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浮世又平の過剰性について〜二代目吉右衛門の又平

平成29年4月歌舞伎座:「傾城反魂香・吃又」

二代目中村吉右衛門(浮世又平)、五代目尾上菊之助(女房お徳)、五代目中村歌六(土佐将監)


1)ここに土佐の末弟

杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」に出て来る有名な話ですが、三代目竹本大隅太夫が三味線の名人・二代目豊沢団平に初めて稽古をつけてもらった時のこと、「吃又」の「ここに土佐の末弟、浮世又平(うきよまたへい)重起(しげおき)といふ絵かきあり。」の文句で、「末弟」の発声が団平の気に入らず、朝から晩まで「ここに土佐の末弟」ばかり言わされましたが、団平は三味線を構えたばかりで、とうとう「トン」の撥をおとさず、団平いわく、「大隅よ、お前の語るのを聴くと、どうも下手になった気がして、どうも打たれぬ。お前が天性芸が上手なので、私がこうまで弾けぬのではないかとも思って、今思案をしているところじゃ」と云われて、大隅は廊下の板張りに身を突っ伏して、大泣きに泣いたということです。後に大隅太夫は名人となって、「吃又」といえば大隅と言われるほどの、得意演目としました。

山城少掾は「あんな怖い浄瑠璃はようやれまへん」と言って、遂に「吃又」をやらずに終わりました。それは大隅太夫の、この逸話のせいであったようです。山城少掾が逃げたのではないです。山城少掾は必死に勉強したと思いますが、これほど修行をしても満足に語れぬ浄瑠璃であると畏れ入ったまま、遂にやる機会を失ってしまったのです。

そこで「ここに土佐の末弟」の文句のことですけれど、どこがどうして怖い文句なのか。昔のことになりますが、吉之助もその怖さがどこにあるか、その意味がよく分からないまま、ずっと考えたものでした。歌舞伎でも文楽でも「吃又」をやる度、吉之助は「ここに土佐の末弟」を息を詰めて聴きますが、みなさんサラリとやってらっしゃいますねえ。一体、どこが怖いのか。サラリとやってらっしゃるお方が上手いのか。それが分からぬ吉之助が駄目なのか。随分考えたものです。今では一応、吉之助なりの見解を持ってはおります。それが正しいのかは分かりませんが、今回はまずそのお話をいたしましょう。

「浄瑠璃素人講釈」では、「末弟」の「イ」という産字(うみじ)が息に力なきために団平の気に入らず・・・とあります。これしかヒントがありません。産字とは、ある音(おん)を長く伸ばす時に、伸ばされて残る母音の部分のことを言います。例えば「し(SHI)」を長く伸ばすと、「し〜ィ」となって「イ」の母音が残ります。それが産字です。末弟」は「まってい」とも「ばってい」とも読むけれども、義太夫の「吃又」では「ばってい」と語ります。恐らく「まってい」であると、最初のMの子音が舞台では飛んでしまって聴こえないので、「ばってい」と語るのでしょう。しかし、「ばってい」だと最後が産字になりませんねえ。これは「吃又」では、「い」の字をはっきり言ってはいけないのです。聴いた感じでは「ばって」か「ばってっ」に近いですが、「ばって」だと「え」が産字になってしまうので、これでは違います。多分、「ゑ」(「い」と「え」の中間音)が近いと思います。これを産字とする。表記するならば「ばってゑ」となるかも知れません。(正確に表示するなら「ゑ」を小文字にしたいのですが、そのようにお読みください。)

そこで「浄瑠璃素人講釈」の上記の逸話をラジオ・ドラマ化した安藤鶴夫の「義太夫・芸阿呆」(八代目竹本綱太夫・十代目竹沢弥七・作曲演奏・昭和35年文化放送)の録音を参考にしたいと思いますが、ここで団平の台詞として、こうあります。

「あかんあかん、それでは、ツンと撥がおろされへん、よう聞きなはれ」
「ええか、いい切りが悪いよってに、わて、ツンと打てへんがな。ええか?」
「あかん!末弟の、イの字を押すのやないいうてんねんに」
「あかん!あかん!イの字を止めるのや」

