八代目幸四郎の日向嶋・歌舞伎での再演
昭和47年11月国立劇場:「嬢景清八嶋日記〜花菱屋・日向嶋」
八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)(悪七兵衛景清)、四代目尾上菊之助(七代目尾上菊五郎)(景清娘糸滝)、五代目中村富十郎(佐治太夫)、六代目市川染五郎(二代目松本白鸚)(天野四郎)、二代目中村吉右衛門(土屋郡内)、二代目中村芝鶴(花菱屋女房)、二代目中村吉十郎(花菱屋主人)他
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1)日向嶋・歌舞伎での再演
本稿で紹介するのは、昭和47年(1972)11月国立劇場での、八代目幸四郎の景清による「嬢景清八嶋日記」半通し上演の舞台映像です。別稿にて取り上げた通り、幸四郎は昭和34年(1959)4月末の二日間・新橋演舞場で行われた「歌舞伎と文楽の提携による「嬢景清八嶋日記」の試演会(文楽の竹本綱太夫との歴史的共演)を行ないました。今回の舞台は、その13年後の再演と云うことになります。なお幸四郎が「日向嶋」の景清を演じたのは、上記2回のみのことでした。
今回の「日向嶋」の眼目は、前回(昭和34年演舞場)は文楽太夫(綱太夫)との共演であったものが・今回は歌舞伎の竹本(米太夫)に「戻っている」、だから歌舞伎ファンの期待としては、前回体得した「引き締まった本行の感触」を今回の舞台で「どれだけ再現出来るか」と云うことになろうかと思います。そのような観客の期待にも今回の舞台は十分応えられていたと思います。米太夫も幸四郎も頑張りました。そもそも「日向嶋」はあまり出ない芝居ですから直接的な比較が出来ませんが、いつもの歌舞伎の義太夫狂言と比べてみても、感触として適度な緊張感を以て芝居が進み、もたれたり・伸びたりした感じはほとんど見られません。「あの歴史的な綱太夫との共演の片鱗をそこに見た」と観客は十分満足したと思います。
それはそれで結構なことなのですが、当月筋書で幸四郎は次のようなコメントを出しているのです。これを読んで吉之助もちょっとビックリしました。
『(昭和34年の)演舞場の時は幸四郎が義太夫の尊さ・難しさを研究するための試演会であって、実のところ他人に見せるものではありませんでした。(中略)今度のはお客様にご覧に入れる「日向嶋」です。このように根本精神が違っているというケジメを、ご覧になる方にはっきり付けて頂きたく(中略)、今回の舞台を前回の延長ではなく、まったく別個のものとして見てくださいますように。』(八代目松本幸四郎:出演者のことば・昭和47年11月国立劇場筋書)
幸四郎が上記のようなコメントを出さざるを得なかったのは、役者と人形で間合いが異なるとか色々事情はあるにせよ・義太夫狂言の本来在るべき姿が歌舞伎の長年の「仕勝手」によって捻じ曲げられて来た、これを元の姿に戻そうとしたのが、前回(昭和34年演舞場)での綱太夫との実験的公演の意義であったと世間的に云われていたからでしょう。当時の劇評などを読んでも・そう云う感じのものが多いようです。
このような言説は決して的を外しているわけでもないのです。しかし、もしこの言説が全面的に正しいとすれば、最終的に槍玉に上げられるのは歌舞伎の竹本と云うことになるでしょう。「歌舞伎の竹本は正しくない(歪められた)義太夫を語っている」という誤解が生じることになる。このような誤解だけは絶対に避けねばなりません。歌舞伎の竹本が現在の形になった歴史的必然が厳然としてあるのです。それらをすべて「仕勝手」で片づけてしまうわけには行きません。そこで幸四郎としては一言クギを刺して置きたかったと云うことでしょう。幸四郎としては、「あの事はあの時だけの試み、今回のはまったく別個の事」なのです。このケジメが歌舞伎の竹本を守るために必要なことでした。
