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四代目橋之助と二代目鶴松・初役の「吃又」

令和8年1月浅草公会堂:「傾城反魂香〜土佐将監閑居(吃又)」

四代目中村橋之助(浮世又平後に土佐又兵衛光起)、二代目中村鶴松(女房おとく)、八代目市川染五郎(狩野雅楽之助)、七代目市川男寅(土佐修理之助)、初代中村橋吾(土佐将監光信)、三代目中村歌女之丞(将監北の方)他


1)橋之助と鶴松・初役の「吃又」

令和8年1月初芝居・浅草公会堂・新春花形歌舞伎を見てきました。本稿では橋之助の浮世又平・鶴松の女房おとく・共に初役で勤める「土佐将監閑居」・通称「吃又」を取り上げます。若手が一生懸命役に取り組んでいる姿は、いつ見ても気分が良いものです。

橋之助は又平の純朴な人柄と・けれども発声障害で自分の言いたいことをうまく表現できない哀しみを嫌味なく演じて、女房役の鶴松は出しゃばり過ぎず・程の良いところで夫を支えて・これも嫌味なく、幕切れはほのぼのとした夫婦愛を描いてメデタシメデタシ。芝居の後味は悪くありません。勤めるべきことはしっかり勤めて、初役にして一応の成果を挙げています。そのことを認めたうえで今後の課題を書くことにします。

最初の又平夫婦の花道の出が、実はとても大事なのです。道すがら夫婦は将監宅から引き揚げる百姓衆に行き会い、その時に修理之助が土佐の苗字を頂いたことを耳にしました。それは、夫婦にとって衝撃的な事実でした。(経緯はともかく)兄弟子である又平よりも先に、弟弟子の修理之助が師将監から印可を受けたと云うのです。「お師匠さまは俺よりも弟弟子の方が可愛いのか」、多分又平はそう感じたに違いありません。この衝撃が、又平夫婦の花道の出に表れていなければなりません。又平は愕然として・おとくは悄然として将監宅にやっとたどり着く・・そのような気分が二人の背中に表れて欲しいのです。残念ながら、橋之助・鶴松の夫婦はそこの気分の表出が弱いようです。スタスタ先へ行ってしまう感じでしたねえ。例えば又平夫婦登場の直前の義太夫の詞章に、

『ここに土佐の末弟、浮世又平重起(しげおき)といふ絵かきあり。生れついて口吃り、言舌明らかならざる上、家貧しくて身代は、薄き紙衣(かみこ)の火燧(ひうち)箱。朝夕の煙さヘ一度を二度に追分や、大津のはづれに店借りして、妻は絵具夫は絵がく、筆の軸さへ細元手上り下りの旅人の、童すかしの土産物三銭五銭の商ひに、命も銭もつなぎしが・・(後略)』

とあります。「ここに土佐の末弟」とありますが、ホントは又平は末弟ではないのです。末弟でないのだけれど、理由はどうあれ・又平は末弟同然の扱いを受けています。又平のその悔しさを思ってください。そこから「吃又」のドラマが始まります。(この稿つづく)

(R8・1・14)


)成長物語としての「吃又」

「吃又」で起こりがちな解釈は、又平が末弟同然の扱いを受けて「差別」されるのは彼の発声障害(吃り)のせいだと云うことです。ところが、師将監はこのように繰り返し言っていますね。

『汝よく合点せよ。絵の道の功によって土佐の名字を継いでこそ手柄とも言ふべけれ。武道の功に絵かきの名字、譲るべき子細なし。』

又平は絵の道に於いて未だ傑出した成果を挙げていない、それ以外のことで土佐の名字を譲ることはないと将監は云うのです。これが将監の真意なのです。それが証拠に、又平が描いた絵が手水鉢を抜ける奇蹟を起こしたらば、将監の態度は一変して優しくなり・又平に印可を授けるのです。

ところが又平も・女房おとくもそうですが、師が認めてくれないのは又平の吃りのせいだと考えていたようですねえ。そこに師と弟子の間の認識に大きなすれ違い・誤解があったのではないか。この点はドラマを考えるうえでの大事なポイントです。そこで「吃又」で描かれた又平の「吃り」のドラマ的な意味を考えてみたいのですが、この件は民衆に長く親しまれた改作版の「吃又」を見れば、明確に理解が出来ると思います。改作版の「吃又」では、絵抜けの奇蹟の後・将監が手水鉢を刀で真っ二つに斬る、すると又平の吃りが治ってしまうのです。将監はこの件を次のように説明しています。

