衆道とかぶき的心情
平成22年3月・日生劇場:「染模様恩愛御書」(細川の血達磨)
七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(大川友右衛門)、 六代目片岡愛之助(印南数馬)
1)歌舞伎と衆道
『私どもの青年時代には、歌舞伎芝居を見るということは恥ずかしい事であった。つまり芝居は紳士の見るべきものではなかった。だから今以って、私には、若い友人たちのように、朗らかな気持ちで芝居の話をすることが出来ない。私の芝居についての知識は、いわば不良少年が、店の銭箱からくすねて貯めた金のような知識で、理屈から何でもないことだが、どうも後ろめたい。どうも私の話につきまとう卑下慢式なものを嗤ってください。』(折口信夫:「手習鑑雑談」・昭和22年10月)
ここに掲げたのは折口信夫が「菅原伝授手習鑑」についての随想の冒頭部です。この後に続く「菅原」論とはまったく関連がないもので、どうして折口がこのような文章をマクラに置いたのかその意図は推しはかるしかありません。「歌舞伎芝居を見るということは恥ずかしい事だった・芝居は紳士の見るべきものではなかった」ということは若い歌舞伎ファンの方は全然理解できないかも知れませんねえ。折口が若い頃は「大学で芝居を学びたい」などと言おうものなら「そんなものを男子一生の仕事にしたいとは何事か」と父親は怒り母親は泣くような時代だったのです。当時は実学(じつがく)という言葉がありまして、学問は実利に直結するものがまず求められた時代でした。歌舞伎を愉しみとして観るのはともかく・学問とするなど考えられない時代でした。
ある時、池田弥三郎が師である折口に「芸能とはイコール民俗であるか」という質問をしたことがあったそうです。折口はしばし考えて・慎重に「芸能は多分、民俗ではあるまい。もし芸能が民俗であるならば、柳田(国男)先生が芸能研究の分野を自分に任せるはずがない」と答えたそうです。(池田弥三郎:「芸能の流転と変容」)折口は言葉を選んで「柳田先生が芸能分野を自分に任せた」と言っていますが、真実のところは柳田は芸能を研究対象として見なかった・というより価値を認めていなかったので、「そんなものに関心があるのならお前(折口)やってみな」と折口にカスを放り投げたということです。折口もそのような柳田の冷たい視線を感じたと思います。だからああいう慎重な発言になるのです。柳田も能ならば対象に考えなくもなかったでしょうが、歌舞伎となると軽蔑しか感じなかったでしょうねえ。
その意味というのは、上掲「手習鑑雑談」とはまったく別件ですが、「歌舞伎を見るということは恥ずかしい事」だったということは、歌舞伎がある種の猥雑な・反道徳的な要素と強く結びついており、歌舞伎を論じる時にこのことを完全に切り離すことが出来ないということにあります。実はそれが柳田を生理的に嫌悪させたものです。歌舞伎のなかの猥雑な要素というものはいろいろありますが、代表的なものをひとつ挙げれば・ 例えば男色のことです。しかし、この「歌舞伎素人講釈」もそうですが、歌舞伎研究というのはどれもその辺に深入りすることを慎重に避けながら論理を進めているところがあるのです。女形を論じる時でも、女形は男色という問題と切っても切り離せないものです。女形の魅力など論じながら・そっちの方面へ話しが行くことがないように誰でもそれとなく注意しているのです。吉之助がそちらの方面に全然関心がない(こういうことをワザワザ書かねばならぬところにそもそも問題があるわけですがね)ので、歌舞伎を純粋に学問的な材料として論じたい・風俗的に論じるつもりはないという意識は吉之助にもかなり強いものがあります。そういうわけですから、本稿では衆道(男色)を主題に扱った芝居を取り上げますが、まあ学問的にサラリと論じたいところですね。
今回の「染模様恩愛御書」(そめもようちゅうぎのごしゅいん)は通称「細川の血達磨」と呼ばれるもので江戸時代はよく上演されたものですが、大正頃から衆道というテーマの特異さと火事場演出の難しさから上演が途切れたようです。今回は染五郎(友右衛門)と愛之助(数馬)による久しぶりの上演ですが、衆道という主題を歌舞伎が取り扱うなかに実に歌舞伎らしい処理が見えるのが興味深く思われるので・ちょっとその辺を書いてみたいと思います。(注:「染模様恩愛御書」は今回の上演だけの外題であるので、以下本稿では衆道を主題としたこの芝居を「細川の血達磨」という作品名で統一することとします。)