そうすると幸四郎にとっての前回(昭和34年演舞場)公演での意義はどこにあったか?と云うことになりますが、このことは今回(昭和47年国立劇場)の「日向嶋」映像を見れば察せられます。
そもそも「日向嶋」の景清は義太夫狂言のなかでも屈指の難役であり、名だたる名優でも満足に成功した者はいないと云われているようです。天保年間の三代目歌右衛門の景清は、評判記に「しょせん今の役者に出来る役にはあらざるべし」と書かれたそうです。明治の九代目団十郎さえ「眠り景清」と揶揄されたくらいです。この理由を考えるに、「日向嶋」の景清は自らの両目をえぐって盲目であるが故に動きが極端に少ない、その一方で胸のなかに渦巻く情念は世界苦と背負ったかの如く凄まじい、このギャップを表現するに前半の景清の独り芝居に於いて重苦しい間合いを持たせることが至難であると云うことに他なりません。観客もまたこの間合いに耐えることが難しい。
恐らく幸四郎は、抑制された所作のなかで景清の情念を描き切るためには、本行(文楽)の息の詰め方を習得することが必須であるという考えに至ったのだと思います。とは云え・これは自分が木偶(人形)に徹するという意味ではなく、あくまで自分は人間(役者)であるわけですから、思い切って義太夫狂言初期の形態(本行と歌舞伎とのギリギリの初期状態)にまで立ち返ってみよう、そこから何かが開けるかも知れないと云うことであったと思いますね。だから、前回会得した本行の息の詰め方で以て、今度は次の段階として歌舞伎の義太夫狂言として「日向嶋」の景清をやってみようと云うことなのです。だから幸四郎は歌舞伎の義太夫狂言生成の過程(プロセス)を追体験しようとしたと云うことでありましょうか。(この稿つづく)
(R5・6・27)
「あの事はあの時だけの試み、今回のはまったく別個の事」とは云え、観客は前回(昭和34年演舞場)の経験をどのように糧(かて)としたか、13年後の歌舞伎からの解答(昭和47年国立劇場)を期待することになる。まあこれは仕方ないところですし、演じる方も覚悟の上のことだと思います。特に竹本(花菱屋:和佐太夫、日向嶋:米太夫)は「歌舞伎の竹本を仕勝手とは言わさぬ」という気概で掛かっており、引き締まった良い出来であと思います。
今回の歌舞伎版が前回とどこがどう異なるか、両方の脚本を突き合わせれば・今回新たに太夫から役者の台詞として渡した詞章が増えたことが確認出来るでしょうが、そう云うところを比較しても意味がないと思います。感心することは幸四郎が演じる景清の所作のひとつひとつが、義太夫の語りの息を逐一踏まえたものになっていることです。竹本の語りの箇所は景清が声に出して言わなくても、それは景清の内心から発せられる台詞である。幸四郎の景清を見ると、このことの意味が実感されます。したがって幸四郎の所作は、踊りの振りのような・詞章を形として表現して見せたものでなく、まったく自然主義的な演技として感知されます。この「息の詰め方」が、幸四郎が綱太夫との共演のなかで会得したものです。だから今回の役者の台詞が増えた歌舞伎版に於いては、幸四郎の景清は、前回よりも余裕を以てそれを行なうことが出来ていたと云うことではないでしょうかね。
ところで巷間誤解がありそうなので付け加えますが、「日向嶋」では、はるばる遠地から父を尋ねて娘糸滝がこの日向の地にまでやって来ます。景清は娘を冷たく突き放しますが、娘が父のために身を売ったと聞いて驚き、「船を返せ返せ」と狂気の如くに泣き叫ぶ、この場面が景清が改心する直接的なきっかけなのではありません。芝居の見せ場として大きなインパクトがあって・泣かせ所でもありますが、「日向嶋」のドラマの核心はそこにないのです。