『ホホウ疑はしくばいひ聞かさん。そのむかし都誓願寺の御仏は賢聞子(けんもんし)芥子国といひし人。親子名乗りのその印。片形作り合せし御仏なりしに、しかるにこの仏体、朝暮両眼より御涙しきりなりしに、時の名医これを考へ、五臓を作り込んだる仏体なれば、正しく肝の臓の損じならんと、二つに分けてこれを直せば、たちまち涙止りしこと、いまの世までも割符の弥陀とナ、コリャ隠れなし。この理をもって又平が魂込めしこの絵姿、絵は吃らねど吃るは舌。舌はもとより心の臓。その心の臓調はざるゆゑ口吃る。いま石面の又平を二つに切破るこの将監。絵師の手のうち、なか/\思ひよらねどもコレ、この刀は主人より給はる名作。その名作の奇特をもって心の臓を断切ったれば、吃ることはよもあらじ』(文楽での改作版「吃又」床本)

江戸の民衆の「吃りは神経の伝達回路に何らかの問題があるから起きる、回路に適切な衝撃を与えれば吃りは治るはずだ」と云う理屈は、これは(正しいかどうかは別として)当時なりの科学的思考であったと考えるべきです。吉之助はここに、師・将監が又平は未だ画において功績なしとした理由と、又平の発声障害とが重ねられていると見るのです。又平は絵描きとしての技量は確かに備えていたでしょう。しかし、何らかの問題があって・又平は内にあるイメージを自在に表現することが、未だ完璧に出来なかったのです。それは或る種の吃りみたいなもので、そこに絵師又平の内なる問題があったわけです。又平が死ぬ覚悟をして(つまり内的な衝撃を受けて)虚心に筆を取った時、又平は画の極意を掴んだのでしょう。この時に絵の石抜けの奇蹟が起きます。

このように考えれば、「吃又」は又平の芸術家としての成長物語として読めるはずです。今回(令和8年1月浅草公会堂)の「吃又」は六代目菊五郎型(ほぼ近松の原作に近い形)ですから・節が付いた台詞ならば吃らないということで・メデタク大頭舞で舞い納めて終わりますが、原作での近松門左衛門の吃りの理屈も改作版と同じであったと思います。多分改作版は、近松の原作をもっと分かり易く書き下したのですね。(この稿つづく)

(R8・1・22)


3)演者の個性を取るか・型のコンセプトを取るか

前述の通り、橋之助(又平)・鶴松(おとく)のコンビは、ほのぼのとした夫婦愛を描いてメデタシメデタシ、芝居の後味は悪くありません。芝居を見終わって「又平よ、土佐の名字が戴けて良かったなあ」と云う気分にさせられます。歌舞伎の「吃又」は、純朴で・人の好い・そしてちょっとそそっかしく滑稽なところもある又平の人柄が民衆に長らく愛されて、人気狂言になって来たのです。このような従来からの歌舞伎の又平夫婦のイメージを、橋之助・鶴松の夫婦はどこかで継承しているように感じますね。殊更剽軽さを強調する風でもないのに、ほのぼのした夫婦の雰囲気が浮かび上がってくるところは、恐らく橋之助・鶴松のコンビの持ち味としてあるものでしょう。これはこれでいいものです。

しかし、そうすると又平の剽軽な要素を意識的に削ぎ落した今回(令和8年1月浅草公会堂)の六代目菊五郎型であると、若干の齟齬を感じなくもないのです。又平の芸術家としての成長物語と云う側面が弱い感じがします。特に自死を決意するにまで至る過程での、師に対する又平の態度の偏屈さ・頑迷さの表現が弱い。ここが弱いとせっかくの六代目菊五郎型が生きて来ないのです。又平は「師が認めてくれない」ことばかり不満に思っていて、「師が又平の何が不足と感じていたか」まで考えが及びませんでした。(そこに師と弟子との認識のすれ違いがある。)又平の内に在って・外へ迸らんとする表現意欲を正しい方向へ制御する術を又平は未だ持ちませんでした。(だから師将監を納得させることが出来なかったのです。)橋之助の又平は、このような又平の内に潜む「過剰性」を感じさせてくれない不満がありますね。又平の状況を女房も「共有」していると云う意味に於いて、鶴松のおとくにもそこに注文が生じます。

但し書きを付けますが、橋之助・鶴松のコンビによる又平夫婦は、むしろ純朴で愛嬌のある又平の人柄を前面に押し出した従来型の「吃又」で演じた方が、その持ち味が生きたのではないかと云うことが言いたいのです。ところが今回の「吃又」は六代目菊五郎型でしたから、そこに若干の齟齬が生じてしまうことになる。つまり演者の個性を取るか、型のコンセプトを取るかと云う問題なわけですが、再演の時はその辺を二人してよく話し合ってみては如何でしょうか。

(R8・1・26)

(追記)18日に女房おとく役の鶴松が休演。千秋楽(26日)まで莟玉が代役を勤めました。


 


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