マリア・カラス〜表現者の「生きざま」
令和7年3月世田谷パブリックシアター:「マスタークラス」
望海風斗(マリア・カラス)、池松日佳瑠(ソフィー、ソプラノ1)、林真悠美(シャロン、ソプラノ2)、有本康人(トニー、テナー)、石井雅登(道具係)、谷本喜基(マニー、伴奏者)
脚本:テレンス・マクナリー、演出:森新太郎
*この原稿は未完です。最新の章はこちら。
1)カラスの「生きざま」を聴く
世田谷パブリックシアターへ、名歌手マリア・カラスを主人公にした「マスタークラス」というお芝居を観てきました。「マスタークラス」は1995年11月にニューヨーク・ブロードウェイ・ゴールデン劇場で初演されたストレート・プレイで、日本では翌年・1996年(平成8年)10月・銀座セゾン劇場で黒柳徹子のマリア・カラス役で初演されて大きな話題となったものです。当時の吉之助は仕事が忙しかったせいもあって、初演の舞台は見ていません。黒柳徹子が付け鼻をして(カラスは高い鼻が特徴的であった)熱演したことは雑誌で読んでよく覚えています。(その後再演もあったそうです。)今回は元宝塚の望海風斗(のぞみふうと)のマリア・カラス役で久しぶりの上演がされると云うことを聞いて、長年のカラス信者としてはやっぱり「これは見とかなきゃいけないでしょう」と劇場へ行った次第です。
ご存じの通り吉之助はオペラが好きで五十年来聞いてはいますが、残念ながらカラスは生(なま)で聞く機会がありませんでした。昭和49年(1974)秋のワールド・ツアーでの日本公演(ジュゼッぺ・ディ・ステファーノとのジョイント・リサイタル)の時は吉之助はまだ高校生で、NHKのテレビ放映で我慢せざるを得ませんでした。ちなみにその年の11月11日の札幌公演がカラスが公で歌う最後の機会となったものでした。
オペラ界に素晴らしい歌手は数多いですが、「マリア・カラスは特別の存在」だとするカラス信者は、吉之助だけでなく、世界中に数多くいると思います。しかし、世間で「カラス伝説」とか呼ばれるものは、それは声が良いとか・歌が上手いとか・解釈が優れているとか、或いは舞台での演技が素晴らしいとか云うことではなく、もちろんそう云うこともあるのですが、むしろ音楽以外の要素に拠るところが多いものでした。それはオペラ以外の、ファッションやジュエリーの話題やら欧米社交界のゴシップ話などを含んでおり、1950年から60年代前半までの、ほんの限られた十数年にも満たない期間に、カラスは巨大彗星みたいにアッという間に現れてアッという間に消えて行った、まさに「マリア・カラスという社会現象」でした。吉之助は世代的にその彗星の消えかかった尻尾の・ホンの終わり掛けのところを同時代で知っているに過ぎません。吉之助がカラスの名前を知った時には、既にカラスはあの圧倒的な声を失っていました。
吉之助の場合、欧米社交界でのカラスのゴシップ話などは後に伝記その他で読んで知った情報です。そういうことにさほど興味があったわけでもなく、「自分がカラス信者(ただのファンではなく信者)であることと、そのような興味とはまったく無縁である」と言い切りたいのは山々ですけれど、実はそうではなかったらしいこともホントはよく分かっているのです。恐らくカラス信者は誰でも「マリア・カラスは特別の存在である」とする論拠として、カラスが或る役を歌う時・カラスはその役を歌うのではなく「その役を生きる」と言うと思います。つまり聴衆はそこに「生きざま」を聞くのです。聞いているのはその役の「生きざま」ですが、多分そこにカラス自身の「生きざま」が重なっていると聞こえるのです。そこのところでカラスのゴシップ話が微妙に関連して来ます。
このことをもう少し考えてみます。普通ならば「その役を演じる」或いは「その役に成りきる」と云うと思います。この場合、歌手という主体は役という客体を演じるわけですから、主体と客体との対象関係がそこに常に存在することになります。「役が憑依する」であっても、主体と客体との関係は依然残っている気がします。しかし、「その役を生きる」と云う場合は、主体と客体の関係は消滅してしまい、両者が混然一体化することになるのです。ですからカラスを聴くと、どんな役であってもそれはまさにカラスでなければ有り得ない表現なのだけれど、同時にそれが「役そのもの」であることもまた疑いないと云うことになる。だからまさにカラスの「生きざま」を聞いたと云う感覚になるのだと思います。
但し書きを付けますが、歌手であっても・役者であっても、優れた表現者と云うものは・程度の差やスタイルに違いはあれど、何らかの形で表現者の「生きざま」がそこに反映しているものです。そう書くと、何もカラスだけが特別なわけではないと云うことになるが、これほど「生きざま」が強烈に迫ってくる事例は、やはりカラスを置いて他にはないと思いますね。
