた方が安定した踊りに見えるのです。そうすると身体を使わず怠けているように見えるから、踊り手としての良心が許さないかも知れませんが、結局、その方が安心して見られるものになるのです。しかし、それでも決めのポーズくらいはしっかりと決めないと・と思うから、無理して腰をグッと落として形を決める。そうすると無理が無理を呼んで他のところの設計がずれてきます。そこでふたつの問題が派生してきます。
まず第1に、勘九郎は肩がよく動きますね。小姓弥生の決めのポーズの時でも、勘九郎は身体の軸がぶれて身体を正しく正面を向けていない。客席に身体を正対させる意識が希薄であるということが問題になると思います。関兵衛の時にはあまり気にならなかったことですが、今回の小姓弥生ではとても気に障りました。どうしてこうなるのかは、ふたつの理由が考えられます。ひとつは腰高を意識して身体を大きく使おうとしているということです。本人はうんと身体を使っているつもりだと思いますが、実は身体の軸がねじれて・形が崩れているのです。もうひとつは、これは女形の踊りだからということで、科(しな)を作ろうという意識があるようにも思われます。正面を向いて形を決めると何となく立役っぽいのじゃないかと思うのでしょう。あるいは身体を細く見せたいということでしょうかね。どちらにしても良ろしくないことです。日本舞踊は常に正面を意識してポーズをしっかり決めなければなりません。これは立役でも女形でも同じことです。曽祖父ちゃんの映画をよく見ることです。六代目はしっかり客席に正対しているでしょう。これが日本舞踊の基本です。稽古場に大きな鏡を備えて常に自分の形をチェックしながら稽古をすれば良いのです。
第2に、別稿「踊りの身体学」でも触れた通り、腰高の硬い印象をやわらげる為に手の遣い方を工夫しな ければならないということです。勘九郎の手の遣い方は粗雑に見えます。本人は手の振りを大きく取っているつもりだと思いますが、その遣い方が勢いはある感じであっても、粗雑なのです。勘九郎は、例えば右手を上に掲げる振りの時に、手先を上に持っていく感じで動作をしているでしょう。そうではなくて、肘を上に持っていく心持ちで動作をするのです。そうすれば振りはずっとコンパクトになり、肘を使った動きはもっと滑らかな印象を振りにもたらします。肘を巧く使えば多彩な表現が可能になるのです。勘九郎のような動きでは、やたら腕を大きく振り回しているような印象にしかなりません。曽祖父ちゃんの映画をよく見ることです。あるいは六代目歌右衛門でも七代目梅幸でも良いです。その肘の遣い方をよく観察することです。こういうアドバイスをする方が周囲にいないのですかねえ。
吉之助が舞踊をチェックするポイントは、肩が動いていないか・腰が揺れないか、要するに身体の軸(肩と腰を結ぶ線)がブレないかと言うことです。このことはバレエでも日本舞踊でも変わりがありません。勘九郎の踊りを正しい形にするためには、いま一度、肩が動かない・腰が揺れない状態まで身体をリセットして、そこから動きを組み立て直す必要がありそうです。矯正にはかなり時間が掛かりそうに思います。もう一度書きますが、体格の良い現代の役者が六代目と同じように肩を動かさず・身体の軸がブレないように正しく踊っても、腰高の印象は多分なくならないでしょう。これは致し方ないのです。腰高であっても肩が揺れない・腰が揺れない踊りが望ましい。腰高の硬い印象をやわらげる為に、手の遣い方を工夫しなればなりません。踊りの振りを「決め」であると心得て、その振りのなかにリズム感を持たせること。そうすることで新・勘九郎の踊りも、時代に即した美学を体現したものになっていくだろうと思います。若いのであるから・今どうだったからと云って別にどうってことはありません。まあ頑張ってもらいたいと思います。
(H24・3・20)