吉之助の音楽の雑談2
カルロス・クライバー(1930〜2004)は、カリスマ指揮者として今でも人気が高いですが、特にオペラが素晴らしかったですね。カルロスは天性のオペラ指揮者です。吉之助はカルロスについては交響曲だとちょっとセカセカした感じがして今いち評価しませんが、オペラについては文句ありません。恐らく人声の息に乗ることで、彼のなかの音楽がパッと開放されるところがあるのでしょう。(これはソロが弾けなくて、合わせ物なら弾けるというアルゲリッチと似たようなところがあるようです。)カルロスは聴き慣れた音楽からハッとするような表情の変化を引き出して見せて、オペラの管弦楽というのは単なる伴奏じゃないということを痛感させてくれます。管弦楽に対する愛の深さを感じますね。
ここに紹介するのは、1994年3月23日ウィーン国立歌劇場での楽劇「バラの騎士」第2幕でのレア映像。何とこれは指揮者と舞台裏がタイミングを計る為のオケ・ピットのモニター映像で、どういう経路でこういう映像が流出するのかは分かりませんが、それは兎も角、ファンが随喜の涙を流す貴重なものです。あの絶妙な伴奏はこんなしなやかな振りから引き出されるのか、こういう風にニュアンスを出すのかという感動で、カルロスの動きに一瞬たりとも目が離せません。ちなみに、 同じ日の公演が映像収録されてNHKで放送がされてDVDになっていますが、併せて見ると実に勉強になります。
ところでこの映像ですが、カルロスのしなやかな動きに見とれているうちに、何だか 舞台を見詰めるカルロスの目付きが三角で、表情がイライラしていることに気が付きます。どうも舞台に何か気に入らないことがあるらしい。やがてカルロスが指揮しながら、露骨に嫌な顔をしたり・溜息 をついたりし始めます。さすがに指揮の方は投げたりせず・しっかりやっていますが、特に 20分以降からの、もういたたまれないという感じのカルロスの表情変化が、実に抱腹絶倒ものです。以下は吉之助が想像するカルロスのひとり言。
21分46秒頃 ああ〜、もう見ちゃいられない(と片手で顔を覆い)、オイもっと気合い入れろ、ホレッ、あ〜あ、駄目だ、こりゃ(とへたり込み)、モーッ、逝って良し。(と心臓をひと刺し。コンマスに向かって)何だね、ありゃ、ヒドイもんだね。やってられないよ。
カルロスが何を怒っているかと云うと、吉之助が正規盤の舞台映像と見比べたところでは、どうやらクルト・モルが歌うオックス男爵に対して怒っているようです。吉之助にはモルの歌唱はそれほど悪いものに思われませんが、カルロスが怒る理由を想像するに、モルのオックス男爵は大人しい(上品な)感じであって、下品で滑稽な感じがあまりないようです。カルロスが気に入らぬのはその辺か思います。
モルの名誉のために付け加えると、この辺は見解(解釈)の相違ということではあります。モルは1983年ザルツブルク音楽祭でカラヤン指揮・演出でオックス男爵を歌っています(吉之助は現地でこの公演を聴きました)が、恐らくカラヤンならばこの演技で良しとしたでしょう。オックスは確かに田舎者の落ちぶれ貴族で・洗練されたマナーは見に付けていないが、しかし、笑い者にされる必要はないとカラヤンなら解釈したと思います。しかし、カルロスと演出のオットー・シェンクの考え方は、もうちょっと滑稽の方に傾斜したオックス男爵であったかなと思いますね。それにしても、観客席からは全然分からなかったでしょうが、オケ・ピットにこんな隠れたドラマがあったとは。
(H25・9・15)
アルトゥーロ・べネディティ・ミケランジェリ(1920〜1995)というと、孤高の名ピアニスト・芸術至上主義者・完璧主義者・キャンセル魔などと言われて、逸話の多い伝説的ピアニストでした。別の言い方すると、ちょっと変わった人ということ。ミケランジェリの音色は透明でクリスタルな響きでとても美しいのですが、表現に完璧性を求めるあまり、音楽が整いすぎて冷たいと言われることも多かったようです。
ところで本稿で取り上げる音源ですが、これは1989年6月ブレーメンでミケランジェリがモーツアルトのピアノ協奏曲第20番を取り上げた時のリハーサル風景です。指揮者のコード・ガーベンがオーケストラ・パートをピアノで弾き、ミケランジェリの方は別のピアノでピアノ・パートを弾きながら、 オケのパートにいろいろ 細かい指示を出しています。ここでミケランジェリがオペラ歌手のような声で実に朗々と歌うのですねえ。さすがイタリア人だなあなどと感心しながら聞いていると、もうひとつ別のことに気が付きました。ピアノのタッチが柔らかい。適度なルバートが掛かって、フレージングに歌心があって、とても暖かく感じます。この響きは魅力的です。・・・しかし、いつものミケランジェリらしくない。