もうひとつ大事なことは、「生きざま」が強烈に反映することが「表現として正しく・優れている」ことのように聞こえたかも知れませんが、実際には必ずしもそうでないと云うことです。それでは表現として押し付けがましく・「独り善がり」で未熟なものになることが、これはしばしば起こることですし、多分その方が圧倒的に多い。これほど「生きざま」が強烈に迫って来て、なおかつ「然り、その表現しか有り得ない」と納得させられてしまうことは、ホントに滅多に起こらないことです。カラスがその稀有な例であることは疑いがないことです。(この稿つづく)
(R7・4・25)
マリア・カラスのオペラ歌手としての音楽的評価については関連本も多く出ていることですから・そちらに譲るとして、吉之助は歌舞伎の批評家なので・ドラマ視点で印象に残る録音を、その膨大な録音のなかから、いくつか挙げておきたいと思います。オペラのなかで・どうして「マリア・カラスが特別の存在」なのかが分かると思います。
・まずマスカーニの歌劇「カヴァレリア・ルステカーナ」全曲盤(1953年8月・EMI録音)からサントッツァの歌唱をお聴きいただきたい。前半のサントッツァのアリア「ママも知る通り」から・それに続く婚約者トュリドゥとの言い争い・哀願、遂にトュリドゥに呪いの言葉を叩きつけるに至る約20分。(この録音の32分辺りから。)筋の詳細は分からなくても・まあ聞いてみてください。
言うまでもなく「カヴァレリア」はヴェリズモ・オペラ(現実主義オペラ)の最初の作品ですが、歌唱という・写実とはちょっと異なる表現手法(どちらかと云えば反写実的手法である)から、斬れば涙と血が迸るような生々しい表現がこれほどまでに可能なんだと云うことを、カラスとディ・ステファーノの二重唱ほど教えてくれるものはありません。翻って吉之助は「歌舞伎におけるヴェリズモ」と云うことを常々考えていますが、写実と様式のエッジが立つこと(写実と様式のせめぎ合い)の極意は息の詰め方にあるのだと云うことも、これは他の録音と比べて聴けば、感覚として理解出来ると思います。付け加えますが、他の録音を引き合いに出して・それを貶める意図はまったくありません(歌の表現として聴くべきものが必ず何かあるはずです)が、何と言いますかねえ、このカラスとステファーノの二重唱は、オペラという概念(言い方は悪いが・型通りの「歌芝居」というイメージ)を飛び越えて・完全に「ドラマ」の範疇に入り込んでいると思います。ここに吉之助が夢見る歌舞伎表現の原イメージがあります。
・ヴェルディの歌劇「リゴレット」全曲盤(1955年9月・EMIスタジオ録音)からジルダの歌唱も聴きものです。第3幕フィナーレでのティト・ゴッビのリゴレットとカラスのジルダの二重唱が何とも凄まじい。(この録音の74分から約10分。)
他の場面でのジルダはどちらかと云えば大人しく・清純なイメージ(ヴェルディはアリア「慕わしき人の名は」ではとてもシンプルな美しい旋律を付けています)ですが、父親が娘を汚したマントヴァ侯爵に対する復讐を宣言すると・これに対し娘の方は驚くほど激烈な反応を示すのです。最後の2分間くらいのカラスのジルダの表現をお聴きいただきたいですが、清純なイメージをかなぐり捨てて・生々しい女の感情表現を吐露しています。この場面の歌詞を忘れてカラスの歌唱だけを聴くならば、これはまさに勝利の宣言に違いありません。彼を守るために私は死ぬのだという勝利宣言、彼女が何をするつもりかこの時点では分かりませんが、第4幕でジルダはそれを実行することになります。ジルダはその悦びに倒錯しているのだと分かる、これはまさに「かぶき的心情」の表現なのです。これと似たようなキャラクターを歌舞伎に求めるならば、「曽根崎心中」のお初、「摂州合邦辻」の玉手御前辺りでしょうか。或いは「妹背山」のお三輪もそうかも知れませんね。
・女優カラスを知るためには、遺されたプッチーニの歌劇「トスカ」第2幕映像(1964年9月ロンドン)でのトスカの演技を見ることをお勧めします。(こちらご覧ください。)この時期のカラスの声は50年代前半の全盛期からはちょっと・・かも知れないが、これも芝居巧者のゴッビのスカルピアとカラスのトスカのぶつかり合いは、これが映像で残っていることを神に感謝したくなるほど素晴らしいものです。この映像で見られるドラマのリアルさ・生々しさは、オペラという・或る意味反写実の手法であるのに、恐らくストレート・プレイでこの場面をやったとしても・この映像の足元にも及ばないと感じます。むしろ音楽があるからこそ一層ドラマティックなものになるのです。ドラマに於ける写実(リアル)とはこう云う事だと実感できます。このことは例えば歌舞伎の義太夫狂言についても同じことが言えます。
ちなみに大抵の場合トスカはナイフを握ってスカルピアが近づいてくるのを息を止めて待ち構えている(つまり殺意があるわけ)のだが、カラスのトスカはスカルピアが近づいてくるのを身をよじって逃れ・反射的にテーブルにあるナイフを掴んでスカルピアを刺す(つまり殺人は衝動的であって明確な殺意はないことになる)のです。(この稿つづく)
(R7・4・27)