(H22・3・21)
2)衆道はなぜ不義とされたか
「細川の血達磨」では友右衛門と数馬が衆道関係にあることが明らかになり・ふたりは不義者としてあわや手討ちになるところでしたが、主人細川公の温情により許されます。それが火事場に友右衛門が飛び込んでお家の重宝を身を犠牲にして守るという行為につながっていくわけです。ここでまず衆道関係だとどうして不義でお手討ちなのか・その理由が問題になると思いますねえ。一般的には衆道というものは道徳的に許されない行為であるから・それで手討ちの対象になるのだと説明されていて、昔はそんなものなのかいなと思って芝居を見るわけです。だから不義者のふたりを許してくれた細川公は情のある良い殿様で、その殿様の恩義に報いるために身を犠牲にした友右衛門は天晴れだということになります。そうすると「細川の血達磨」は前半の主題は衆道であるけれど、後半の主題は忠義(さらにこれには仇討ちが絡みます)という風に理解されると思います。筋書きを読むと染五郎や愛之助も同様に「男同士の恋愛が 最後に武士道や忠義に昇華していく」ということを語っています。これは「まあ確かにそういう見方もありますねえ」と言うことにしておきます。多分そういう形で「細川の血達磨」 というドラマは江戸の昔から世間に受容され、最後に忠義の行為で終わるからそれで良しとされてきたのでしょう。しかし、そのような説明では友右衛門の前半の衆道行為と・最後の火事場での犠牲行為とが心情的にぴったりと繫がらないと吉之助は思いますねえ。衆道の友右衛門が一転して犠牲行為に突っ走っていく論理が一本線で見えてこない。だから「昇華」という言葉を使わなければならなくなると思います。どうして衆道は不義なのですかねえ。
衆道関係というものは古今東西において見られるものです。日本においては特に戦国末期から江戸初期において顕著に見られました。一々例を挙げるまでもなく大名でもその趣味の方が実に多くありました。五代将軍徳川綱吉なども「前の世からの女嫌いにてまします」と言われた男色家でした。ということは衆道はお上のご趣味であったわけですね。それならば家来が同じご趣味なら結構なことじゃないでしょうかね。奨励されこそすれ、手討ちにすることはないだろうと思いませんか。しかし、現実には家来が衆道関係であることが発覚して手討ちになる事例がしばしば起こりました。衆道関係のもつれなどで刃傷沙汰がしばしば起こったこともまた事実です。衆道は不道徳だから 駄目だというなら、将軍様も不道徳だということになります。まあ将軍様は不道徳でも良いが下々は不埒なことはならぬという論理もあり得ますが、説得力はないですねえ。 今回の上演では細川公のご趣味はよく分かりませんが、衆道関係だとどうして不義なのでしょうか。この場では友右衛門も数馬も自分たちが手討ちになることは仕方ないと観念しているようです。衆道は不義だという共通した認識が双方にあるようです。
実はなぜ衆道が不義とされたのかは、「かぶき的心情」ということを考えないと決して理解が出来ません。「歌舞伎素人講釈」ではかぶき的心情についていろいろと考察してきました。かぶき的心情とは江戸初期を覆う時代的気質です。それは個のアイデンティティーの発露であり、おのれの「意地」や「一分(いちぶん)」を非常に激しく主張するものでした。このような気風はもともと戦国時代に発するものです。バサラの気風がそのひとつですが、戦乱期は個性がものを言った時代ですから・その時代にはかぶき的心情は良い方の作用をしたのです。しかし、平和の時代になり・社会機構が固まって組織の維持・継続が至上命題になってくると、個人がやりたいことをやってそれで良いということにならなくなってきます。個人が勝手なことをやり出すと組織としては非常に迷惑なのです。そうなると個人は社会のなかで生きるのが窮屈になってきます。行き場を失って・持て余したエネルギーがいろんな方向に噴出し始めます。これが江戸初期のかぶき的心情なのです。つまり江戸のかぶき者の心情・歌舞伎のルーツなのですが、実は同じような気風が大名から町人まであらゆる階層に及んでいました。