これはドラマですから、団平は親切にいろいろヒントを与えてくれてますが、実際の稽古はこんなものではなかったようです。団平は「あかん」と云うだけで、何にも教えてくれない。大隅はじっと考え込んだまま長い沈黙が続き、やがて意を決したように大隅が「お願いいたします」と云う。団平が三味線を構える。「ここに土佐の末弟」と語ると、団平が「あかん」と云う。この繰り返しが延々と続いたのです。教わる方は地獄ですが、教える方も地獄です。

吉之助がこの録音を知ったのは、十七代目勘三郎がこの録音をベースに舞踊化した「義太夫・芸阿呆」の舞台(昭和56年1月歌舞伎座)でのことでした。十七代目勘三郎には忘れ難い舞台がいくつもありますが、個人的にはこの時の大隅太夫を勘三郎ベスト五役のひとつに入れたいくらいなのですがね。この舞台で吉之助はここに土佐の末弟」のことが何となく掴めた気がしたのです。ちなみに、この録音は今ではCDになっていて入手が可能です。(この稿つづく)

安藤鶴夫原作・義太夫「芸阿呆」~名人三代目 大隅太夫~

(H29・4・28)


2)ここに土佐の末弟・続き

『ここに土佐の末弟、浮世又平(うきよまたへい)重起(しげおき)といふ絵かきあり。生れついて口吃り、言舌明らかならざる上、家貧しくて身代は、薄き紙衣(かみこ)の火燧(ひうち)箱。朝夕の煙さヘ一度を二度に追分や、大津のはづれに店借りして、妻は絵具夫は絵がく、筆の軸さへ細元手上り下りの旅人の、童すかしの土産物三銭五銭の商ひに、命も銭もつなぎしが・・・』

「傾城反魂香・土佐将監閑居の段」(通称「吃又」)の詞章です。このここに土佐の末弟」の文句が、どうしてそんなに重いのか。ちょっと見ではほんの軽い一節のようにしか見えませんが、一体どこがそんなに難しいのか。朝から晩までここに土佐の末弟」ばかり語らせて、どうして団平はそんなに大隅にしごいたのでしょうか。

吉之助はずっとこのことを考えてましたが、多分、こういうことだと思います。浮世又平は本来ならば、土佐将監の「末弟」であるはずがないからです。土佐将監には何人弟子がいるか分かりませんが、芝居に出て来るのでは、又平の他に、彼より明らかに年若い修理之助がいます。だから普通に考えれば修理之助が末弟であるはずです。しかし、事実は修理之助が末弟ではなく、又平が末弟の扱いを受けているのです。どうしてそうなってしまったのか、その理由については後で考えることにします。兎も角、又平はこの扱いを情けないことだと感じています。(注:ここは又兵衛が師匠に対して怒っているとか不満を持っているとか、決して考えてはなりません。)又平はこの扱いに決して納得はしていないし、そこに甘んじているわけではないですが、しかし、又平は自分が末弟である現実を認めなければなりません。又平は自分が情けなくって仕方ないのです。

「義太夫・芸阿呆」の録音を聴くと、綱太夫の「ここに土佐の末弟」の「末弟」 (ばってゑ)の音遣いは、吐き捨てるようにとでも云うか、とても強く発声されています。ここに土佐の末弟」の文句に、又平の口惜しさと云うか、自分に対する情けなさが滲んでいるのです。

付け加えますが、又平の自分に対する情けなさと云うのは、しょぼんと肩を落として涙を流すという弱いものではなく、芸に対する自分の未熟さに対する強い憤りとでも云うものです。それが綱太夫の「末弟」(ばってゑ)の強い音遣いに現れます。だから個を主張しようとしてそれが実現できない弱い己を叱咤するものと捉えて欲しいと思います。これは吉之助が云うところの、「かぶき的心情」の発露なのです。「吃又」では最後の最後に又平の筆にこもった一念が奇跡を起こすわけですが、それは後でのこと。

「浄瑠璃素人講釈」の話に戻りますが、団平に「大隅よ、お前の語るのを聴くと、どうも下手になった気がして、どうも打たれぬ。お前が天性芸が上手なので、私がこうまで弾けぬのではないかとも思って、今思案をしているところじゃ」と皮肉を言われて、大隅は廊下の板張りに身を突っ伏して、自分の情けなさに大泣きに泣いて、その後にここに土佐の末弟」を語ったら、団平は三味線の撥を「トン」と叩いて「でけた」と云ったそうです。自分の芸の未熟さに対する大隅の情けなさと、又平の情けなさが重なって、ここに土佐の末弟」の音遣いに人情が表出できたということです。まあ芸道の話と云うと、人情噺か根性噺みたいな、このような話が多いですねえ。師匠を仰ぎ見つつ、ストイックに芸道を追い求める大隅の姿に何だかツーンと来てしまいます。其日庵は大隅の思い出話をする時には、いつでも目に涙を浮かべていたそうです。