景清は壇ノ浦で平家が滅びた事実を受け入れず、自分の不甲斐なさを責めて自らの目を潰しました。だから頼朝からの士官の申し出を受け入れることが出来ませんでした。源氏を恨み続けて、怨念で身を焼きながら日向嶋での日々を過ごして来たのです。そこへ娘糸滝が日向の地にやって来ました。景清は驚きますが、佐治太夫から「娘が相模の国の大百姓の嫁になる」(これは嘘なのだが)と聞いて、「平家の武将の娘が土百姓に嫁ぐのか」と怒り出します。まだまだ景清は平家源氏の恨みとか、武士の対面とか、そういう詰まらぬものに縛られて、親子の心情を素直に吐露することさえ出来ないのです。
ところが娘が父のために身を売ったと聞いて、初めて景清は娘糸滝が父を思いやる気持ちの強さと純粋さを思い知りました。景清はここまで娘に対して父親らしいことを何も出来ませんでした。それもこれも、自分が平家だ源氏だと云う立場に固執し、頼朝への恨みを捨てなかったことから来たわけです。娘の気持ちの純粋さに触れたことで、景清の気持ちのなかに「生身の人間らしい感情」が蘇って来ます。そうすると、恨みつらみに凝り固まっていた自分の身がつくづく恥ずかしく思われるのです。それが景清の、
「ああ恥ずかしや、歎きに本心を見とがめられし此のうえは兎も角も・・」
の台詞の意味です。この景清の台詞を、取り乱して泣き叫ぶ恥ずかしい姿を鎌倉からの隠し目付けである天野土屋の両人に見られたから、景清はそれで「ガックリと気が折れて」・頼朝の配下に従うことを心ならずも受け入れたと解釈することほど詰まらない読み方はありません。上記の台詞を正しく解釈するためには、前場で・花菱屋の亭主が言うことを思い出せば良いと思いますね。父のため我が身を売ってお金を調達したいという糸滝の話を聞いて、亭主がボロボロ泣いてこう言うのです。
『唐土の廿四孝に勝るとも、劣りはせぬ孝行心。誰がすき好んでこの里の勤めに出る者一人もなく、大なれ小なれ親のため孝行でない子はなけれど、そのなかにこの娘の孝行有難しとも奇特とも、この長などが口にかけるももったいない。(中略)こなたのような人に金出せば、出しながら俺も嬉しい、嬉しいわいの。』
花菱屋に登場する人達は、生きることの苦しみの底に在り・そこから救われたいと心底願っています。だから糸滝みたいな親孝行な娘がいると、この娘のために何かして応援してやりたいと思う、功徳を施すことで自分もまた救われたいと願うのです。救世願望なんて大層なものでないにしても、それは何か仏教思想の、民衆レベルでの素朴な受容であるのでしょう。前場である花菱屋はチャリ場っぽい軽い場のように見えますが、意外と大事な場なのです。この場に悪い人間は誰も出てきません。花菱屋の女房は意地汚なそうですが、その婆でもやっぱり良い心を持っているのです。このような人達の気持ちに後押しされながら、糸滝は日向嶋に来ていることを忘れてはなりません。だから娘糸滝の行為だけが景清の心を変えるのではないのです。人はみな心のなかに・この世に生きることの苦しみを思い・「救われたい」という願望を持っている。そのような気持ちにほだされるような形で、景清の心が自然に変わって行くのです。やはりこれは花菱屋の亭主が言う通り、廿四孝に比すべきドラマなのでしょうね。頼朝との和解がここから開けます。
今回(昭和47年国立劇場)の花菱屋亭主(吉十郎)は何も出過ぎることはしないけれど、訥々とした味わいを醸し出して・なかなか良かったですね。芝鶴の花菱屋女房もいい味を出しています。菊之助の糸滝も心情溢れてこれも良かった。花菱屋の場の出来が良かったことで、後場の日向嶋の意味が見えた気がしましたね。
(R5・7・1)