アレレッと思って、ミケランジェリの若いときの同曲の録音を引っ張り出して聴いてみますと、例えば1956年のミトロプーロスとの共演ではいつものの完璧に整った音楽で・これはこれでスタイルが決まった素敵な演奏ですが、印象が全然違います。一方、このリハーサル風景から聞こえてくるのは、同じミケランジェリとは思えないほど、音楽する喜びに溢れたピアノ、そして歌声です。実は、この前年(1998)に心臓発作を起こして入院し、この時が復帰のコンサートでした。ミケランジェリは倒れた日を自分の新たな誕生日と定め、「自分は生まれ変わった」と宣言したそうです。恐らくそのようなミケランジェリの心境変化が 、その音楽に影響を与えたのです。
音楽に歌心がなければ、それは音楽ではありません。だから、こういう風景は当たり前と思うかも知れないですが、しかし、ミケランジェリがピアノ弾きながらこんなに楽しそうに歌っている姿を、吉之助はこの音源を聞くまで想像だにしませんでした。「何が面白いんじゃ」みたいな、苦虫を噛み潰した気難しい顔をしながら、黙ってピアノを弾いているのかと思ってました。
実は、ミケランジェリは昔から自宅でピアノを弾く時はよく歌っていたそうで、生徒に音楽をレッスンする時にも よく歌ったそうです。ところが、いったんステージに上がると、ミケランジェリは気難しい完璧主義者に変身してしまうのです。ステージのプレッシャーというものは、それほどキツイものなのですね。そのミケランジェリが、心臓発作を経験して「生まれ変わって」、歌うピアニストに変身してしまったということなのです。このリハーサル風景を聴いて、吉之助は何だかジーンと来てしまったのでした。
*ちなみに指揮者のガーベンの本職はドイツ・グラモフォンのプロデューサーで、ミケランジェリのドビュッシー前奏曲集などの録音を手がけた人です。
下記が1989年6月ハンブルクでの本番ライヴです。
ミケランジェリのピアノ、ガーベン指揮北ドイツ放送響(DG録音)(H25・5・11)
ここで紹介するのは、1953年に晩年のアルフレッド・コルトー(1877〜1962)が、パリのエコール・ノルマル音楽院で行なったピアノ・レッスン風景です。 映像ではコルトーが、シューマンの「子供の情景」の最終曲「詩人のお話」を弾きながら、生徒たちに講義しています。48秒辺りで講義に聴き入る三人の男子生徒が映りますが、一番右で腕を組んで 聴き入っているのが若き日のエリック・ハイドシェック(当時17歳)です。
それにしても、これはプロのピアニストを目指す音楽学生だけでなく、音楽を愛する人にとっても、実に魅力的な講義です。コルトーの講義は「詩人の朗読みたいだ」と言われたそうです。ピアノを弾きながら、後ろに身をよじって生徒たちに語りかけるように、音楽の表情をゆっくり撫で回すかのように語り、響きが変換されて言葉になって紡ぎ出されるかのように感じられます。コルトーの語りに導かれて、シューマンの心の奥底に入り込んで行く 感覚に襲われます。もちろん別の解釈だってあり得るわけですが、しかし、コルトーには説得力があって、これを聴いている時にはこの解釈・この表現しかあり得ない気分にさせられます。こういう形で柔軟かつ重層的に解説が出来るのも、すべてがひとりで自在に制御できるピアノという楽器ならではのことです。こう して名演奏家の講義を聴くのは、音楽の理解にとても効き目があります。
コルトーはロマン主義的なピアニストだと言われます。そういう世間のイメージは主要レパートリーがシューマン・ショパンなどのロマン派からフランス近代という・比較的狭い範囲であって、その美しいタッチと個性的なテンポ・ルバートなどから来るもので しょう。しかし、吉之助が思うには、「ロマン主義的」という言葉から想像されるよりも、コルトーはずっとフォルムに忠実であり・恣意的な表現の少ないピアニストであって、だから表現が古びなくて普遍性を持つわけです。その意味でコルトーもまた確かに20世紀前半の芸術思潮(ノイエ・ザッハリッヒカイト)のなかに在ったピアニストであった と思います。
