テイキング・サイド〜どちらの側に立つか
平成25年(2013)2月・天王洲銀河劇場・「テイキング・サイド〜ヒトラーに翻弄された指揮者が裁かれる日」
平幹二朗(ヴィルヘルム・フルトヴェングラー)、筧利夫(スティーヴ・アーノルド)
行定勲演出
1)何が彼らの目的なのか
2月・天王洲銀河劇場での「テイキング・サイド」(ロナルド・ハーウッド作)の舞台を見てきました。20世紀前半の偉大な指揮者ウィルヘルム・フルトヴェングラーの戦後の非ナチ化裁判を題材にしたお芝居です。「テイキング・サイド」とは、裁判において被告フルトヴェングラーを有罪とするか・それとも無罪か、あなたならどちらの側に立つか、という意味です。休憩中に「・・難しい」とか「時代背景がよく分からない」という観客の方がぼやく声をいくつか聞きました。確かに、この芝居は戦時中のドイツの状況とフルトヴェングラーの置かれた立場について・ある程度の事前知識がないと、ちょっと難しいところがあるかも知れません。
戦時中のフルトヴェングラーに関する史実あるいはゴシップの類はよく集められて、芝居のなかに取り入れられています。ただし、舞台中で蓄音機に掛けられてフルトヴェングラー指揮した録音がいくつか鳴りますが、ブルックナーの交響曲第7番アダージョ(第2楽章)42年録音のテレフンケン盤は確かにヒトラー死去を告げる帝国放送のラジオ(45年4月30日)でかけられたものですが、第2楽章のみで・全曲録音はありません。脚本の設定である46年当時においては、フルトヴェングラーの指揮したベートーヴェンの交響曲第8番・第9番のレコードはリリースされていませんでした。舞台で鳴った第5番は43年ライヴ録音のようでしたが、これも46年当時にはリリースされていない。史実に合わせて使うならば37年録音の独エレクトローラ盤でなくてはいけませんね。お芝居だから「まっ、いいか」というところですが、音楽オタクとしてはこういうところが妙に気になったりするものです。
ところでハーウッドの戯曲「テイキング・サイド」は1995年ロンドンで初演され、日本においては「どちらの側に立つか」という邦題で98年に劇団民芸により上演されました。吉之助はこの時の舞台を見てませんけれど、雑誌「悲劇喜劇」に掲載されたその時の脚本は持っています。脚本を読んだ印象としては、戦時中のフルトヴェングラーに関する事実あるいはゴシップの類は芝居のなかに巧く取り入れられていますが、その論述に時間を費やすところが多く、その一方、フルトヴェングラーを尋問するスティーヴ・アーノルド少佐の人物描写が十分とは言えず、そのため芝居が「芸術か?政治か?」という重い対立構図にまで至らず、ドラマとしてはそこに喰い足りなさがあるようです。アーノルド少佐がそこまで何故執拗にフルトヴェングラーを追い詰めなければならないのかという説明が、いまひとつ十分ではないようです。今回の舞台を見てもそのような印象が否めません。
まず大事なことですが、戯曲には明確にそう書かれてはないけれども、舞台を見れば分かることは、舞台でのアーノルドのフルトヴェングラーの尋問は、実は連合軍総司令部の正規の非ナチ化裁判とは違うものらしいということです。このことは第2幕でディビット中尉が「非ナチ化裁判を担当するヴィースバーデンの人たちはアーノルドが誰から命令を受けてフルトヴェングラーを追及しているのか疑問に思っている」と言っていることでも分かります。しかも、アーノルドの追及は次第にまともな尋問とは言えない個人攻撃になってしまって、最後はディビットも秘書エンミもアーノルドに反発してしまいます。どうやらこれは占領地での連合軍の指揮系統の混乱につけこんだ越権行為なのです。しかも、これはアーノルド個人のスタンド・プレイということではなく、背後に何か組織みたいなものがあるようである。その組織の意図でアーノルドは動いているのです。つまり、本稿冒頭に「これはフルトヴェングラーの戦後の非ナチ化裁判を題材にしたもの」と書きましたが、実際にはそうではないということです。