そこでここに土佐の末弟」の文句が重いということは大体理解できたとして、どうして又平が末弟の扱いを受けねばならないのか、師匠土佐将監が又平はまだまだ未熟だと判断する理由と云うのが何かあるはずです。そのことを次に考えてみたいと思います。(この稿つづく)

(H29・5・2)


3)浮世絵の始祖

ところで江戸時代の民衆が浮世又平のモデルと信じていたのが、岩佐又兵衛(通称:浮世又兵衛)でした。岩佐又兵衛(天正6年〜慶安3年)は実在の絵師で、つい最近までその存在が忘れられていて、美術史のなかで又兵衛のことが語られることがほとんどありませんでした。しかし、砂川幸雄著:「浮世絵師又兵衛はなぜ消されたか」(草思社・1995年)をきっかけに、このところ又兵衛の再評価が始まっています。(別稿「岩佐又兵衛と吃又」を参照ください。)又兵衛は、フィレンツエのヴェロッキオ工房のような独自の工房システムを持っていて、そこで絵を制作していたようで、その遺された作品群は題材も筆致もバラエティに富んで、画家としてのイメージも一筋縄で行かなそうです。そして近松の浄瑠璃 「傾城反魂香・吃又」の流行とともに、「浮世」が「浮世絵」と重なって、又兵衛は浮世絵の開祖と考えられるようになりました。「浮世絵類考」にも、又兵衛は浮世絵を始めた人で大津絵の元祖でもあると書かれています。どうも江戸時代の人々は、素朴な大津絵が発展して、その後の浮世絵の元になったと考えたようです。このような俗説も、実は浄瑠璃「「傾城反魂香・吃又」から発しているのです。

砂川幸雄:浮世絵師又兵衛はなぜ消されたか

だから俗説には違いないですが、「吃又」浮世又平は浮世絵の元祖であると思って芝居を見れば良いのかも知れません。大津で土産物の絵を描いて暮らしていた・しがない絵描きが、大和絵の師匠に立派な絵描きだと認められて、出世して浮世絵の元祖になりましたとさと云うお芝居であると、江戸時代の民衆はそう思って、歌舞伎の「吃又」を見たのです。このことはこの頃の歌舞伎の解説にあまり出て来ないようですが、とても大事なことだと思います。「吃又」は、誰もが愛する浮世又平の出世物語として、ハッピー・エンドが予測された芝居でした。現在上演される「吃又」の六代目菊五郎型はシリアスな方向に傾いていますが、昔は、特に上方芝居では、又平を三枚目に仕立てて滑稽なドタバタの入れ事で見せたものでした。それも理由がないわけではなかったのです。

もちろん近松は「吃又」 のなかで又平を浮世絵の元祖としてはいません。浮世絵の歴史を見ると、元禄時代の少し前の1670年代末頃(延宝8年頃)に、当時の風俗を墨一色で摺った墨摺絵が登場して、その直後から浮世絵という言葉が出て来るようです。近松の「傾城反魂香」は宝永5年(1708)竹本座での初演ですから、この頃はまだごく初期の墨摺絵の浮世絵の時代でした。ちなみに色摺り浮世絵が登場するのは、もっとずっと後の、明和2年(1765)のことになります。「吃又」が歌舞伎の人気演目になったことが、その後の世間の又平浮世絵元祖説に大いに貢献したことは疑いがありません。

一方、大津絵の歴史を見ると、寛永年間(1624〜43)に近江大津の追分辺りで、誰が始めたのか、独特の仏画を描いて、旅人に絵を売り始めたのが始まりであるようです。描き手は名もない人たちであったらしく、もちろん無款でした。最初は大津絵とか追分絵とかの呼び名もありませんでした。大津絵の題材は、仏画としては阿弥陀仏、十三仏、青面金剛、不動明王など。世俗画としては、藤娘、文読む女、女虚無僧、槍持ち奴、鬼の寒念仏、瓢箪鯰などがあります。

