(TOP)     (戻る)

六代目時蔵・初役の八重桐

令和6年7月大阪松竹座:「嫗山姥」

六代目中村時蔵(萩野屋八重桐)、五代目尾上菊之助(煙草屋源七実は坂田蔵人時行)、初代中村萬太郎(腰元お歌)、初代中村壱太郎(沢瀉姫、初代片岡孝太郎(白菊)、中村鴈治郎(太田十郎)

(六代目中村時蔵襲名披露)


1)八重桐の心情を考える

本稿は、令和6年7月大阪松竹座での、六代目時蔵襲名披露の「嫗山姥」の観劇随想です。新・時蔵は先月(6月)東京歌舞伎座で襲名披露を終えて、今月は引き続き大阪での襲名披露となります。八重桐は初役だそうですが、「嫗山姥」は三代目・四代目時蔵襲名披露でも上演され、五代目時蔵(つまり初代萬寿)も演じて、時蔵家には縁が深い演目です。本年(令和6年・2024)は近松門左衛門没後三百年という節目の年でもあり、ご当地大阪ということで選ばれたものでしょうか。

ところで6月歌舞伎座での萬寿の襲名披露狂言として「山姥」が上演されました。筋としてはこれが「嫗山姥」の後日談にあたり、足柄山の金太郎(後の坂田金時)の逸話に登場する山姥が、かつて人間であった時の・それ以前の経緯、「どうして山姥はお山へ籠って厳しい環境下で金太郎を育てることになったのでしょうか」の仔細を「嫗山姥」が説明する形となるわけです。そこには遊女八重桐とその夫・坂田蔵人時行との悲しい物語がありました。と云っても「嫗山姥」はそれを湿ったタッチで描いているわけではありません。近松は表向きカラッとしたエンタテイメントに仕立てています。とは云え、京都の遊女八重桐が東国の足柄山に独り籠って金太郎を生み育て・山姥(当時の人々はそれを山中に潜む妖怪と見ました)と化したということであるから、そこに込められた八重桐の思いにはさぞ凄まじい感情が渦巻いたであろうと思います。

まあ吉之助は別に「嫗山姥」を見る時にそういうことを考えるべしと言うわけでもないのです。しかし、坂田時行が自らの不甲斐なさを恥じて自害して、わが魂八重桐の胎内に入りて稀有な勇者となって転生せんと願う・その心に時行の悲痛な思いがあるわけで、その心情をしかと受け止めたいと思います。さらに妻・八重桐はこれを受けて山に籠り・山姥と化して金太郎を育てる、その強い思いのなかに夫を絶望の淵に追い込んてしまったことへの八重桐の深い悔恨が見られる、そこのところもしっかり受け止めたいと思います

いわゆる「しゃべり山姥」の軽妙な語り口は、夫とのなれそめを語りながら、これを傍で聞く時行に対して「当てこする」ものです。その語り口はカラッと軽妙であるけれど、むしろ語り口が軽妙であるからこそ、聞いている時行にはグサリと突き刺さります。さらにめざす敵を妹白菊が先に討ってしまったことを知らされて、時行は愕然とします。

「ソレ/\/\それは悉皆気違ひか。討つに討たるゝほどならば、頼光様に油断があらうか。彼等は威勢真最中討たれぬ仔細があればこそ、日蔭の御身となり給ふ。こなたが今駈出して心易く首取らうとは、重ねて恥がかきたいか。コレこなたが今までいたづらで娘をころりと堕したと、首をころりと落すとは雲泥万里」と恥しむる。

娘をコロリと落とすのと、敵の首をコロリと落とすのは大違いよ、アナタにそんなこと出来るはずがない」と、女房にここまで言われては夫は立つ瀬がありません。つまり八重桐は「言い過ぎてしまった」のです。だから八重桐には夫を自害に追い込んでしまったことへの、強い悔恨があるに違いない。その強い思いがなければ、八重桐が長い山中の生活に耐えて山姥と化すことは出来なかったと思います。八重桐は金太郎を育て上げ・都に送り出して、夫の遺志を見事果たしたのです。