コルトーの音楽に「ロマン主義的」な要素があるとすれば、それはこのマスタークラス講義に端的に出ていると思いますが、音楽は言葉に変換できて・また言葉が音楽にも変換できるという・イメージの可逆性、これがコルトーの音楽思想の根本にあったということ なのです。講義が詩人の朗読みたいだという話もそこから来るわけです。例えば、ショパンのピアノ・ソナタ第2番「葬送」の第1楽章冒頭での講義でコルトーが、
『・・(生徒に)君は"騎行”と言ったが、騎行ではない。その後で君が言った”息切れ”、それだよ。・・すべてが不穏で、熱に浮かされたようで、息切れして喘いでいる。・・何もかも、まさに胸を引き裂くようだ、悲痛というよりも嘆願・・ふたつのリズムを対比させないといけない。・・』
と言っているのには、目が醒める思いがしました。コルトーのピアノを言葉付きで聴くと、単なる解説付きというのではない感じで、音楽が鮮烈に突き刺さってくるようです。コルトーのこの解釈はまさにロマン主義的だと言えます。と同時にフロイト的分析・つまり二十世紀初頭の人間理解でもあるようです。そう思うと、上の映像での「詩人のお話」でのコルトーも、どこか夢分析をしているかのように見えてきますね。
*コルトーが1954年〜1960年までに行なったマスタークラスのかなりまとまったものがCD(音声のみ)に収録されています。ただし、シューマンの「子供の情景」は収録されてません。
(H25・4・28)
別稿「どちらの側に立つか」において平成25年2月・天王洲銀河劇場 での「テイキング・サイド」の舞台を取り上げたので、本稿はその関連記事です。この舞台は、20世紀前半のもっとも偉大な指揮者のひとり・ウィルヘルム・フルトヴェングラーの戦後の非ナチ化裁判を題材にしたお芝居(のように見せて実はそうではないのですが、その辺は吉之助の観劇随想をご覧ください)でした。
本稿で紹介するのは、1942年4月19日、旧ベルリン・フィルハーモニー・ホールでの、ヒトラー生誕前夜祭でのベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」の第4楽章・最終部分の映像です。演奏が終わると宣伝大臣ゲッペルスが指揮台に近づきフルトヴェングラーに手を差し伸べ握手する姿が、ばっちり映像で残されています。
これはフルトヴェングラーのナチス協力の証拠として、後々までもフルトヴェングラーに圧し掛かった重い事実です。果たしてフルトヴェングラーはナチスに進んで協力したのか・それともやむを得ないことだったのか、あるいは芸術は政治とは無関係に超然と立つものなのか・そうではないのかなどいろいろなことを考えさせられます。1948年にフルトヴェングラーはシカゴ交響楽団の常任指揮者の要請を受けましたが、これが全米の音楽家・知識人(これは主としてユダヤ系の人たちによりますが、そうでない人もいます)の猛反対のために破談となりました。これが実現して、もしフルトヴェングラーが渡米していたら、その後のフルトヴェングラーの音楽はどうなっていたか、全然想像が付きません。 フルトヴェングラーはドイツ音楽ばかり振っていたわけではないですが、それほどまでにフルトヴェングラーのイメージは「ドイツ的なるもの」と強く結び付いています。
『ヒトラーに派遣され、チューリヒ、ブダペスト、パリなどでベートーヴェンを指揮した指揮者は、自分は音楽家だから音楽をやるだけのことだ、という言い逃れで嘘をついたことに責任を持つべきである。(中略)例えば「フィデリオ」のことである。これは本来ドイツ人の自己解放の祝祭劇である。それがこの12年間禁止されなかったという事柄がおかしなことだ。それどころではない。これを歌う歌手がおり、それを奏する楽員や、これに耳を傾ける聴衆がいたということは、立派なスキャンダルだ。ヒトラーのドイツで「フィデリオ」を聞き、両手で顔を 覆うことなく、会場から外に飛び出しもしなかったとは、何という鈍感さであろうか。』(トーマス・マン、「わたしは何故ドイツに帰らないか」)
上記のトーマス・マンの文章では名指しされていませんが、誰もが頭に思い浮かべるのはフルトヴェングラーのことなのです。ユダヤ系ゆえに生国ドイツを捨てて出て行かざるを得なかったマンの憤りはもちろん分かります。マンの言うことは確かに筋は通っているのだけれど、「・・で、君はフルトヴェングラーを有罪とするね」と聞かれれば、こちらとしてはウッと返答に詰まるところがまだまだ残ります。簡単に答えを出すことができない重い問題なのです。第三者的な立場に自分を置けば気楽に言えますが、「テイキング・サイド〜どちらの側に立つか」を、もし自分がフルトヴェングラーの立場だったら・ 自分は国を捨てられるか・それとも残ってどうするか?、自分ならどうするか?と自分自身を問いたいという風に考えるのは、そこのところです。