芭蕉の作として「大津絵の筆のはじめは(や)何仏」(元禄4年・1691)という句が有名です。これは「大津絵の絵師は正月の書初めに何の絵を描くのだろうか」と云う意味です。この芭蕉の句が、文献的には「大津絵」という言葉が登場する最初であるそうです。恐らくその頃から大津絵という呼び名が世間で次第に使われるようになってきて、宝永5年の近松の「吃又」の頃には、もう定着していたのだろうと思われます。

そこで「吃又」で、どうして又平が末弟の扱いを受けねばならないのかという問題に立ち返りますが、それは「吃又」冒頭の詞章を見れば分かる通り、又平は大和絵の土佐将監を師匠として修行をしながらも、その傍ら大津絵を描いて生計を立てていたからです。(この稿つづく)

(H29・5・6)


4)師匠の気持ち

「吃又」のなかで、どうして又平は末弟の扱いを受けねばならないのか、発声障害の故なのかということですが、吉之助が丸本を読む限りでは、土佐将監が又平に印可の筆を与えないのは、発声障害は確かにハンディキャップであるに違いないですが、一番の理由は又平は絵においてまだ功がないと見なされてきたからです。将監はこう云っています。

修理は只今大功あり。おのれに何の功がある。琴棋書画は晴れの芸、貴人高位の御座近く参るは絵かき。ものをえ言はぬ吃りめが推参千万。似合うたやうに大津絵描いて世を渡れ。』

『汝よく合点せよ。絵の道の功によって土佐の名字を継いでこそ手柄とも言ふべけれ。武道の功に絵かきの名字、譲るべき子細なし。』

将監が又平は絵の功がないと見なした理由のひとつは、又平が大津絵を描いて生計を立てていたからです。将監は、又平がアルバイトに精を出して、本業の大和絵の修業に身を入れていないと見たのです。将監が現在置かれている状況を考えれば、将監が又平に対して何故怒っているのか分かります。

『コリャこの将監は、禁中の絵所小栗と筆の争ひにて、勅勘の身となりたるぞ。いまでも小栗に従へば、富貴の身と栄ふれども、一人の娘に君傾城の勤めさせ、子を売って食ふほどの貧苦を凌ぐは何故ぞ。土佐の苗字を惜しむにあらずや。』

自分は勅勘を受けた身であるが、ライバルにへつらえば一応の生活ができるのにそれもせず、一人娘に君傾城の勤めをさせねばならないほどの貧苦に堪え続けているのは、土佐の苗字を惜しむからだぞと将監は云っています。前後の段を見てみれば、何やら政争があって将監はそれに巻き込まれて勅勘を受けたようです。政治力で負けたのであって、絵の力量で負けたのではない。だから将監はやせ我慢を続けているのです。師の自分が、土佐の名を惜しんで、これほど貧苦に耐えているのに、弟子のお前は生活が大変だからと云って大津絵のアルバイトに精を出すとは何事かと云うことです。これは将監が怒る気持ちも分からなくはありません。

又平の発声障害については、将監は「厄介なことだなあ」とは思っていたでしょう。しかし、将監が又平に印可の筆を与えないのは、それが一番の理由ではないのです。又平にはまだ絵の道の功がない。それが証拠に大津絵のアルバイトに精を出してるじゃないかと、将監は又平のことをそう見ていたのです。(この稿つづく)

(H29・5・10)


5)師匠の気持ち・続き

修理之助が手柄を立てたのを見て、又平は自分にも何か功を立てさせてくれと懇願しますが、将監は聞き入れません。又平があんまりしくこいので、将監も思わずカッとして脇差に手を掛けます。すると又平がさあ切ってくださいと背中を向けて座り込みます。ここで将監が嘆息して云う台詞が、「こいつ師匠を困らせおるわい」です。

戸板康二は、「すばらしいせりふ」のなかでこの台詞を挙げて、特に名せりふとも云えないが、脇役が上手いと特に耳に残る台詞だと書いています。芝居の世界では、その昔は「困る」ことを「将監」と内々に言ったそうです。今回(平成29年4月歌舞伎座)での歌六が演じる将監は、この「こいつ師匠を困らせおるわい」がとても良かったですね。

戸板康二:すばらしいセリフ (ちくま文庫)