かぶき的心情はいろいろな現われ方をして、決して一様なものではありません。別稿「かぶき的心情とは何か」では代表的な現象として仇討ち・殉死・心中ということを取り上げましたが、本稿では衆道ということにちょっと触れます。これは「歌舞伎素人講釈」ではこれまで取り上げなかったものです。もちろん衆道というものは日本の歴史のなかで古くからあるものですが、江戸初期の衆道はかぶき的心情と強く結びついて・特異な様相を示すのです。それは単に若者が前髪立ちの美少年に寄せる恋心というものではありません。もちろんその要素は核としてあるもので・その点では伝統(?)を継いでいますが、個の主張という行動論理を持つことで・江戸初期の衆道はラジカルな自己表現という様相を見せ始めます。つまり仇討ち・殉死・心中などというかぶき的心情の自己主張のひとつとして衆道があるのです。ですから自己主張が叶うならばそれは別の行動に置き換えることが可能だということになります。「細川の血達磨」で見れば、後半に仇討ちがあり・これは言うまでもなくかぶき的心情の行為です。さらに火事場に友右衛門が飛び込んでお家の重宝を身を犠牲にして守るという行為も、どれもかぶき的心情の行為なのです。ですから「男同士の恋愛が武士道や忠義に昇華していく」という表現は正確なところではなく、本当は友右衛門は最初から最後まで徹頭徹尾かぶき的心情に生き・かぶき的心情に殉じたと考えて良ろしいわけです。友右衛門の行動はかぶき的心情として完全に一貫しています。それが「細川の血達磨」のドラマの真相なのです。
そう考えればなぜ衆道が不義とされたかも分かってきます。少年は自分を愛してくれる若者と義兄弟の契りを交わすことで、一人前の男になることを学び・精進を重ねたわけです。付け加えますと義兄弟というと兄と弟という上下関係に取るかも知れませんが・そうではなく、これは上下関係のない一対一の男と男の対等な関係です。そしてどんな場合においても彼らは義兄弟の誓いをまず第一としました。そこに個人の意地や一分が掛かっているからです。それがかぶき的心情というものです。組織の維持を至上命題とした江戸の封建体制が嫌ったのはまさにこの点だったのです。封建組織は家来に対して主君への絶対的・継続的な忠誠を要求します。しかし、かぶき者(もちろん衆道者が含まれます)は我らの誠を尽くすべきものは他にあるとするのです。主人の要求が自分の主義に反さない場合には良いのですが、反すると思えばかぶき者は主人を平気で裏切るのです。なぜならばかぶき者にとって義兄弟の誓いの方が重いからです。こんな手前勝手な論理を封建体制が許しておくはずがありません。ですから封建体制は衆道は不道徳であるから駄目だ・不義だと決め付けたのです。社会組織が整備されていくうちに・だんだんそれが世間一般の感覚になっていきます。衆道は地下へ潜ることになります。しかし、その罪の意識が自己表現の手段としての衆道の快感を高めることにもなる。だから不義だと言われてもますます衆道に走る者が出る。江戸初期の衆道の様相はそんなところでありましょうかね。
蛇足ですが、歌舞伎史を読むと遊女歌舞伎や若衆歌舞伎を幕府が禁止したのは風紀の乱れからであるとどの本にも書いてありますが、それは表向きの理由に過ぎません。歌舞伎が振り撒くものに反体制的な匂いを嗅ぎつけたからこそ、幕府は歌舞伎を弾圧したのです。(女優の禁止が歌舞伎の表現を捻じ曲げたということを「歌舞伎素人講釈」では「歌舞伎の第1回目の死」と呼んでいます。別稿「歪んだ真珠〜バロック的なる歌舞伎」をご参照ください。)確かに歌舞伎役者(遊女・若衆)をめぐった色恋の刃傷沙汰などが問題になった事実はありましたが、いつの時代においても為政者が自分の気に入らないものを消し去る時には「不謹慎だ・不道徳だ・風紀を乱す」と言うのです。これがいつの時代にも為政者がとる論方だということです。ちょっと見方を変えて見れば真実は別なところにあるということが分かると思います。
(H22・3・23)
3)衆道とかぶき的心情
「細川の血達磨」がかぶき的心情のドラマであることが分かれば、不義の罪で手討ち寸前の友右衛門と数馬を助けた細川公の行動も理解できます。細川公はふたりの仇討ちを認めますが、その後・たまたま立花家の使者として細川公の許を訪れた図書がその仇であることを知らされると、細川公はすぐさま屋敷の門を閉じさせ・家来に図書の捕捉を指令し仇討ちの加勢を始めるのです。図書に外交特権があるわけではないですが、図書は立花家の正使として細川家を訪れているわけで、先方主家に何の申し渡しもせず図書を屋敷内で討ち果たすのでは立花家の面目は丸潰れです。これは事後の通知で済むものではありませんし、下手をすれば両家の戦さにもなりかねない危険な行為です。しかし、細川公はそれを平気でやるのですねえ。