八代目幸四郎の景清・綱太夫との共演
昭和34年4月28日新橋演舞場:「嬢景清八嶋日記〜花菱屋・日向島」
八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)(悪七兵衛景清)、七代目大谷友右衛門(四代目中村雀右衛門)(景清娘糸滝)、二代目中村又五郎(佐治太夫)、六代目市川染五郎(二代目松本白鸚)(天野四郎)、初代中村萬之助(二代目中村吉右衛門)(土屋郡内)、二代目中村芝鶴(花菱屋女房)、八代目市川団蔵(花菱屋主人)他
(花菱屋:三代目竹本米太夫(歌舞伎)、日向島:八代目竹本綱太夫(文楽))
*この原稿は未完です。最新の章はこちら。
1)文楽・綱太夫との共演
本稿で紹介するのは、昭和34年(1959)4月28日新橋演舞場で行われた「歌舞伎と文楽の提携による「嬢景清八嶋日記」の試演会」の舞台映像で、八代目幸四郎が文楽の綱太夫・弥七と共演したのが話題となった公演でした。よくまあこう云う映像を残しておいてくれたと感謝したいですねえ。
歌舞伎と文楽の提携と云うのは、例えば「吉野山道行」などで文楽座が出演するという例はありましたが、役者が台詞を云う芝居での共演することは文楽ではずっと御法度とされており、長い歴史のなかでもこの「嬢景清」での幸四郎と綱太夫との共演が最初のことでした。当然のことながら、このことは文楽因協会でも議論になりました。綱太夫は緊急会議の席上で、
『今度の「日向嶋」では義太夫はあくまで独立した義太夫を語るので、俳優はその義太夫の内容を表現するために、従来の仕勝手に流れたやり方をせず、義太夫本来の動きを忠実に守って、そのなかから義太夫に描かれた人間を創造するというもので、例えば舞台上の人間の精神面心理面を描くのは義太夫の役目、台詞によって人間同士の葛藤を見せるところは俳優さんに十分芝居をしていただく、そうしてお互いにおかされることなく、一つの戯曲の表現に力を協せるところからどういう舞台が生まれるか、これまで誰もが試みなかった新しい舞台美を、生み出すことは出来はしないかというのが、この実験の当事者の狙いでもあり願いでもある。』(竹本綱太夫:「でんでん虫」)
という趣旨を説明して、「義太夫の文句は一言一句変更せず・語り口は決して妥協しない」ことを条件に全員の了解を得たそうです。
ところで別稿(これは令和元年・2019・9月・菊之助と咲太夫との「四の切」での共演の観劇随想です)で詳しく触れましたが、「文楽と歌舞伎の共演」と云うと「ホウその舞台は是非見てみたいねえ」と思う歌舞伎ファンは少なくないと思いますが、そう云う場合にみんなが期待することは、歌舞伎(役者)の仕勝手で不必要に引き伸ばされてしまった間(ま)を直してもらいたいとか、歌舞伎がカットしたり改変してしまった場面を出来るだけオリジナルに(正しい形に)戻してもらいたいとか、そう云うことなのです。つまり長い間着て汚れやシワが付いたワイシャツを、糊が効いてアイロン掛かったパリッとした感じに戻して欲しいと云うことです。
ここで観客の期待と現場の思惑とが食い違って来るようです。そのような期待を文楽の太夫にしてしまうと、「ちょっと待ってくださいよ、共演するとは言ったけど、そういうことじゃないんだよ」と文楽の太夫は言いたくなると思います。そのようなギクシャクとまで云わないまでも・「葛藤」が菊之助と咲太夫との共演でも伺えたことですが、これより60年前のことになる昭和34年(1959)ならば尚更のことです。演目がポピュラーな「四の切」(河連法眼館)ではなくて、今回は歌舞伎では上演が少ない「日向嶋」であったから、比較的「葛藤」が目立たないと云うことに過ぎないと思います。
このこと(葛藤)は、綱太夫との共演から8年後になる昭和42年(1967)5月国立劇場で今度は歌舞伎仕立てで「日向嶋」を上演した時の幸四郎のコメントからも察せられます。
『(昭和34年の)演舞場の時は幸四郎が義太夫の尊さ・難しさを研究するための試演会であって、実のところ他人に見せるものではありませんでした。(中略)今度のはお客様にご覧に入れる「日向嶋」です。このように根本精神が違っているというケジメを、ご覧になる方にはっきり付けて頂きたく(中略)、今回の舞台を前回の延長ではなく、まったく別個のものとして見てくださいますように。』(八代目松本幸四郎:出演者のことば・昭和42年5月国立劇場筋書)
幸四郎の上記コメントを読んで吉之助もちょっと吃驚したのですが、これは幸四郎が綱太夫との共演の思い出を否定しているのではないことは勿論のことです。幸四郎にとっては、「あの事はあの時だけの事、今回のはまったく別個の事」と云うことのみでしょう。しかし、「今回のはまったく別個」だと云っても、綱太夫との共演の経験が深いところで幸四郎に何らかの影響を及ぼしていることは、この時(昭和42年)の舞台映像を見れば察せられます。(追って観劇随想を書く予定にしています。)恐らくこれは日向嶋の景清だけのことではなく、吉之助が目にした役はそう多くありませんが、この後に幸四郎が演じた義太夫狂言の数々にも云えることでしょうね。そう考えると、改めて貴重な体験であったと思いますね。(この稿つづく)
(R7・5・30)