「こいつ師匠を困らせおるわい」という台詞には、将監が「まいった、まいった」と云う気持ちと、又平に対する師匠としての愛情がよく出ています。もともと将監は又平が憎いわけではないのです。そもそも師匠と云えば親も同然、弟子子と云えば子も同然という関係なのですから。それにしても、又平にはちょっと将監がたじろぐような過剰性があります。それは我が強いということでもあり、情熱が強いということでもあり、生一本ということでもあり、悪く云えば融通が効かない、頭が固いということでもありますが、とにかく内面に籠もったまま吐き出せないで胸のなかに詰まった思いが人一倍多過ぎるほどに多いのです。それが分かるだけに将監にとってはいじらしくもあり、そこが煩わしくもあるということです。もちろん結果的にはその過剰性が絵を抜ける奇跡を引き起こすることになるのですが、まだそれは後でのことです。将監には知る由もありません。(この稿つづく)

(H29・5・12)


6)又平の気持ち

「吃又」の舞台を見て生じやすい誤解は、又平が出世できないのは発声障害のせいだ、そのために又平は将監に不当な差別を受けると云う見方です。劇評でもそんなようなことを書いているものを見かけますが、誤解ですねえ。そのような誤解は、例えば又平のこんな台詞から出て来ます。

「(将監に対し)モモモもうし、モモもうし/\、エエさりとては、ゴゴゴゴ御承引ないか、ゴゴゴゴ御承引ないか。吃りでなくばココかうはあるまい。エヽエヽエヽエヽ恨めしい。咽ぶえを、カカかき破ってのけたいわい女房ども、サヽヽヽヽさりとはつれないお師匠ぢゃ」(又平)

又平のこの台詞を受けて、将監も「不具の癖の述懐涙不吉千万。相手になって果しなし」と云うようなことを確かに言っています。しかし、これは会話の流れからそうなっているだけのことです。将監は又平の発声障害を嫌って差別しているのではありません。将監の本意は、次の台詞にあります。

『汝よく合点せよ。絵の道の功によって土佐の名字を継いでこそ手柄とも言ふべけれ。武道の功に絵かきの名字、譲るべき子細なし。』

又平を出世させるか否かは、あくまで絵の道の功に拠る、又平にはそれがないと、将監は言うのです。ここをしっかり押さえておかねばなりません。そうでないと、「吃又」のドラマが全然違う方に行ってしまいます。そうだとすれば、又平が「吃りでなくばココかうはあるまい。エヽエヽエヽエヽ恨めしい。咽ぶえを、カカかき破ってのけたい」と嘆くのは、何故なのか。ドラマを素直に読むならば、その答えは簡単です。

自分の気持ちを素直に正直に、言葉で上手く表現が出来ない。だから師匠に自分の気持ちを伝えられない。だから師匠に自分の気持ちを分かってもらえない。これも俺の発声障害のせいだと又平は嘆いているのです。師匠を責めているのではありません。自分の気持ちを正しく伝えられない自分の不幸を嘆いているのです。

感情が高ぶった会話の勢いで、又平が「さりとはつれないお師匠ぢゃ」と言い、将監が「不具の癖の述懐涙不吉千万」と言い返す。そんな会話の詰まらぬところに引っ掛かるから、要らぬ誤解が生じます。「吃又」のなかで又平が引き起こす奇蹟、これに感動して又平に土佐の名字を与える将監のことを考えれば、正しい読み方はひとつしかありません。(この稿つづく)

(H29・5・15)


7)反魂香の奇蹟

「反魂香」とは焚くとその煙のなかに死んだ者の姿が現れるという不思議なお香のことを云います。その典拠は中国の故事にあります。唐の詩人・白居易の「李夫人詩」のなかに、漢の武帝が最愛の李夫人を亡くした後、道士に霊薬を調合させて金の炉で焚き上げたところ、その煙のなかに李夫人の姿が見えたとあるそうです。近松の「傾城反魂香」という題名は、直接的には中の巻で狩野四郎二郎元信に嫁いだみや(昔は傾城遠山)が現れますが、実はみやは既に亡くなっており現れたのは亡霊なのですが、元信はみやの願いで香を焚いた寝室のなかで熊野三山の絵を襖(ふすま)に描いて、二人はこれを背に熊野詣での道行をする(三熊野かげろう姿)という場面から来ています。煙のなかに姿を現わす者(見られる者)とその姿を見る者の間の相互の強いポジティヴな思いをそこに感じることができます。