このことから細川公も相当なかぶき者であることが明らかなのです。実は江戸初期の仇討ちというのは、どちらに正義があるかというのは二の次のことで・討つ側と討たれる側の親類縁者一門が集まって行なう一大イベントみたいなものでした。とにかく親類あるいは家来に討たれる・あるいは返り討ちに合う者が出るというのはその一門の名折れであるというので、それぞれの面子を賭けて双方が集まり・熱くなって睨み合ったものでした。ですから細川公は家来思いの気持ちから仇討ちの加勢をしているわけではなく、自分の家来から仇討ちで名を挙げた者が出れば主人として鼻が高いというかぶき者の心情で仇討ちをけしかけているわけです。
「細川の血達磨」は全体を見れば仇討ち芝居の構図ですから、衆道ドラマかと思って舞台を見ているといつの間にか忠義・武士道のドラマに無理やりこじつけられちゃったように見えるかも知れません。だから「男同士の恋愛が武士道や忠義に昇華していく」なんて解釈が出てくるわけですが、実を言えばこれは転化でも昇華でもないのです。この芝居は最初から最後までかぶき的心情のドラマで、そこで一本太い筋が通っています。衆道も仇討ちも・火事場の犠牲的行為もすべて同じかぶき者の心情から発しており、彼らの論理からすればまったく当り前のものとしてそれらの行動が出ているのです。
今回の上演脚本はテンポアップもされて要領良くアレンジされており、吉之助の上記の考察に足るだけの材料は見ようと思えば舞台のなかに十分見えます。そこにかぶき的心情を見るか見ないかは、まあ解釈の問題と言えま す。それでは染五郎や愛之助が語るところの「男同士の恋愛が最後に武士道や忠義に昇華していく」という解釈が間違いかというと・必ずしもそうとも言い切れないと思います。結局、「細川の血達磨」という芝居が江戸期にお上に抹殺されることなく・それでも何とか命脈を保って来れたのは、この芝居が特異な形であっても忠義のドラマだという風に読まれてきたからなのです。それはそれでこの「細川の血達磨」の真実です。ただし表向きの真実ということですけどね。しかし、舞台に隠された真実を読み取ってその奥底に入り込んでいけば、まったく違う骨太い男のドラマが舞台に見えて来ます。
それにしても火事場で奮闘して焼死した友右衛門が賞賛されて・御家の守り神に祀り上げられるのは、当のかぶき者・友右衛門からしてみると「面映い」か・あるいは「有難迷惑」かも知れませんねえ。本人にしてみれば「天晴れじゃ!」と言われさえすればそれで十分なのです。この辺に大衆を取り込もうとする体制の狡猾なレトリックが潜んでいます。このような体制のレトリックが骨太い男の純情をヤワい男の恋心に変えてしまうのです。だから衆道と最後の火事場の憤死とを結ぶ連続した線が見えなくなってしまって、これを無理に連続させようとすると「昇華」という風に言わざるを得なくなるわけです。そういう時には補助線を引いて考えれば良ろしいのです。それがかぶき的心情ということです。
骨太いかぶき的心情のイメージからすると、友右衛門の恋の相手である数馬はあまりヤワい感じに処理するのではなく・まあせいぜい「鈴ヶ森」の白井権八くらいの優男に留めて欲しいものだと吉之助は思いますが、「細川の血達磨」の江戸期の上演記録を見ると、数馬を演じた役者は佐野川市松(初代)・芳沢あやめ(五代)・瀬川菊之丞(四代)・岩井半四郎(八代目)などどれも女形系統の役者です。如何にもナヨーッとして女と見分けがつかない男女(おとこおんな)の数馬が想像されます。江戸時代からずっとそのような形で衆道が描かれてきたわけです。しかし、これは江戸の封建・検閲社会を生き抜くための歌舞伎の哀しい知恵ですから責めるわけにもいきませんが。愛之助のせいではないですが、今回の舞台の数馬も男装したご令嬢の如くで・いまひとつピンと来ません。何だか衰弱したセンチメンタルな印象で、ここからかぶき的心情のエネルギーを想像せよと言ってもチト難しいかなあとは思います。もっとも現代の観客はこのような絵面の処理の方が衆道に対する興味が掻き立てられるのかも知れませんねえ。
(H22・3・27)
4)かぶき者の衆道の骨太さ