戯曲にアーノルドの人間が全然描かれていないわけでもないのです。第2幕冒頭では、アーノルトが占領したナチスの収容所で目にした凄惨な光景が、彼に大きな心理的外傷を 与えたらしい描写があります。またアーノルドは「おれはこういうことをこの目で見たのだ。それ以来毎晩見ている。夜な夜な、それを見て叫んで目が覚める。おれにはもう二度と安らかな眠りはないだろうと分かっている」とも言っています。この体験がアーノルドのトラウマになっていることはまあ理解はできますが、それならば対象は別にフルトヴェングラーでなくても、他のドイツ人でも良かったように思えます。彼の憤りが、どうしてフルトヴェングラー個人に向かうのかが今ひとつ見えてこない。アーノルドの憤りがフルトヴェングラーに向かう必然、それが「芸術か?政治か?」というテーゼにつながるはずですが、その関連がいまひとつ見えて来ない。
そこで改めて考えてみるに、「アーノルドが どのような筋から命令を受けてフルトヴェングラーを追及しているのか、何が彼らの目的なのか」ということが問題になってくるわけです。
(H25・2・23)
2)彼らが愚弄しようとしているもの
アーノルドはどのような筋から命令を受けてフルトヴェングラーを追及しているのか、何が彼らの目的なのか。最終場面でアーノルドは誰か仲間らしき男に電話を掛けます。もし芝居にこの場面がなければ、芝居での尋問というのはアーノルドのまったくの自作自演か・妄想の産物か?とでも思ってしまいますが、ここでアーノルドの背後になにか組織らしいものが確かにあることが暗示されます。
『フォーゲルか?・・・・、アーノルドだ。一件を立証できるものが手に入ったかどうか、俺には分からん。だが相当に痛めつけてやれることは確かだ・・・』
ここから推察できることは、フルトヴェングラーに対する尋問の目的はフルトヴェングラーを痛めつけることだということです 。非ナチ化裁判なんてこととは関係なく、フルトヴェングラーを愚弄できればそれで良いのです。振り返れば第1幕でアーノルドは、こう言っています。アーノルドが「連中」にそれを指示された時のことです。
『それから、俺は呼び出された。「ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのことは聞いたことがあるかね?」と訊かれた。「いや」と俺は言った。(中略)「なるほど」と俺、「そいつはバンド・リーダーか」。連中は笑った、ほんとに笑ったよ。「そう、それ以上かも知れんよ、スティーヴ、この分野じゃたぶんボブ・ホープとべティ・グレーブルを一纏めにしたようなもんだろう」と連中は言った 。「へえー、だけど全然聞いたことなかったな」と俺。次に連中が何と言ったか分かるか?「スティーヴ、そこなんだよ、きみをこの仕事につけるのは」と連中は言った。』
*1998年劇団民芸によるロナルド・ハーウッド作「どちらの側に立つか」上演台本:渾大防一枝訳・雑誌「悲劇喜劇」・1998年5月号掲載に拠る
アーノルドと「連中」との会話に感じられるのは、「連中」の底知れぬ悪意です。あるいは憎悪といっても良いものです。アーノルドは文化とか芸術とかにまったく関心を示さぬ男です。「連中」はそういうアーノルドにも内心軽蔑を感じているようです。しかし、アーノルドはそのことにまったく感づいていません。むしろ取り立ててもらってはしゃいでいるようです。こういう 感受性の鈍い男の方が「連中」にして見れば道具としての利用価値があるわけです。誤解ないように付け加えますが、芸術を解さないから人間として劣るということがあるはずがないです。しかし、ある高次元の感情に対して敬意を全然を払わないということは品性として卑しいということは言えるかも知れません。ただしアーノルドに人間的感情が全然ないわけではないのです。現にアーノルドは収容所の光景を見て何か強い衝撃を受けています。アーノルドが収容所の光景に怒りを感じ、単純な正義感からドイツ人を糾弾しようと考えたということも十分想像出来ます。アーノルドには、収容所での光景を生み出したドイツ人の鬼畜のような行為と、文化とか芸術を生み出したドイツ人の偉大さとが全然結びつかないのです。ホントはそういうことが結びつくべきなのかは分らないのですが、多分、結びつくべきだと考える人が多いのでしょう。そこで芸術を全然解さぬアーノルドを使ってドイツ音楽の権化とも云うべきフルトヴェングラーを徹底的に愚弄してやろうというわけです。だから「連中」が愚弄しようとしている最終目標はフルトヴェングラー個人ではないのです。それではフルトヴェングラーがなぜ選ばれたのか。ドイツの音楽評論家ヨアヒム・カイザーはこう書いています。