このように「嫗山姥」の筋は考えようによっては・重苦しい情念の物語にもなりかねない題材なのですが、近松はこれをカラッとした感触のエンタテイメントに仕立てました。だから観客は「アハハそんな経緯で足柄山の金太郎が生まれたわけなのね」でもちろん結構なのです。実際「しゃべり山姥」の語り口は軽妙です。その軽妙さ・というか率直さ(ストレートさ)のなかに、夫に対して言ってやりたいことは沢山あるが、言ってしまえばそれでスッキリして後腐れがない、そんな八重桐のさばけた性格が現れているのかも知れませんね。ですから八重桐は夫をそこまで追い込む気など毛頭なかったのです。しかし、これを聞く時行の方はそうでなかったと云うことです。だから八重桐の夫に対する怒りは分かるけれども、八重桐のしゃべりを聞きながら、「八重桐さん、もうその辺で許してあげなはれ」と観客が感じるならば、「しゃべり」は成功と云うことになるでしょうかね。(この稿つづく)

(R6・7・26)


2)八重桐の「しゃべり」

八重桐のしゃべりは、近松が当時の上方和事の名手・初代坂田藤十郎の「しゃべり」の雄弁術(これは立役のしゃべりですけれど)を人形浄瑠璃の女役に取り入れたものでした。これだけ聞けば「あっそう」みたいなものかも知れませんが、当時の歌舞伎の女形の台詞術はまだ完成していませんでした。この時代の女形はしゃべらせると男が見えてどうもいけませんでした。女形はあまりしゃべらせず・美しく着飾って踊らせていればそれで良いのだと考えられていた時代に、人形浄瑠璃のこととは云え・女役にベラベラしゃべらせたと云うことは、これは結構大胆な実験であったのです。初代藤十郎は近松を尊敬して、脚本を一語たりとも変えることを許しませんでした。一方、藤十郎の相手役であった名女形・芳沢あやめは近松に「この台詞は言い難いから語句を変えてくれ」と要求したことがあったらしく、一説には近松が歌舞伎から人形浄瑠璃へ移籍した遠因にあやめとの諍いがあったとも云われています。このような背景を考えれば、近松が八重桐に「しゃべらせた」のが如何に革新的なことであったか分かるでしょう。

もうひとつ大事なことは、藤十郎の上方和事とは「やつし」の芸である、「やつし」の本質とは「私が今していることは、本当に私がしたいことではない。本当の私は別のところにあって、今の私は本当の私ではない」と云う気分にあるのですから、八重桐の「しゃべり」も当然そのような気分を反映すると云うことです。ですから八重桐は夫とのなれそめを面白おかしく語り始めますが、実は煙草売(源七)に身をやつす夫時行に対する怒りで、これを目一杯「当てこする」のです。(前述のとおり、言ってしまえばそれで気分はスッキリして後腐れがないものですが、怒っているには違いありません。) 当てこすられた夫の方は、身の置き場のない気分でこれを聞くことになります。

武智鉄二が指摘する通り、現行歌舞伎の八重桐のしゃべりは、詞章を床(義太夫)に取らせる割合が高めなので、「仕方噺」と云うよりは「おどり」に近く見えるのは事実でしょうが、まあそれはそれとしても、上述の事情を踏まえれば、八重桐のしゃべりは「カラッと軽妙」なだけのものではなく、表現に変化を付ける可能性が随分出てくるものと思います。

そこで新・時蔵の八重桐ですが、時蔵の義太夫狂言への相性の良さは承知していますが・時蔵の八重桐が良い点は、「しゃべり」の息を踏まえて、「当てこすり」の変化を上手く付けていたことですね。夫にする愛情と、夫に対する歯痒さ・じれったさが交錯する気分がよく表現出来ていたと思います。そこに八重桐の「しゃべり」の表現の面白さの可能性を見せました。夫の魂が胎内に入ってからの幕切れの立ち回りも変化があってなかなか面白く出来ました。先月(6月)歌舞伎座での襲名披露のお三輪も悪くない出来栄えでありましたが、今回(令和6年7月大阪松竹座)の八重桐は時蔵ならではの長所を発揮して、将来を大いに期待させるものになったと思いますね。

今回(令和6年7月大阪松竹座)の舞台は襲名披露ということで顔触れも豪華に揃って、充実した出来栄えとなりました。菊之助の時行は神妙な演技で、自らの不甲斐なさを恥じて自害する気持ちが手堅く表現出来ていたと思います。

 

「嫗山姥」と直接的な関連はありませんが、山人(さんじん)・山姥のことを考える上で別稿「「紅葉狩」伝説のルーツを考える」」が参考になります。

(R6・7・29)


 

 

 


  (TOP)     (戻る)