衆道という症候(ラカン的な言い方をすればそれは症候となります)は心理学でも容易に論じられるものではないですが、本稿ではかぶき的心情の観点から衆道を見てみたいと思います。別稿「演劇におけるジェンダー」において、昔の人々はセクシュアリティの不安に関して我々が想像している以上に体制転覆的なイメージを感じ取っていたことを考えたわけです。恋愛とは愛する対象(異性)と同一化しようとする行為である。と同時に自己の本性(男性ならばその男性的性格)を失わせることでもあるのです。例えば「ロミオとジュリエット」において・恋してしまったロミオは剣を抜いてティボルドと闘う気にどうしてもなれずに・とまどってこう叫びます。
『いとしいジュリエット、君が美しすぎるから、僕が女々しくなってしまった。僕の気性は勇気の鋼がにぶってしまった。』(第3幕第1場)
ロミオのこのような感じ方が「女性に対する情熱は男性を女々しくする・だから女性は男性にとって危険である」という感じ方に転化していくのです。日本においても戦場に向かう武士が妻や恋人のことを思うことは未練なこと で男の恥だとされました。このことは一般に現世・俗世の柵(しがらみ)を断ち切れていない・生への執着を意味すると理解されていますが・実はそうではなく、それはむしろ女性に対する情熱が彼の戦う勇気・あるいは雄々しさを鈍らせることを言っています。このこと が戦国時代から江戸初期にかけて・つまりかぶき者の衆道への関心に強く関連すると吉之助は考えています。つまり同性を相手にする限りは自分の雄々しさ・男性性は守られるとするのです。ご承知の通りかぶき的心情とはアイデンディティ ーの主張であるわけですから、ここで衆道がアイデンディティーのひとつの主張として機能することになります。(注:衆道の対象がしばしば若衆となることについては散り行く花に対して美しさを感じるという・また別の美学が絡みます。この要素は分けて分析されねばなりません。)
現代の人々のイメージよりも、江戸のかぶき者の衆道はずっと骨太いものであったことが想像できます。もっとも無骨な男同士の恋愛模様を舞台で見せ付けられて絵面の舞台になるのか・エンタテイメントになるのかという問題は確かに残りますが。そこのところも染五郎と愛之助という素材ならうまく処理すればそれなりに見られるものが出来そうに思いますが、しかし、実際の舞台で見るとやはりヤワい印象です。どこかに照れが出るのですねえ。この照れは観客の方にもあります。だから友右衛門と数馬の出会い・あるいは双方がその真情を確認する場面などどことなく滑稽なタッチで処理されています。観客も笑うことでごまかします。本来ならばここはもうちょっとシリアスなものだろうと思います。そうでないと仇討ちや火事場の奮闘という行為に衆道が同じ線上に並んで見えてこないわけです。だから今回の舞台の衆道の場面が何だか衰弱したセンチメンタルな印象、心理学的に言うなら去勢された・ファルスを奪われた状態に見えてきます。まあそこに江戸中期以後の衆道の様相が垣間見えて興味深いということは言えます。
江戸期の「細川の血達磨」の数馬がもっぱら女形で演じられてきたことは先に述べました。ナヨナヨとした女と見分けがつかない男女(おとこおんな)の数馬です。歌舞伎のなかで衆道がこのようなヤワい形で描かれてきたことは、ひとつには先に述べた通り江戸の封建社会を生き抜くための歌舞伎の哀しい知恵でした。しかし、もうひとつの要因も考えておいた方が良いと思います。それは歌舞伎は衆道をこのような形でしか描けなかったということです。ひとつは江戸期の衆道は本来持っていた自己主張の要素を否定されて(つまりファルスを奪われて)地下に潜った形で存続したということ、もうひとつは歌舞伎という演劇が去勢された・ファルスを奪われた演劇であったからです。女形とはあらかじめファルスを奪われた存在です。かぶき的心情はアイデンティティーの主張ですから、当然ながらかぶき者の行為というのは常にファルスの誇示です。歌舞伎もまたかぶき的心情に裏打ちされたドラマですから、そのドラマツルギーは本来ファルスの誇示を含んでいるのです。しかし、歌舞伎は本質的なところでその主張を奪われています。その要因のひとつが女優の禁止ということで、吉之助は歌舞伎史のなかでこれを「歌舞伎の第1回目の死」と呼んでいることはご存知の通りです。(別稿「歪んだ真珠〜バロック的なる歌舞伎」をご参照ください。)女優の禁止によって生まれたのが女形です。ですから衆道という典型的なかぶき的心情のドラマがこのような形で歌舞伎で処理されることに吉之助はある種の感慨を覚えますねえ。それは歌舞伎という演劇の在り方と自然にオーバーラップしてくるのです。今回の「細川の血達磨」上演はこのようなことを考える良い機会を与えてくれました。
(H22・4・4)