文楽は音曲としての義太夫の骨格を厳密に守りつつ人形を遣うものです。他方、歌舞伎の義太夫狂言では・そもそも人間と人形では間合いが全然異なりますから、義太夫の骨格を守ることはなかなか難しい。そこで相互に調整を図らねばならないことになりますが、このため義太夫の骨格が崩れてしまうことも起こり得ます。文楽から見れば、これが歌舞伎の「仕勝手」と云うことになります
今回(昭和34年4月演舞場)の「嬢景清」上演ではどうしたって幸四郎と綱太夫との芸の対決が注目の的になりますが、或る意味一番プレッシャーが掛かっていたのは、「花菱屋」の床を語った米太夫ではなかったかと思いますね。歌舞伎竹本として「いい加減なものは見せられない」、歌舞伎竹本を「仕勝手」とは云わせないと云う気持ちであったに違いない。もちろん「花菱屋」は役者の台詞が多いし、形式としてはいつもの歌舞伎の義太夫狂言なのです。歌舞伎であまりやらない場ですから・どこがどう違うと云うところまでは比較出来ないにしても、トントン運ぶ芝居のテンポの小気味良さと・いつもとちょっと違う役者の演技の引き締まり具合を見て、米太夫の「文楽に負けてはならじ」の気概をビンビン感じました。
それにしても痛感するのは、「嬢景清」に限ったことではなく・「忠臣蔵」でも「千本桜」でも同じことですが、役者の台詞・演技の兼ね合い・或いは歌舞伎独自の解釈・演出から手順の改変が積み重なって、文楽から見れば「仕勝手」と云われそうな場面は多々あるが、改めて見渡せば、歌舞伎は音曲としての義太夫の骨格を驚くほど真摯に守ってきたと云うことです。理由もなく本行をズタズタに改変するようなことは決してしなかったのです。だから歌舞伎のには「本行に対するリスペクト」がしっかりあるし、これがあるからこそ今回の幸四郎と綱太夫との実験が成り立つわけです。
ところで「日向嶋」の場は中盤に娘糸滝と佐治太夫が島に上陸して以降は必然的に会話がありますから・そこの地の詞章(台詞に当たる部分)を役者に渡すのは当然ですが、ここで気になることは、前半部で景清が磯辺に独り佇み・重盛の位牌を取り出して、平家一門ことごとく討ち死にしたなか自分だけが生き残ったことの不甲斐なさを述懐する場面です。果たして綱太夫がこの詞章のどこの箇所を景清役の幸四郎に渡すか。何しろここは景清の独り言で・会話ではありませんから、心のなかの台詞であるといえばそうも云える。とすれば一切の詞章を幸四郎に渡さないこともあり得るわけです。しかし、それではまるで幸四郎を木偶扱いすることになって、それでは歌舞伎と文楽の共演の意味が半減してしまう、そのような扱いが難しい箇所であると思います。例えばそれは、
〽身を掻き抓り挙を握り、落涙五臓を絞りしが。「ハア、不覚の繰り言。今日は御命日、先年祠堂金に渡されし三千両の功徳、唐土経山寺にては御追善、さぞ取り取り。今日本にて君がため、花一本水一滴、供養仕る者もなく成果てし、せめて景清は生き残つたる身の本懐。且つは御目見得のためと存ずれども、庵の内は臣が不浄の伏し所。畏れを存じ、石を七宝の仏壇と観じ、位牌を出だしこの飯を霊供に供へ奉る。此食色香味上供一切仏、昔の饗の膳、七五三五々三とも請けさせ給へ。とは言ひながら、如何に世に住み侘ぶるとも、手づから煮炊き調味して捧ぐる程の便りもなく、匹夫匹婦の竃を分けし栃の飯、木の葉の折敷萩の折箸。これが十善万乗の主、安徳天皇の外舅君、内大臣重盛公の霊供か。太政大臣清盛公の侍大将、悪七兵衛清が、供ふる膳か」とばかりにて、大地にどうど身を投げ伏し、聞く人なければ声を上げ、前後も知らず泣きゐたる、世の盛衰ぞ力なき。
の部分です。吉之助の手持ちの床本では便宜上「 」で括って台詞であるかに見えますが、綱太夫の丸本は句読点さえないものです。ここで赤字で示した箇所が綱太夫が幸四郎に渡したところです。
地の部分だから役者に渡すと云うような簡単なものではなさそうです。例えば「ハア、不覚の繰り言。今日は御命日・・」以下の地の部分は役者に渡しても良さそうに思われるのに、綱太夫はそうしないのです。逆に「庵の内は臣が不浄の伏し所。畏れを存じ、石を七宝の仏壇と観じ」の箇所を、綱太夫はどうして役者に渡すのですかねえ。どうやらそこが地か色かに関わらず、前後の流れにおいて・ここを役者に渡すと音曲の流れが途切れると懸念される個所はことごとく太夫が取ると云う考え方であったようです。吉之助は床本の詞章を読みながら考え込んでしまいました。義太夫は難しいねえ。恐らく幸四郎と綱太夫との間に、「この詞章は私に取らせてください」、「イヤそれは出来まへん」と云う緊張した対話が果てしなく続いたのであろうなと想像します。
ところが今回の「嬢景清」に演出スタッフとして参画した安藤鶴夫氏の証言に拠れば、
『太夫と役者に丸本本文の詞を配分せねばならないが、各当事者の間に意見の不一致を来す可能性が多分にある。これが最大の難関であると思っていたが、双方が別々に作ったプランを比べると、ここはセリフでしゃべる、ここは義太夫で語るという区切りがまるで符牒を合わせるようにピッタリ一致していたのである。これには驚いてしまった。今度の試みの成功は疑いないと思った。』(安藤鶴夫:「幕間」昭和34年6月)
とあります。安藤氏の証言がその通りであるならば、幸四郎と綱太夫との間に事前の考え方の擦り合わせが十二分に持たれたことは疑いないと思いますね。
(R7・6・3)