「吃又」の最初の場面に現れる虎は、「吃又」の場だけ見ると何の為に出て来るかさっぱり分かりませんが、その前の場面(江州高嶋屋形の場)において捕われの身になった元信が自らの肩を噛み・流れ出る血を口に含んで襖に吹きかけ・口で虎を描いたものが抜け出して・元信の窮地を救うのですが、この虎こそ「吃又」に出てくる虎なのでした。だから虎は、雅楽之助の登場で関連が何となく明らかになりますが、(傾城遠山の父である)将監に元信の危急を知らせようとして現れたに違いないのです。一方、「吃又」の奇蹟は、又平が自害しようとしてその前に「姿は苔に朽つるとも・名は石魂にとどまれ」と我が姿を手水鉢に描いたものが鉢の裏まで抜けたものでした。「吃又」の次の場(又平住家の場)では又平が描いた大津絵のキャラクターが抜け出して又平を加勢します。これすべて絵に関連した奇蹟です。どれも絵を描く者(絵師)の強い思い(芸術的な一念)がまずあって、絵師の強い思いを帯びて描かれた絵が生きて現世に抜け出るという経過を示しています。すべて絵師の一念が引き起こす反魂香の奇蹟なのです。

絵師の一念とその起こる奇蹟「傾城反魂香」に一貫する主題なのですから、「吃又」のドラマもその線で読まねばならぬと思います。吉之助が思うには、又平は頑固なほど真面目一方な男ですから、アルバイトで大津絵を描いても真剣に描いて、決して手を抜くことはなかったはずです。しかし、師である将監は又平が大津絵のアルバイトをしていることは知っていても、まだ又平が描いた大津絵を見たことはなかったのではないでしょうか。宮仕えの絵師であった将監としてみれば、旅人が旅の土産に買い求める市井の民衆絵など如何ほどのものとも思わぬと云う先入観(偏見)があるのも当然です。大和絵の修行もせず大津絵のアルバイトばかりしおって・・と将監は苦々しく思っていたでしょうが、絵師がその真剣な思いを以て描くならば、旅の土産の大津絵も、その価値において御殿の大和絵と何の違いもないことを、又平の手水鉢の奇蹟を見て将監は悟ったに違いありません。将監が又平の画業における功を認めて、又平に土佐の名字を与えたということは、劇中で素朴な民衆絵に過ぎないとされていた大津絵の価値が社会的に認められたことを示すものです。さらに江戸期の民衆は、その後の浮世絵の隆盛を重ねて見ていました。江戸期の民衆は浮世又平(=岩佐又兵衛)のことを、大津絵の価値を社会的に高めた絵師であり、その後の浮世絵の始祖であると信じていたからです。(この稿つづく)

(H29・5・21)


8)大津絵のこと

大津絵というのは近江大津の追分辺りで土産物として売られていた素朴な肉筆の仏画です。その絵は無落款であり、誰が書いたのか分かりません。描き手は絵師とさえ呼ばれぬ無名の人たちでした。大津絵の長い歴史のなかで実に多くの描き手が存在したでしょうが、そのなかで大津絵の画風(スタイル)のようなものが何となく決まってきます。誰が書いても同じような絵だから「個性がない」とも云えますが、総体として見れば、それは確かに「大津絵風」と呼べる画風を持っています。大津絵は底辺(民衆)から生まれたものでした。大津絵は素朴な民衆画ではありますが、描き手の気持ちがこもっているものならば、その尊さに於いてそれは如何なる芸術品にも劣りはせぬでしょう。江戸期の民衆は「吃又」の舞台を見ながら、そういうことを考えたと思います。

江戸時代というのは、町人文化の時代とも云えます。民衆のエネルギーとか創作意欲というのはいつの時代にだってあるものですが、そういうものが目に見える形となって下から突き上げるように現れるのは、江戸時代からのことです。それまでは民衆のエネルギーは、模糊とした形にならないものとしてはあっても、まだ明確な形になっていませんでした。「文化」とか「芸術」とか云うものは、上(為政者)から降りて来るものでした。江戸時代になると、それが下(主として町人階級)から湧き上がり始めます。芸能の分野においては、それは人形浄瑠璃(文楽)や歌舞伎であることはもちろんです。絵画の分野においては大津絵がそのような民衆の創作意欲の現れであると、近松門左衛門は認めたに違いありません。「大津絵なんて旅行客相手の土産物で、あんなもの二束三文の反古に過ぎない」という見方は当時も根強くあったに違いありません。それを師匠になかなか評価されない浮世又平の境遇に重ねつつ、「吃又」のなかで近松は底辺の芸術家たちの「気持ち」を正しく見つめていたのです。