『それにしても気付かされるのは、「ドイツの」という形容詞が今では高度の抽象概念との関連で使われることがなくなったということである。ドイツ軍、ドイツ兵は今でもある。必要ならドイツの戦後文学を挙げても良いし、ドイツ哲学とさえ言えるかも知れない。だが「ドイツ精神」とか「ドイツの心」とか「ドイツ的深遠さ」という語は禁句である。少なくともある年齢以上の人々の大部分にとっては。(中略)死の危険に囲まれ、恐ろしい終末の接近に怯えながら偉大な音楽に慰めを感じるということが、あの時、そしてその後の数年間、どういう意味をもっていたかを言葉にするのは難しい。戦時中のフルトヴェングラーのレコードの方が、よく伝えてくれるだろう。今、コンサートが終わるとわれわれはどこのレストランに行こうかと考える。あの頃はもう一度音楽を聞くことがあるかどうかが分からなかった。誤解しないでもらいたいのだが、きっと誰しも同じだろうが、私だって死の不安よりレストラン選びの方がうれしい。ただ、いわば運命的な状況で鳴ることが音楽を損ねはしない、と云うことなのである。』(ヨアヒム・カイザー:「非政治的と考えられていた人の政治的伝記」・1980年カイザーのミュンヘンでの講演より〜「フルトヴェングラーを讃えて―巨匠の今日的意味」に所収・音楽之友社)
現代ドイツにおいては、「ドイツ精神とか、ドイツの心とか、ドイツ的深遠さという語は禁句である」とカイザーは言います。これは戦後の日本人には想像ができないかも知れません。現代日本において「大和魂」、「武士道」が禁句ということはないと思います。しかし、戦後ドイツにはそうした状況があり、今もそのような精神的に虚脱した状況にあるのです。ドイツでは第二次大戦の戦争責任は現在も徹底的に追求されています。また学校教育にそうした議論が組み込まれています。逃げ回る祖父母に対して孫たちが「どうしてあなた方はナチスに反対しなかったのか・戦争を阻止しようとしなかったのか」とその責任を追及して世代間に亀裂が入るようなことも実際頻繁に起きています。ナチスは国家戦略としてドイツ精神・ドイツ芸術の高揚をスローガンとしてきました。ドイツ精神とか、ドイツの心とか、ドイツ的深遠さとか言うと、その言葉の背後にナチズムがちらつくような感じがしてしまう。だからドイツ精神とか、ドイツの心とか、ドイツ的深遠さという語は禁句なのです。
ですから、ここで「連中」がアーノルドを使って徹底的に愚弄しようとするものは、ドイツ精神とか・ドイツの心とか・ドイツ的深遠さというものです。そして、その精神的な象徴たるものこそヴィルヘルム・フルトヴェングラーなのです。
(H25・3・2)
3)どちらの側に立つか
芝居が単純明解になり過ぎて問題があるかも知れませんが、アーノルドをユダヤ系に設定する方が、この芝居の劇構造は明確になると思います。迫害を受けたユダヤ人の立場から、アーノルドがドイツを糾弾するということです。ただし、そうするとこの芝居が報復劇みたいになってしまって、観客の共感を得難くなるということを作者ロナルド・ハーウッドは考えたかも知れません。(ちなみにハーウッドはユダヤ系です。)この芝居でのアーノルドはユダヤ系ではありません。代りにアーノルド を補佐するデービッドがユダヤ系です。デービッドは「10歳の時にドイツからアメリカへ亡命し、両親は遅れてアメリカへ行くはずだったが、間に合わず収容所で死んだ」ということを言っています。しかし、デ ィビッドはドイツに対する恨み を一切口にせず、むしろドイツ音楽を愛し、フルトヴェングラーに非常に同情的に描かれています。こういう人物も実際いるだろうとは思いますが、これでは演劇的にシチュエーションが機能しないようです。ユダヤ系のディビッドに「そうだ、もっとフルトヴェングラーをいじめろ、アーノルド」と背後でけしかけるような役割を与えた方が、劇はもっと面白くできるのではないかと思いますけどね。この芝居のディビッドは良いユダヤ人過ぎるようです。その辺にもハーウッドの操作が働いているようにも思われます。
