十代目幸四郎・初役の黒手組助六
令和7年4月歌舞伎座:「黒手組曲輪達引」
十代目松本幸四郎(花川戸助六・番頭権九郎二役)、八代目中村芝翫(鳥居新左衛門)、二代目松本白鸚(紀伊国屋文左衛門)、二代目中村魁春(三浦屋揚巻)、五代目中村米吉(新造白玉)、四代目中村橋之助(牛若伝次)、初代市村橘太郎(白酒屋新兵衛)他
1)世話の助六
本稿は令和7年4月歌舞伎座での、幸四郎の黒手組助六による「黒手組曲輪達引」の観劇随想です。安政5年(1858)3月市村座で、初めて座頭を勤めることになった四代目小団次がかねて念願であった助六をやりたいと言い出したそうです。ところが小団次は腕は立つ役者だが、小柄で悪声で美男でもありませんでした。渋い写実の役どころは良いが・とても助六の柄でないことは明らかでしたから、黙阿弥がなだめすかして、世話物が得意な小団次のために書き下したのが、この「黒手組助六」であったそうです。つまり本作は「世話の助六」なのです。歌舞伎十八番の「助六」を二重写しに見せるように作られているわけです。例えば三浦屋格子先の場の助六の台詞に、
『噂に残る花川戸のおらが親分の助六までは、仲の町の両側から馴染みの女郎が吸付け煙草で、煙管(きせる)の雨が降ったそうだが、時世(ときよ)とはいいながら、地から湧いたか足の先、安くされるも雁首が、銀の代わりの三度焼き、助六じゃねえ駄六だから・・・』
とあるのは、「馴染みの女郎が吸付け煙草で煙管の雨が」までを本格のツラネの調子(高調子)でしゃべって、「どうだい俺(小団次)が助六をやりゃあこんなものさ」と得意気な所を聞かせておいて、「・・降ったそうだが、時世とはいいながら」でガラリと世話の口調(低調子)に砕けて「いなす」。もしかしたら「落とす」かも知れないが、そこに黙阿弥の遊び心があると云うことでしょう。しかし、いずれにせよ「世話の助六」ですから、基調は世話に置かねばなりません。そこが大事なところで、基調は世話であるけれど・ここぞという時にキッと様式に張って、裏の世界が十八番の「助六」にあることを観客に感知させるのです。
そこで今回(令和7年4月歌舞伎座)の「黒手組助六」の舞台ですが、出演者がこの芝居を世話と時代のどの辺りに目論見を置いているのかよく見えて来ない印象ですねえ。これは助六を勤める幸四郎だけのことを云うのではなく、共演者の多くがどちらかと云えば時代っぽく重めの感触、多分「御所五郎蔵」辺りをイメージしている感じですね。まあそうなる事情は分からぬでもないけれども、傍らに十八番の「助六」を置いて・そのパロディだと称する時、これだと元ネタとの対照が際立たないではないか。そう云うことも考えてみて欲しいと思いますね。
別稿でも触れましたが、十八番の「助六」が世話物か時代物かは見方によって変わって来ます。ここに登場する事象はすべて「黒手組助六」と共通項になるものですから、これを元ネタとパロディとして二つの作品を切り分けるものは、結局演技様式(スタイル)の差異であると思います。そこをしっかり見極なければなりません。先ほど「いなす」じゃなくて「落とす」かも知れないと書きましたけど、だから「黒手組」は黙阿弥が描いた小団次批評にもなっているわけですね。小団次はそんな黙阿弥の機智をとても愛したと思います。
そこで助六を勤める幸四郎のことですが、毎度幸四郎の台詞の調子の置き方の問題を書いてますが、序幕で道化方の権九郎をニ役で兼ねるので・いつもの高調子はそちらに置いて、助六の台詞を低調子に持って行ったことは良いことでした。これで世話物の助六の段取りは立つかと期待をしましたが、幸四郎は世話の調子(低調子)が不徹底ですねえ。良いところもあるのだが、全体に何となく時代っぽく、世話の助六になり切れていない感じがします。そのくせ台詞を高めに張るところ(つまりそこは十八番の助六を想起させるところ)で声が細くなって力強さが十分出せていません。だから助六の腹の決め方が不徹底に見えて来ます。
