二代目巳之助と初代隼人の「鞘当」
令和7年2月歌舞伎座:「其俤対編笠〜鞘当」
二代目坂東巳之助(不破伴左衛門)、初代中村隼人(名古屋山三)、六代目中村児太郎(茶屋女房)
1)「鞘当」の趣向
本稿は令和7年2月歌舞伎座での、巳之助の不破・隼人の名古屋による「鞘当」の観劇随想です。東京での「鞘当」上演は令和3年8月歌舞伎座以来のことですが、その時は歌昇の不破・隼人の名古屋の組み合わせでした。本稿はその時の観劇随想の続編みたいなものです。
四代目南北が「鞘当」で仕組んだ「趣向」とは、元禄歌舞伎から続く重要なキャラクターである不破伴左衛門と名古屋山三を文化文政の当世風俗のなかに放り込んだと云うことです。これは南北お得意の「綯い交ぜ」という技法です。つまり時代が世話に刺さり込むことの奇矯さ・面白さを狙っているのです。文化文政期と云うのは、「成田屋の荒事なんて単純で内容がなくて、もう時代遅れでツマらない」という声が出始めた時期でした。当時の役者評判記にもそんなことが書かれています。初演当時33歳で不破を勤めた七代目団十郎は、このような雰囲気を察知してケレン早替りをやったり・色悪をやってみたり、試行錯誤の真っ最中でした。歌舞伎十八番の制定もそのような七代目団十郎の危機感から生まれたことでした。そのような時代に出来たのが、この「鞘当」なのです。
と云うことは、「遠からん者は音にも聞け」と不破が大時代に声を張り上げることが「皮肉」に聞こえませんかね?これは「相変わらずカッコ付けて古臭いことをやってるねエ(苦笑)」と云うようなものです。そんな生世話の芝居のなかのミスマッチが南北の「趣向」の意図するところです。だからここぞと云うところで大時代が目立つように芝居を運んで行かねばならないのであって、最初から最後まで様式ベッタリでやっていたらダメであることは分かると思います。
「天保十二年のシェイクスピア」は井上ひさしが「天保水滸伝」にシェイクスピアを綯い交ぜした作品ですが、2005年(蜷川幸雄による演出での)上演の時に隊長役を勤めた木場勝己が、井上ひさしに「ちゃんと時代劇をやってね。(新劇俳優は)シェイクスピアネタに引っ張られ勝ちだけど、「天保水滸伝」をネタにしているのだから、パロディにするためには・そこをしっかりやらないとダメなんだ」とアドバイスされたそうです。「鞘当」の趣向に於いても同じことだと思います。
ですから「遠からん者は音にも聞け」に始まる有名な渡り台詞はもちろん元禄荒事のツラネの様式を引くものですが、決して元禄歌舞伎そのままであってはならないわけなのです。様式ベッタリの台詞回しであっては困る。元禄のキャラクターがタイムマシンで当世吉原に現れたことのミスマッチの感覚、擬古典的な衒(てら)い、これがあってこそ南北の「趣向」が生きるのです。
しかし現行歌舞伎に於いては「鞘当」は「大した内容がないので・古劇の様式美と役者の容姿を愉しめばそれで良い芝居」と云う位置付けをされています。こうなってしまったのには・それなりの歴史的背景があるのだが、それにしても様式ベッタリの「鞘当」を見ると「もっと生きた芝居に出来ないものかねえ」と溜息をついてしまうのです。(この稿つづく)
(R7・2・9)
2)揺れ動く感覚
「鞘当」は、元禄歌舞伎の様式を衒った文化文政期の現代劇です。だから芝居のなかに、古(いにしえ)と今の、様式の揺れ動きが感じ取られねばなりません。しかし、今回(令和7年2月歌舞伎座)の舞台に限りませんが、現行歌舞伎で見る「鞘当」は伝統にどっぷり浸って・いわゆる「様式美」を売り物にしていますから、そう云う様相がなかなか見え難い。様式美なんて最初見た時はちょっとビックリするかも知れないが、これが同じ調子がダラダラ5分も続けばだんだん眠たくなって来る、だからそうならないように何かを常に「揺らさなきゃいけない」のです。揺らし方にもいろいろあると思います。台詞ならばテンポの緩急を大きく付ける、声の調子の高低を変える、声量を大きくしたり・小さくしたり変化を付けるなど、いろいろ工夫は出来ます。所作についても同じことです。
世話と時代、写実と様式、いろいろ尺度はありますが、こうすれば世話・こうすれば時代という定形図式があるわけではありません。例えば速度をゆっくり取るならば・普通は時代の感覚になることが多いと思いますが、世話の感覚になる場合だってあります。早い遅いそれ自体に意味があるわけではなく、意味付けは状況に拠るのです。それよりも「揺れ動き」のリズム感が大事です。一つ所の感覚に留まっていてはいけません。何でも良いから揺らしてみれば良いのです。それによってドラマに生きた感覚が生じてきます。
巳之助(不破)も隼人(名古屋)も児太郎(留女)も、登場した時の印象はなかなか良いです。これはやるかと期待しましたが、如何せん演技が様式ベッタリで、同じ調子がダラダラと続くので、見ているこちらがだんだん疲れて来る。ドラマを生きた感覚にするために、料理の味わいをピリッと引き締める香辛料の最後のひと振りが必要です。それだけでも受ける印象はかなり変わって来ると思いますけどね。今は「らしく」勤めることで精一杯かも知れないけれど、この次にやる時のために、どんな場合であっても「生きた人間を演じたい」という気持ちは保持して欲しいと思います。
(R7・2・13)