兎に角、この芝居の背後に潜むドイツ精神とか・ドイツの心とか・ドイツ的深遠さに対する悪意・敵意というものが、観客という第三者的立場から見て、清廉潔白な・誰が見てもそう言えるような「正義」ではないことは明らかです。これはあくまで戦争の勝者だけが使うことのできる「正義」という名の建前です。もちろんナチス の行為を支持するなんてことは出来ませんから、アーノルドの言うことを「それは違う」と表立って反対することは躊躇せざるをえませんが、アーノルドに両手を挙げて賛成する観客は少ないでしょう。このことが、この「テイキング・サイド」という芝居を何となくモヤモヤとした割り切れない後味にしています。そこが吉之助がどうもこの芝居は出来がいまひとつだと感じる点です。「芸術か?政治か?」というテーマに肉薄できていないということです。
ただし、そう感じるのは、この芝居がフルトヴェングラーの非ナチ化裁判を扱っているということで、吉之助がそのようなドラマ展開をこの芝居に内心期待し過ぎているせいだということも言えます。しかし、この芝居でのアーノルドの尋問が実は正規の手続きを経たものでなかったとすれば、「テイキング・サイド・・どちらの側に立つか」という作者の意図を、どのように受け取るべきでしょうか。作者ハーウッドはインタビューで次のように語っています。
『この芝居のなかで人間の価値について語っているのは彼(アーノルド)だけだ。その他は全員、芸術、音楽、文化の話しかしない。(中略)いわゆる情を持つためには、文化を愛さなくてはならないと考える人が多いけれど、私はその意見には、まるっきり反対だ。この文化への愛情のために、人間の価値に対してまるで盲目になってしまうこともあるんだから。』(ロナルド・ハーウッド、1995年のインタビュー、「テイキング・サイド」上演プログラムに所収)
要するに、芸術・文化を守るために、それに奉仕する「神の如き芸術家」は特別な人たちで、彼らは何をやっても許される、彼らにはそのような特権がある、みたいな考え方には反対だということです。そういうことならば、何となく分かります。非ナチ化裁判ほど重い話でないにしても、 芸術家が何か不道徳なことを仕出かしても「それも芸の肥やし、そのくらいハチャメチャでないと芸の魅力がなくなる」などと何となくウヤムヤにされて許されちゃうことはよくあることですが、これなども低次元ではあるけれども、同じことなのです。アーノルドはそういうことに猛然と反発します。「彼は最高の芸術家なんだから・・・許されるんだ」という論理が、アーノルドは嫌いなのです。さらに「・・そしてその芸術を愛する私も・・また許される」と展開しそうな気配があるのが、これまた許せないのです。何と言っても、アーノルドは芸術・文化なんてものに全然価値を置いていないのですから、そんなアーノルドだから言えることがあるのです。最終的には、この芝居は「芸術は無価値である」という結論には決してなりません。アーノルド自身が道化を自認しているわけですから、アーノルドを議論の枠外に置かねばなりません。きっかけを提起することだけが彼の役割なのです。そういうことをハーウッドは分かっていて、この芝居を書いているのです。
それでも「あの時、私はどうしたら良かったのか?ドイツを捨てれば良かった というのか?そうしたらドイツは、私の国はどうなるんだ。そしてドイツ人である私はどうなるんだ?」、そういうことは誰もが自身に問うてみる価値があることです。ですから「どちらの側に立つか」ということを、陪審員である自分はフルトヴェングラーを有罪にするか・それとも無罪かというような第三者的な立場に自分を置くのではなくて、もし自分がフルトヴェングラーの立場だったら・自分は国を捨てるか・それとも残ってどうするか?、自分ならどうするか?と自分自身を問うという風に考えたいのです。「テイキング・サイド・・どちらの側に立つか」を、そのような意味に取りたいと思います。願わくば、それが可能であるのならば、偉大な芸術を生み出すこと・これを愛することと、人間の高潔さを高めることとが、同じ次元でつながるものでありたいと思います。しかし、その問いは、第二次大戦中のフルトヴェングラーのベートーヴェンの放送録音から聞こえてくる人間の偉大さへの確信を決して揺るがしはしないでしょう。
筧利夫は、道化役としてのアーノルトの軽薄さを巧く出していたと思います。平幹二朗は恰幅良くて、見た目は長身ヒョロヒョロのフルトヴェングラーとはちょっと違うけれども、毅然たる品格みたいなものをよく出していて、さすがでしたね。
*本稿の関連記事として吉之助の音楽の雑談・「テイキング・サイド」もご覧下さい。
(H25・3・6)