「傾城反魂香」は宝永5年(1708)竹本座での初演ですから、 浮世絵はまだごく初期の墨摺絵の時代であり、後の色摺り浮世絵の隆盛を近松は知らないわけです。(色摺り浮世絵が登場するのは、明和2年(1765)のことです。近松が亡くなったのは享保9年(1725)のことでした。)したがって、近松が浮世又平(=岩佐又兵衛)を浮世絵の始祖としたわけではないですが、結果として近松は民衆絵の隆盛の方向を正しく予見したということになると思います。(この稿つづく)

(H29・5・29)


9)又平の過剰性について

本稿その5において「又平には将監がたじろぐ過剰性がある」ということを書きました。吉之助は、これが「吃又」 という芝居の鍵だろうと思います。又平は内面に籠もったまま吐き出せないで胸のなかに詰まった思いが人一倍多過ぎるほどに多いのです。絵に関することだけでなく、世の中のこと、人生のこと、その他さまざまなことに関する鬱々とした思いです。こういう強い思いは芸術家の創作の動機に繋がるものですから、それが強いことは芸術家には必要な要件です。しかし、これを制御し、ひとつの様式(フォルム)に昇華して作品として提示できなければ、芸術家としてはまだまだということになるのです。又平はこれまでにも良い作品を沢山描いたでしょうが、又平が師匠になかなか認められなかったのは、又平が内なる情念の制御がまだ十分でなかったからに違いありません。又平が死ぬと覚悟を決めてその前に「姿は苔に朽つるとも・名は石魂にとどまれ」と我が姿を手水鉢に描いた時、初めて又平は内なる情念を制御する技を会得したのです。描いた絵が手水鉢を突き抜けるという奇蹟がそのことを示しています。これを見て将監は又平を認め、土佐の名字を許します。それは又平が開眼して絵師としてもう一ランク上になったということです。「吃又」 をそういうドラマに読みたいと思います。

ですから又平の発声障害の件も、自分の気持ちを素直に、正直に、言葉で上手く表現が出来ない。だから師匠に自分の気持ちを伝えられない。だから師匠に自分の気持ちを分かってもらえない。これも俺の発声障害のせいだと又平は嘆くわけですが、抱えている様相はまったく同じで、どちらも根本的な問題が又平の芸術家・或いは人としての内面の制御というところに深く係わっているということです。それが証拠にこれは「吃又」の舞台を見ればすぐ分かることですが、又平が将監に認められて土佐の名字を授けてもらった後からは(つまり又平が内面の制御の奥義を会得した後には)、節が付いた文句なら又平はちゃんと語れますということになって、又平の発声障害はまったく問題にならないのです。

もともと吉右衛門は飾り気のない実直な人柄が浮世又平の仁によく合っており、これまでも優れた「吃又」の舞台を見せてくれました。しかし、今回(平成29年4月歌舞伎座)の吉右衛門がさらに良いのは、これを円熟の境と云うのでしょうかねえ、身体に無理な力が入っていなくて、ホントに又平その人に見えたことです。頑固で要領が実に悪いのだけれど、可笑しなことをするとか愛嬌で見せるとか・そういうことをするでもないのに何となく憎めない。そのような又平の人柄を自然体で描けています。

それと菊之助のお徳が良いですねえ。後半の、夫婦が死を決意してからの場面のお徳ならば、その情味と真剣さにおいて、どのお徳役者もそれなりのものですが、菊之助のお徳は前半がとても良いと思います。発声障害の夫をサポートして、しかもまったく出過ぎたところが ありません。吉右衛門の又平に対して、とてもバランスが良いお徳なのです。義父である吉右衛門からは、昨年の知盛を始めいろんな役の伝授を受けていると思います。吉右衛門の又平に お徳で付き合えるということが、菊之助にとってどれほどの糧となるかということは云うまでもないですが、ホントに順調に菊之助は貴重な体験を積んでいるなあと、それを見ている吉之助もとても嬉しく思いました。

(H29・6・1)




  
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