幸四郎が助六の台詞を高めに張るところの言い廻しですけど、二代目松緑の「曲輪菊」の助六が参考になると思いますね。松緑も低調子の人でしたが、高い音を無理なく響かせた工夫は、二字目起こしの第1音をグッと腹に込めて低めに出して・中途半端なところに置かないと云うことです。これで高い第2音が無理なく出るのです。だから抑揚(イントネーション)の工夫が肝心なのです。この言い廻しで松緑は鎌倉権五郎や武蔵坊弁慶をも当たり役にしました。これら荒事の役どころは本来高調子なものです。ところが昭和の終わり頃の荒事役者と云えばそれは松緑のことでした。それはこの台詞術があったればこそです。幸四郎も低調子なのですから、松緑の台詞をよく研究することです。今のままで十八番の助六をやると、優美だけれどフニャと柔い助六になってしまうと思います。(この稿つづく)
(R7・5・25)
2)黙阿弥の小団次批評
「黒手組」は黙阿弥が描いた小団次批評であると先に書きました。例えば十八番では助六が煙管を足の指に挟んで意休に突き出す、或いは意休の頭の上に下駄を乗せるなど傍若無人の振る舞いを見せます。「黒手組」では立場が逆転して、今度は助六の方がされる側です。新左衛門の嫌がらせに怒りをたぎらせつつ・助六はそこをじっと我慢する、この「耐える」演技にこそ高島屋(小団次)の芸の真骨頂があるのだと云う黙阿弥の批評がそこに伺えます。十八番をただひっくり返しただけの趣向ではなかろうと思います。
そう云えば「黒手組」序幕・忍が岡道行の番頭権九郎のことですけど、今でこそ助六役者が道化方の権九郎を兼ねるのが約束事になっていますが、これは小団次を困らせるために権九郎のおふざけを書いたのかと思いきや、実はこれは黙阿弥がそのように当て込んで書いたのではなく、初演(安政5年・1858・3月市村座)で小団次が勤めたのは助六のみで、権九郎は坂東村右衛門という別の役者が勤めたのです。村右衛門はまるまる太っていて、舞台に登場するだけで観客が笑ってしまうほど愛嬌たっぷりの役者だったそうです。当時の江戸の芝居には脇にそんな芸達者がゴロゴロいたのです。その後本作は何度か上演されましたが、初めて助六と権九郎の二役を兼ねたのは、明治32年・1899・3月明治座での初代左団次が最初のことでした。それから二役兼ねるのが定着するまでにかなり時間が掛っています。このやり方が完全に定着したのは大正以降のことで、これは十五代目羽左衛門の助六のおかげと云って宜しいでしょう。
ここで吉之助はチラと思うのですが、初代左団次は小団次の養子であり、そのご縁から黙阿弥は左団次の後見人的な立場にありましたから、明治32年と云うともう黙阿弥は亡くなっています(黙阿弥は明治26年没)けれど、初代左団次が何の根拠もなく助六と権九郎二役を兼ねることは出来なかったはずです。つまりこの二役を兼ねることが、左団次の養父(小団次)に対する何らかの批評になっているのでしょうね。
この経緯から推測されることは、大正以後はスッキリしたいい男の代表格である十五代目羽左衛門が、十八番の助六でも・「黒手組」の助六でも、助六役者の筆頭とされるようになって行く(これは令和の現在でも続いている)ために、ネタ元である十八番と・そのパロディである「黒手組」との位置関係が、小団次がやる場合と羽左衛門がやる場合とでは微妙に変わって来ると云うことです。パロディの意味合いが変わって来るのです。折口信夫は羽左衛門の十八番の助六についてこんなことを言っています。
「(十五代目)羽左衛門は助六という役の概念を変えた人だ。(九代目)団十郎の頃の助六は頑丈だったが、羽左衛門になってからは弱々しいものになった。」(戸板康二:「折口信夫坐談)
吉之助はここで羽左衛門の「黒手組」の助六が間違いだと言っているのではありません。十八番と・そのパロディである「黒手組」との位置関係が正しく見出された時、ホントの「黒手組」の面白さが出せると言いたいのです。小団次の本領である生世話を意識すること、ここが肝要です。そこのところを幸四郎にはよっく考えてもらいたいですね。十八番の「助六」の確固たるイメージが決まらない令和の現代に於いては、「黒手組」が持つパロディとしての活力がなかなか感知し難いでしょう。今回(令和7年4月歌舞伎座)の「黒手組助六」でも、出演者がこの芝居を世話と時代のどの辺りに目論見を置くか、少なくともその辺くらいは明確に打ち出してくれないと、「黒手組助六」のどこがどう面白いのか観客には全然分からないことになると思います。
(R7・5・29)