(H25・3・9)
昨今は海外の一流オペラハウスが続々と来日公演して、どれを聞こうか選ぶのに困るほどです。その昔は交通手段も発達していませんでしたし・費用も莫大に掛かりましたから、1970年以前には海外オペラハウスの公演が非常に稀でした。そのなかで音楽ファンの渇を癒してくれたのが「NHKイタリア・オペラ」(正確には「NHKイタリア歌劇団」と称す)という企画でした。NHKイタリア・オペラは1956年から76年まで8回に渡り、オペラの本場イタリアから一流歌手と指揮者・演出家をNHKが招聘し、管弦楽はNHK交響楽団・合唱団は二期会など・装置製作は日本で受け持つ形で・オペラ公演を実現したものです。NHKイタリア・オペラ公演が日本音楽界に与えた貢献は実に計り知れないもので、思えば吉之助も71年9月(第6次)のイタリア・オペラ公演で・パヴァロッティが歌うマントヴァ公爵の「リゴレット」をテレビで見たのが最初のオペラ体験でありました。
そのハイライトは何と言ってもデル・モナコやデバルディやシミオナートが登場した第1次〜第3次公演でしたが、今回紹介する映像は、1961年(昭和36年)公演のジョルダーノ作曲・歌劇「アンドレア・シェニエ」第1幕でのシェニエのアリア「ある日青空をながめて」です。マリオ・デル・モナコ(アンドレア・シェニエ)とレナータ・テバルディ(マッダレーナ)が共演した超豪華版。当時の欧米でのオペラ舞台の映像はあまり残っていませんから、海外のオペラ・ファンも随喜の涙を流す貴重な映像です。
その歌唱の素晴らしさもさることながら、デル・モナコが客席に正面を向いて声を張り上げて歌っている姿が、今となっては興味深いところです。実は最近の歌手はあまりこういうことをしないのです。もっと自然に(ある意味では映画的に)演技し、歌唱します。一方、デル・モナコは声の聞かせ所で客席に真正面を向いて・背を伸ばして・声を張り上げて、歌い終わると腕をサッと振り上げて決めて見せる、その姿が実にカッコ良いのですねえ。これどこか歌舞伎の見得に似ていると思いませんか。事実、これは見得としか言いようのないものです。デル・モナコは押し出しの良さと云い・斬れの良さと云い、実に素晴らしい。そういうわけで吉之助は個人的にデル・モナコをオペラ界の十一代目団十郎と呼んでいるのです。そうするとテバルディは七代目梅幸ということになりますが、その楚々として控えめな美しさにそういうところを感じませんか。こういう符号が同じ時代に場所を隔ててあるのだから、不思議なものだなあと思いますねえ。
上記の映像ではないですが、同じ「アンドレア・シェニエ」第4幕最終場面のシェニエとマッダレーナの愛の二重唱「貴女のそばでは、僕の悩める魂も」では、デル・モナコとテバルディが手を繋いで・ふたり正面を向いて並んで歌っているのも、 現在ではあまり見られない光景です。現在の演出では、こういう場面では愛する二人は向かい合って抱き合って・つまり客席から見ると歌手は横を向いて歌うことが、もうほとんど常識化しているからです。ところが、昔は大抵こんな風だったのですねえ。恋人たちなら抱き合って歌う方が視覚的に自然(写実)に見えると思いますが、横を向いて歌うとどうしても声の威力は減殺されます。昨今は歌手のスケールが小さくなったなあと感じること も事実ですが、このような視覚重視の演出が多少関係してはいます。その一方で、最近の歌手は演技も含めて表現の繊細さという点では昔より優れているというのも確かなことで、まあ一長一短というところでしょうかね。それにしてもデル・モナコとテバルディの声の力強さには圧倒されます。
ところでジョルダーノの旋律も適度な甘さ(通俗性)とドラマのツボを心得ていてなかなかのものですね。「アンドレア・シェニエ」は1896年ミラノの初演ですが、この延長線上に映画音楽があるのです。1930年前後になるとオペラは行き詰まり、本来ならばオペラを作曲したであろう作曲家たちがハリウッドで仕事をするようになります。その辺は別稿「歌舞伎とオペラ・その17:演劇における音楽的要素」などをご参照ください。
(H25・1・20)